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170827(Sun) 18:55:41

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4日目 12月25日

「巴帰っちゃったね」
「千世が変なこというからだよ」
「わたし、本気でした」
 正面に立ち見おろす目にじっと力がこもる。私は千世のそういうところが好きだった。好きなところをあげればきりがない。言葉や仕草のそれらどれもが彼女の存在を強烈にあらわしてる。意思のつよい目から有無をいわせない欲望の成就を、気弱になったときの瞳の揺れが愛おしさを伝えてきて私はその度に戸惑い、言葉を失う。見られていると頭のなかが支配されたように思考が鈍り、目のまえのことを追うので精一杯になってそれが怖くなる。私のそんな状態をみて何か言葉をかけてくれたり、体を触れさせて緊張をほどいてくれるのが好きだった。
 何をいっても彼女の意志を曲げられるとは思えず、曲げてしまい、私のいうことを聞かせたいとも思えなかった。私のいうことを聞きいれて欲しいとは思わない、それでいいはずなのにどうしようもなくつらくて目をそらした。
「それでも、いいよう、とかあるでしょう」
 こんどは何もいわずシンクにいってしまう。背後から水を汲む音と喉の動く音がする。握ったグラスを背後から取りあげられる。濃密な気配に息が詰まり、体を縮こめた。
「水、飲む?」
 体温が上がっているみたいで、冷えた水のはいったコップをつかむと手のひらに気持ちよかった。体がぼうっとして、千世がいるせいもあるけれど、頭がうまく働かない。体を動かす気力もなく空になったものを握っているとまた取りあげられ、一瞬あとには水の入ったものと取りかえられている。体温が上がるのと一緒に息も荒くなっているような気がする。意識して呼吸をしようとしても息苦しかった。
 目のまえで起きることすべてが高速で過ぎ去っていくような気がする。私の手から取りあげられたコップを置く音が遠くに聞こえ、すぐあとにまた腕が伸びて抱きしめられる。いつもと同じことだった。いつも私がするように、千世がするようにそうしているはずなのに、何もかもがちがっているようだった。
「わたしは、巴にひどいことをいったかもしれません。でも、巴のなかだけで決めて欲しくなかったんです。由海ちゃんと巴の仲いいのがよくて、わたしもそんな風になりたいって思いました」
 抱きしめられた腕が緩められ、頬に手をあてられる。彼女のほうを向くと顔が間近にあり、唇が触れる。彼女は目を閉じていて、私は彼女の顔をじっと見ていた。唇が離れたあとも目は閉じたままで、肩をつかむ手がときどき握りしめられる。何か言葉にしようとしていて、言葉がみつからないような顔だった。近頃そんな顔を見なくなった。出会ったころはよくそんな顔をしていたのに、いつの間にか。震える唇がやけに気になって指先で触れると、言葉にしようとするのをあきらめたのか、目を開く。酔っているせいもあるだろうけど、頬が赤くなり、瞳がうるんで、なんというか欲情したひとの顔はこんな風なのかと納得した。
「仲良しだったらこういうことする?」
「わかりません。こんな風な友情って初めてなので。でも由海ちゃんとはこうしたいって思います。巴とも。でも、そんな風にしたいって思うのはきょういきなりじゃなくて、もっとまえから、由海ちゃんとは初めてあったときからなんとなくそんな風に思ってたような気がします」
 続きをいおうとするのを唇に指先で触れてさえぎる。目を閉じかけて、眠たいような顔をされる。情念がしたたるようだった。
「私はね、千世が三人でっていったとき、なんとなく腑に落ちるような気がしたの。きっとこうなるものなんだってわかっていたはずだったのに、いままで気づきもしなかった。千世がそういってくれたからいままでわからなかったことがよくわかった気がする。きっと、こうしたいって思ってたんだって、きのう千世が私の服のにおいをかいでいたとき嫌な気持ちはしなかった。うれしいとかも思わなくて、あのときもだた納得したの。そのときはわからなかったけど、一日経ってわかった。千世に私のベッドで眠ってもらったのも、千世にそんな風になって欲しかったからだと思う。千世がキスしてくれるときの顔、そんな顔をしていて欲しいの」
 もう一度、こんどは私からする。私もそうだけど彼女も呼吸が浅く、鼻からもれる息がお酒くさかった。
「私とだけじゃ嫌?」
「嫌じゃないけど、怖い」
「怖いだけ?」
「そう。怖いだけです」
「じゃあ、私はシャワーを浴びてくるね」

 シャワーを浴びるとすこし酔いが覚めた。すすめたのは私だったけれどお酒を飲んだことはなかったし、怖かったのでふたりにつきあって口をつける程度にとどめていた。だから、あまり酔ってはいないはずだった。母はお酒のつよいほうだと思うしさっきあんなに酔った気分だったのはきっと千世がいたからだろう。千世があんなに真剣な目で見てくるから、雰囲気にあてられてしまったんだ。千世があんな目でみるから、私はあんなことをいってしまう。普段だったらごまかしの笑いを浮かべたりするはずだった、キスをされようとしても拒んだかもしれない、言葉をさえぎりたくてもあんなことはしないはずだったのに。私は巴と同じく千世とのあいだにも一線を引いていたはずなのに、そのこともすっかり忘れていた。
 部屋に戻り、新しい着替えと歯ブラシを洗濯機の上に置いておいた。
「由海ちゃん、いるの?」
「うん……でも、着替えとかおきにきただけだから」
 シャワーの音が耳に生々しく響き、はやくここから逃れたかった。洗面所のドアノブに手をかけると、
「……きのうみたいなことはもうしないから」
「気にしてないし、またしてもいいよ」
「ううん。もうしない」
 髪を乾かしたり爪をきったりしていたけれど、行く末のことを思い落ち着かなかった。服は、普段眠るときのようなTシャツとハーフパンツの格好でいたけれど、薄着をしていると服を身につけているはずなのに裸のように落ち着かない。部屋はしんとしていて、寒さが密着してくる。きっと暑くなるのだからと暖房はつけなかった。いいや、わからない、何もかもしたことのないことばかりをするのだから。服を脱いだら、肌をかさねていたって寒い思いをするかもしれない、寒かったらそのことばかり気になって集中できないかもしれない。きっと暑くなる、なんていうのは予想を立ててわかったような気になり、不安に支配されないようにしているだけだ。これから起きることに期待はしている、けれど不安のほうが大きかった。
 電気を消した部屋の、私のベッドに横たわっている。今朝使っていた客用の布団は朝のまま放ってある。感覚が際立ち、シャワーの音すら聞こえてくる気がする、かすかな明るさも眩しくてカーテンをぴったりと閉じた。六畳の部屋がやけに広く感じられる。ベッドと学習机とテレビと洋服ダンスしかない部屋のはずなのに、いつもは身に馴染む狭さなのに、いまばかりはすべてのものとものの距離が遠く、心許ない気分にさせられる。
 寝返りを打ち枕に頬をあてるとかすかに千世のにおいがする。どんな気持ちで私の服のにおいをかいでいたのだろう、体を投げ出したような格好でいるのに枕にしがみついて眠る姿を思いだすと愛おしいようで理不尽なほど高揚する。枕からは彼女のものと一緒にほこりっぽいようなにおいもする。母が帰ってこないのをいいことに客用の布団をリビングに敷いて眠っていたせいで、自室の寝具はしばらく干していなかった。こんなことになるなら干しておけばよかった。そんな予想を立てても仕方がない。そんなことをして欲しい気はしていたけれど、千世がきょう、あんなことをいうなんて思っていなかった。干したての布団のにおいに囲まれて私は千世の腕のなかにいるなんて想像はあまりに幸せなようで身の置き場がないと感じる。私は、そんな風な幸せの最中にはいれないと、あこがれているはずなのに、巴といるときにも思っていたのだった。
 よしなしごとを頭のなかで矯めつ眇めつしても無聊をなぐさめられる訳ではない。全身の緊張から訳もなく家中を歩きまわりたくなる。一昨年母のお下がりにもらってほとんど使うことのないまま押し入れにいれていたアロマディフューザーをひっぱりだしてみる。箱に入れたままだったので埃はかぶっていないし、水を入れるところも劣化していないようだった。千世は、いいにおいがしたらうれしくなってくれるだろうかと二の腕を顔におしつけてみたり、まだ水気のわずかに残る髪先を鼻にもっていったけれど慣れた私のにおいがするばかりだった。それともアロマよりも、今朝の彼女は私の寝具に身をおおわれて幸せそうな顔をしていた彼女には余計なことだろうか。ただ安らかな寝顔であっただけかもしれないけれど。千世は、においをかぐのが好きなのだろうか。彼女のよろこぶ顔はみたい、けれど何かしていないと焦燥感で頭がおかしくなりそうだったし、それに、よろこぶ顔ばかりでなくがっかりした顔や曇った顔もみたかった。
 アロマディフューザーからのぼる蒸気に指を通したり顔にあてたりして時間をつぶしていたけれど一分一秒が長く、痺れを切らしてお風呂に入りにいこうかと思ったころ、ようやく千世が戻ってきた。彼女はろくに髪を乾かさずにいて服に落ちた毛先がしみをつくっていた。そのまま放っておく訳にもいかず椅子に座らせドライヤーをかける。椅子は学習机のものだ。いままで彼女を自室に通さなかった。未来の私が、夜眠るときなどに彼女の不在をかぎつけ痕跡をものに結びつけられた記憶から呼び起こすのではないかと不安だったからだ。
「きっと由海ちゃんはこうしてくれると思ってた」
 ドライヤーの音のなかで過度に木訥な風にいわれる。
「何を?」
 水気をよく拭い、根元から毛先へと丁寧に乾かしてゆく。自分の髪にそんなことはしない、相手が自分よりも美しい千世だからというのもあるけれど、それ以上に不安から、事態に至るまでを引き延ばそうとしている。
「髪、やってくれるかなっておもったの」
 いまならまだ、やっぱりなし、ということはできるはずだった。そんなことをいうのはみっともないことで、体面や関係を気にしたりはする、けれどそれ以上に、不安は大きいけどやめてしまいたくなかった。彼女の背後に立ててよかった、気の遠のくほど心臓が痛く、指先が震えて仕方がない。震える指を見れば彼女は訳もなくその手で包んでくれるだろう。じっと見る目で、どうしたの、と口にはださずにうかがってくるのだろうから。
「乾かしてもらいたかったの……」ぼそりとばつの悪い言い訳をするように、独り言のようにいわれる。「そういうのって、愛おしさの表現みたいで、わたしは、由海ちゃんに、だから、そういうことをして欲しいって思った」
 過剰な言葉が私と同じことを感じていてくれるのだとシグナルを発し、絶大な安心に覆われた。
「でも、よくないよね。私ね、きょう巴と話してたんだ」彼女のいうことをよくききたくてドライヤーの電源をきった。途端に静かのなかに放りだされ言葉から感情が、手に取れるほど近くにあると思えてくる。「巴は、自分のことを話してくれた……物心のついたときから、それよりもまえから由海ちゃんと一緒にいたって」
 ぽつぽつと繰られる単語ごとの言葉が届く合間に湿った髪に指を梳かす。頭皮に指の腹でふれるとざらざらとする。戦慄く体で続きをいう。「それで、わたしは、由海ちゃんと巴にもっと仲良くなって欲しくなった。でもどうしたらそうなってくれるのか、それに巴が私のように思っていてくれるかわからなかった。それでもきょう、そうなってほしかった。お酒を飲もうっていったのもそうだったの、気持ちの箍がはずれてくれれば思っていることを巴はいってくれるはずで、わたしもいえるって、」
 体温から立ち上る熱がかぎ慣れているはずのシャンプーのにおいを巻きあげ私は一も二もなく千世に興奮していた。つらそうな声を聞かされ、私の言葉を差し挟みたくなんてなかったのに水を向けてしまう。いつもと逆だ。
「それで、あんなこといったの」
「そう。……それだけじゃないよ。きっと、もっといろんなことを考えていた。わたしは由海ちゃんとこれからするようなことをしたいって何度も思って、想像した。そういうことを考えると頭がおかしくなるくらい幸せになって、飢えでいっぱいになる。だから、そういうことをしたかったし、でも、怖かった。由海ちゃんとふたりになるのが怖くて、だから巴にも一緒にいて欲しかった。……こんなことがいいたい訳じゃないのに。こんなのほんとうの理由じゃない。もっと違うことを思っていたはずなのに、うまく言葉にできない」
 それからしばらく頑なに黙りこむ。続く言葉がみつからないのだろうか、きっとつらいだろう。彼女の感じることを解消してあげたいとは思わなかった、それなのにその思いの一端には触れたくて、そうしたら何もかも壊してしまうという予感はあったのに頭をつかみこちらを向かせる。そしてその顔が泣きだしそうなのがありありと見てとれてキスをした。
 軽く唇をつけるだけだった。それなのに瞼を固く閉じ緊張したところをみると、私のしたことなのにそんな顔をして欲しかった訳じゃないと気づかされる。
 うつむいた彼女の頬に手をあて、私をみせる。薄く開く目の睫毛が濡れ、これはきっと幸せなことのはずなのに赤い頬が、喜色をうかべていても泣きだしそうにみえてたまらなかった。小さな唇が言葉を吐きだすまえのように震え、千世がどう思っているかなんて知らない、ただ気持ちを抑えきれずに何度も繰りかえした。
「こういうことがしたかったの?」
「……それだけじゃないです」
 泣いているのではない。アルコールのせいか、しゃっくりをする。恥じるように指先を口元にあてるとさっきまでの雰囲気は霧消した。そして違うものがやってくる、不安から遠ざけたかった、けれど求めていたものが不意に眼前にあらわれる。
 消えたのは言葉の接ぎ穂をさがそうとする彼女だけで、恥じらいの最中に追いやられても泣きだしそうな顔は変わらない。その顔は私の決心を呼びこむ、力なく座る彼女の脇のしたに腕をさしこみ抱き上げる。お風呂あがりの湿った熱が胸から顔までを席巻してその感覚を味わった。最中何もいわない彼女の手を握り、指を絡め、私は私のしたいことに誘導する、数歩隣のベッドに千世の体を投げだす。一瞬舞いあがった髪がきらきらとするようだった。
「ねえ、千世はなにがしたかったの」
「……そんなの、口にだしていえることじゃないです」
「そんなにひどいことを私にしたかったの?」
「ちがう、けど、そうかもしれません」
 横たえた体に馬乗りになると千世の顔がよくみえる。よろこびから不安、恐怖に青ざめたり期待に輝く表情が一瞬現れ消えてが喋る間中にめまぐるしく変化する。
「何で読んだのか見たのかなんて覚えてないけど、こういうことをするのって夢のようっていうでしょう」もう一度頬に触れる。だけどこんどは私の意思を通すことなく撫でるだけにとどめた。濡れそぼった髪の束が指にひんやりとしている。「夢のよう、っていうけど、よう、じゃなくてほんとうに夢なんだね。ほとんど毎日夜毎に由海ちゃんのことを考えてた、したいことがたくさんあってそのときを待ち望んでた。でも夢だからぜんぶ忘れちゃう」
「一緒に、夢をみようよ。いまは夢のなかだからさ、千世の思うことをしていいんだよ、いまいるのは千世の夢のなかの私で現実の私じゃない。私には、千世がそうみえるから、千世もそうして」
「わたしは……」
 間延びした酔っ払いの口調で、言い訳を口にしようとするのを制したかった。
「するの」
 おずおずと両腕が伸ばされる、震えていて惨めったらしい、きっと私もそうだ。そうだとしてもいまは夢のなかにいて、不格好な行いに怯むことはない。怯懦から微笑む顔を両手で包みこみ大きな笑顔にする。掲げられた腕が希うようだと思う、私が千世のなかにいて欲しいと強く思った。
 私の両肩をとらえ、ゆっくりと抱き寄せられる。覚悟を決めて欲しくてまたキスをする。怯えは氷解して眦を決した表情が彼女の美しい顔を彩る。それから幾度となくキスをして、彼女のいうところの愛おしさの表現の一端がわかった気がする。肩口と首筋のあいだに顔を押しあてられすでにそうであったのにやにわに興奮させられる。髪を撫でるあいだに冷たい指先が私の服をたくし上げて首筋から胸元、お腹のあたりにまで頬や額をこすりつけられる。そうする彼女の姿は私の服を着ていて、体中からも私のにおいがする。もうひとりの私と相対しているような錯覚を覚える。手ずからのお菓子をたべさせるのと一緒で、彼女が私の一部になったような気がして異常な幸福感が到来した。
 何をする訳でもない、あれほどためらっていたのに千世のすることは私の想像する通常の域を逸脱しない、というよりあっさりとしたものだった。体中に頭をすりつけ、手を握り、その合間にキスをして、顔を上げて呼吸をすると息が白くなる。私の想像ではもっとすごいことをされるものだと思っていた、期待を外れたけれど、満ちたりた千世の顔がそれ以上に私を幸せな気分にさせた。
 けれどそんな幸福をもたらす仕草は中断される。千世は不意に体を起こしふらふらと体を揺らしている。カーテン越しの光に青ざめているのがわかった。
「どうしたの……?」
「ごめん、ちょっと吐きそう」
「何か、悪いことしちゃったかな……」
「ううん、体動かしてたらお腹のなかでたべたものとお酒が……」
 桶かなにかもってきたほうがいいのだろうか。そういえば、とこの場にそぐわないことを思いだす。幼いころの巴は体が弱くよく伏せっていて、ときどきいまの千世のように青ざめた顔をして嘔吐をしていた。小学校を卒業するころにはもうそんなこともあまりなくなったのか、わざわざ看病の真似事をすることがなくなったのか、彼女のそんな姿を見ることはなくなっていた。とにかく、桶を用意するかトイレに連れていくかしないといけない。
「もう吐きそう? それとも動けそう?」
「動けるけど……」
 トイレに連れてくることはできたけど、彼女はくるしそうに体を揺すり空嘔するばかりだった。震える背中を見ていることができず、はやく楽にしてあげたかった。
「口、あけて」
 憔悴した顔で見上げられる。大口をあけたところに指を差しいれた。やわらかな腔内の奧に触れ、舌の根に指の腹で触れた。ぬるりとした粘膜と唾液の熱さが苦しんでいる彼女をまえにしていても私を喜ばせる。もう片方の手で体温の低くなった背中を撫でさする。長い髪が顔にかからないように片手で束ねていて白い首筋がよくみえる。千世のいうとおりだと、こんなことをしているのが、弱っている彼女を助けているということが私にとっての愛おしさの表現だと思える。くるしそうにえずいていたけれどやがて嘔吐を始めるので指を引っこめた。
 千世はどうだろう、吐いたりするところを見られるのはあまり好きではないかと思い水を汲みに台所へ行った。電気はつけっぱなしにしていたので明かりに私の指の彼女の唾液が光ってみえる。すぐに洗い流せばいいものを、私はどうしたのか、濡れた指を口元に運んでいた。苦い味がしてようやく我に返る。さっきまでしていたことよりもなぜだかいまこうしているほうが恥ずかしく感じられる。私の服のにおいをかいでいたのもこんな感じだったのだろうか。気持ちを消し去るように流水でしっかりと手を洗った。
 彼女のもとに戻ると胃のなかのものを出しきったのか体を起こして壁にもたれて、私の存在に気づくと苦笑いを浮かべられた。
「水、のむよね」
「うん……」
 口のなかをゆすぎ、それからゆっくりと中身を飲み干す。まだ青ざめて涙の流れる顔がキスをするときと同じでやっぱり好きだった。
「もう一杯飲む?」
「ねえ、由海ちゃん」
「なに?」
「水はもういいよ。ねえ、こんなことになっちゃったけどさっきの続きがしたい」
「うん……」
「由海ちゃんがいいなら、これから裸になるのにお水をたくさん飲んだらお腹が膨らんじゃってみっともないから」
「うん……」
 強情だ、と思う。ただそんな彼女につきあいたく、思い通りにさせてあげたかった。「でも、水を飲まないで、続き、をしてまた千世が苦しんでるところは見たくないし、それに私も緊張して喉がかわいたからいったんお茶でも淹れようよ」
 喉がかわいているというのは嘘ではない、千世が苦しんでいるところを見たくないというのも嘘ではないけど、そればかりではなかった。彼女が苦しむのはつらいことだけど、腕のなかで余裕をなくしたところを見たいとも思っている。
 嘔吐をすると喉を傷つける、そういうときには牛乳や卵白を飲むといいらしい。冷蔵庫に牛乳はないけれどヨーグルトとホエーはあった。千世に夕食を振る舞うのはきのうが初めてで、いいところをみせたかったので普段はあまりたべないスペシャルな食卓にしたかった。食べ慣れているであろう和食よりも、洋食よりもどことなく特別な気がしたのでスープカレーとタンドリーチキンをつくった。そのときヨーグルトは水抜きをして使ったのでホエーが余っているのだった。ヨーグルトとホエー、蜂蜜、マンゴージュースでラッシーをつくってみる。これならきっと胃に優しいだろうし、喉もよくなるかもしれない。
「ラッシーってはじめてのんだけどおいしいんだね」
 コップの縁に口をつけたままいう、リビングのソファを背もたれにしてくつろぐ彼女の血色は普段通りとまではいわないけれどずいぶんよくなっていた。ミルク色の肌にバラ色の頬なんていいまわしがあるけれど普段の彼女はそれだった、美人である、けれど大輪の花のように華やかではない。大きな目にふわふわとした茶色がかった髪、けれど顔のパーツの配置は完璧な均整のとれたものではない、どちらかといえば眉や目や鼻は中心によりがちであるし、唇は薄く鼻と口のあいだに距離があいていて面長な風になっている。それでも左右の目の高さは同じにあり、髪のあいだから覗く小さな耳は可愛らしく映る。千世は、私と違い愛嬌のある美人だった。
 そんな風に彼女の見た目のよいところを並び立てるようなことを初めて思う。いままで美しい、可愛らしいひとだとは思っていた、惹かれる気持ちもいつしか抱いていた、それでもそのひとつひとつをあげて取りあうことはしなかった。
「どうしたの?」
 私の見る目をなんと思ったのだろう、視線に気づきそういう。
「千世、愛してる」
 彼女のコップに口をつけて喋るところをみていると、体の表面かどこかにある私と彼女を隔てる膜のようなものものが消え失せた気がした。気が緩んだとき、いままで思いもしなかったことを口にしている。急速に心許ない気分にさせられる、防御力が下がったような心地だった。
「……そう。わたしは、由海ちゃんのことをどう思ってるんだろう?」
 口にしてから、あとになってから気づく、いままで思いもしなかったことを。私は千世のことを愛していた、自身の為様をふりかえってみればそれらはたやすく行われていた。彼女のいうところの愛情の表現といわれるものを、愛しているという状態を自覚しないうちに、コップに口をつけるような仕草や生きるやりかたとして実践していた。
 自覚を得ると体が凍るように身動きをなくしてしまう。身に馴染んでいたはずのことのやりかたを忘れてしまう。
「愛じゃない気がする。わたしは愛してるからといって由海ちゃんにあんなことはしない。愛してるからなんて理由をつけて何もかもを施すようにしたりはしない」
 私と千世の境界はない。
「もう、いわなくていいよ」
 境界がないから、彼女のいうことがよくわかった。私の言葉はきちんと伝わっていない、けれど千世の思っていていおうとしていることを私だってしていたし、彼女のしないことをしないでいた。愛しているという理由からお菓子や食事をつくるのではない、施しているのではない、ただの行いとして為していることそれらすべてが愛をしているという結果になっている、それらの行為の境界が何か、愛しているとそうでないことをしているを隔てているものが何なのかはわからない、が、することすべてが愛を表現していた。
「私もそんなことをしてた。千世を太らせたいっていったの、あれは嘘なの。千世のことを初めてみたときから欲しいって思ってた。私のものにしたかった。千世は細っこくて、体重とかそれだけじゃないけど最初は消えちゃいそうなひとだと思ったの。だから太らせてちゃんとここにいて欲しかった、地に足をつけて生きてないような生きかたじゃなくて、ずっしりとした、安心できるものにしかたかった。私のつくったものでお腹を満たして、消化して細胞になって、しっかり隣にいる私のものにしたかった」
「……わたしね、いままで由海ちゃんには話さなかったけど打ち明けるよ。由海ちゃんの家にあがるようになってしばらくしたら体重が目にみえて増えててね、このままじゃいけないっておもって運動をするようにしました。きのう走ってたのもそう、家にいるときは腹筋や腕立て、スクワットもするようにしてる。だから、由海ちゃんのいうようにわたしは太らないし、運動するのをやめようとも思わない」
「ううん、それでいいの」
 千世の体は私の思い通りにはならなかった、けれど亡霊のような雰囲気は消え生きるエネルギーを発する剽悍な動物のように変化した。近寄り肩に触れると薄い脂肪のしたに筋肉があるのを感じられて、安心を得る。いつもするようなやりかたで背後に回りこみ細い体を抱きこむ、服のしたに手をさしこみ腹筋を撫でる。
「……わたしは由海ちゃんのものにはならない」
「それで、いいの……」
「由海ちゃんは由海ちゃん自身のことだけじゃなくてわたしのこともみて」
「これからはきっとそうできるよ……」
 振りかえれば私に友人といえるものは、親しい仲にいる人間は巴しかいなかった、物心つくまえからともにすごし、私は巴の一部であり、巴も私を彼女の一部にして不可分なものになっていた。それは千世とは違う方法で絶大な安心をもたらした。私は、互いが所有しあうやりかた以外で愛をする方法を知らずにいた。
 巴に私と同じ学年として高校へ通うため浪人すると告げられたのは彼女の卒業式の直前だった。直接伝えられはしなかったものの、私はそのことを知っていた。真冬のころ、毎晩のように巴と家族のいい争う声が壁を一枚はさんだ隣から聞こえていた。嵐のような激しさで、そのくせ私と顔をあわせるときには穏やかな風を装い、ときには憔悴もうかがえたけれど何事もないように振る舞うのだ。以前からそうであったしそれがあたりまえだったのに、もう逃れられないと悟った。いい争う声も平静さも恐ろしかったけれど、直接彼女から聞かされたときには喜びに支配された。なのにいざ私の受験がすぎ、入学式をむかえたとき、その心が離れていっていることを知った。異なる歳月や人間を同じにして共に生きるのには無理があった。千世と出会うまで違和は内心で大きくなり続けた。あまりひとに馴れる性質ではない、口数も多い訳でないので必然的に友人は少なかった。高校に入ってから新しい友人を作ることはなく、知らないひととの話しかたも忘れてしまっていた。友人を作らなかったのは、義理立てというのもあったかもしれない。誰にも話すことのない苛立ちを抱え、いつか彼女にどうして浪人なんてしたのと口にしてしまうのではないかと恐怖し続けた。口にすることはできなかった、そうすれば瞬間にすべてが変わってしまう。巴とすごした十六年が重く苦しいものに変質してしまうからだ。
「おととい巴と一緒に帰るときまでね、わたしは巴みたいに由海ちゃんの幼馴染みになりたいって憧れた、だから由海ちゃんのしてくれたことを巴にしてみたりもしたけど、いまはそうじゃなくて歳をとってから知りあえてよかったって思う。由海ちゃん、こんどは巴ともこういうことをしよう」
「うん。あした、それか冬休みのあいだに」
 もう一度、千世が先ほどいったようなことをいえばまた彼女は怒るだろう。それでもよくて、そのあとにはきっとよいことがあると信じられた。信じるだけで、未来がどうなるかなんてわからない。歳のひとつ違う彼女とどちらかの息の根が止まるまでを生きられるかなんてわからない、違う人間の二、三人が、まだ十六歳の私が死ぬまでの数十年は膨大な長さで、きっとまた私たちは巴のしたこと、私がそれを喜んだこと、のような過ちを犯すかもしれない。
「ねえ、由海ちゃん。髪を結んで。いままで知らなかったけど、ああいうことするときには結んでおいたほうがいいんだね、上にいると顔にかかって邪魔になるし、下にいると背中で踏んで痛い」
 その言葉から雰囲気が変わる。いままでの何もかもが変わってしまうのではない、普段の生活のすぐ隣にあるものが顔を現す。乱れた髪を手櫛で梳かし耳の後ろで結ぶ。白い首筋が露わになり、背骨のうえにキスをすると千世は喜ばしげに身を揺する。振り返った大人らしい顔立ちの彼女の幼げな髪型は可愛らしいはずなのに動物のように豹変している。しかし大きな目は炯々と光り意思を湛えていた。
 だから私はその顔にまたキスをして、その続きを生きようとする。