donuthole.org / novels / やることなすこと / 1日目 12月22日-2

170827(Sun) 18:51:34

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 巴さんはしばらく黙りこんだ末、わたしに嫉妬しているといった。その理由を聞こうとしたけど顔が見えなくても拒絶が伝わってくるようで尋ねることはできなかった。そしてそれから一言も交わすことなく由海ちゃんの家まできた。ふたり乗りのような距離で彼女と接したことはなくいままで知らなかったけれど背中に額をあてると暖かく、由海ちゃんの体みたいだと思った。彼女たちのことがよくわからない。つきあっているわけではないけど、嫉妬はするという。好きかと聞けば、そうではないという。何を考えているのかよくわからないし、わたしのように何も考えていないのかも知れない。
 背後で扉と錠をしめる音がした。彼女の身じろぎの音も聞こえてくる。感覚が鋭敏になっているように音が聞こえ、視界が眩しかった。電気のついた廊下は薄暗いのに、磨りがらすのはまったドア越しに光が目に痛いほどだった。由海ちゃんのまえに行くことが急に恐ろしくなった。いつもだったら自分の動作や感覚を省察することはない。けど、きょうはなんだか違う。間を置きたくて巴さんをふりかえる。後ろ手に錠をかけた姿勢のまま固まった姿をじっと見る。何を考えているのか、こういうときなんて思えばいいのかわからなかった。けどしなくてはいけないことがあるとわかる。由海のまえにいるときと同じくわたしを守っている無意識を剥がされ、何もかもがせまってくるようだった。
「千世? 巴」
 リビングから声が飛んできて、覚悟も決まらないまま顔をあわせることになる。ためらいを覚えるのは、きっと巴さんのいうことを聞いたからだ。彼女が由海ちゃんを好いているのはいわれるまえからわかっていた、それでも仲良くしたかった。
「いまいく」
 もう見慣れたリビングに入り、床に置かれたままの膝掛けを広げる。遅れて巴さんがくる。
「その膝掛け浅野がもってきたの」
「由海ちゃんがだしてくれたの。わたしが寒がりだからって」
 寒さにつよいわけではないのに彼女はいたずらにエアコンやストーブの熱を苦手にしていた。ひと月前にはもうずいぶん寒く、広い部屋にふたりだけ、暖房もついていなければ肌が粟立つほどだった。そういうふうにするようになったのがいつからなのかは定かでないけれど、その予兆はよく覚えている。はじめてきたときからそうだった。
 彼女の癖のひとつに、会話が途切れると体を触れさせてくるというものがある。初対面の人間をいきなり家に招くというのがすでに異様な距離感であったけれど物理的な距離感も、いままで知りあった人間とちがっていた。家に上がり、お菓子を焼く一時間ばかりのあいだ、もと暮らしていた街はどうだったとかそういう会話をするのだけど、そのうちに話題が尽き、わたしは流してもらっていた映画をみていたのだけど、調理をする背中がそわそわと落ち着かなかった。お茶の最中にもそれは同じで、テーブルに向かいあってつくのではなく直角に座り、ちらちらとこちらをうかがっていた。そうしているあいだ、彼女はいきなり体に触れてくるわけではなく、動作をしかけてやめるといったことを繰りかえしながら距離を縮めようとしてくるのだった。手を伸ばしかけてやめるのが印象的で、空中に投げだされたままの腕を彼女自身も何をしているのかわかってない、不思議そうな顔をして見ているのが気になってつい指を握ってしまった。怯える顔はぎこちなく笑おうと、ごまかそうとしていたけれど、なぜだか惜しくて手を離すことができずにいた。
 そんな距離感で時間を共有しようとしてくる友人はいなくて、なんだかむずがゆくて、決して嫌な訳ではないのに会話が途切れようとすると言葉を繋ごうとしてしまう。さいきんはそうではなくなったけれど、言葉が切れると、彼女は不安そうな顔をして言葉尻でもとらえて会話を続けようとすると露骨に安心した顔をするのだった。わたしはその度に疲れる。
「巴さんもはいりますか?」
「えっと……」
 そんなことをいってしまうのも由海ちゃんのせいだ。テーブルに直角に座っていた距離が気がつけば長辺にならんでつくようになり、笑ったり体を揺らしたりすれば肘や肩がふれるような距離になっていた。いままで知らなかったことを知る、そんな風な距離で他人と接するのが心地よいことがわかった。ときには何をする訳でもない時間がやってくる。そんなとき腕のなかに互いの体を抱きこむようになっていた。何も言葉を交わしていないのに、楽しいことなんて何もないはずなのに頭がしびれるように気持ちよかった。初めて由海ちゃんがそうしてきたときは戸惑っていたけれど家に帰る途中あれは何だったのかと思いかえしているときに知った、いまでもそうしているとあまり落ち着くことはできないけれど、体を離したあとにはそう思うのだった。
 そして由海ちゃんは誰とでもこんなことをするのではないかと、きっと巴さんのいうように嫉妬するのだった。これもいままで知らない感情だった。フィクションのなかの登場人物や、すでに別れてしまった友人たちがそうするところはみてきたけれど、ひとりの人間と長く接することのなかったわたしには馴染みがなくうまく想像することすらできなかったものが急にわかった。彼女の友人は、知る限りでは巴さんしかいない。だから、彼女が家にくるたびに同じようにしているのではないかと恐れるのだった。
「じゃあ、いれさせて」
 嫉妬や怯えに向きあうことをあまりしてこなかった。巴さんをまえにしてこの不快を斥ける術を知らず、わたしは何も知らず、由海ちゃんにされたことを繰りかえそうとする。そうしている最中にはそうと気づかない幸福や安心のなかに彼女も取りこもうとする。巴さんには嫉妬もする、けれど嫌いではなく、むしろ好ましいと思っていた。由海ちゃんと同じようになる、そうなれればいいと思っていた。
「いいですよー」
 由海ちゃんの口調を真似る、怪訝な顔をされ、瞳をのぞきこまれる。彼女は自分がそうしていることに気づいているだろうか、そんな仕草も由海ちゃんに似ている。
「ふたりとも、ずいぶん仲良しだね」台所から声をかけられる。
 一枚の膝掛けのなかにふたりは狭くて、太腿や肩が触れる。縮こまった姿勢で、手の置き場に困っていつものように巴さんの手をとっていた。何の意識もなく、そうすることがあらかじめ決まっていたようにそうしていた。身じろぎをする気配を感じて咄嗟に目を伏せた。
「……浅野はいつもこうしているの」
「巴さんはちがうの?」
 充分察しているようだけど、由海ちゃんとの関係を直接口にしたくなかった。口にしてしまったらわたしにも巴さんにもわたしたちの有り様を突きつけてしまうようで、逃げ場を失うような気がした。手くらいは繋ぐだろう、友達なのだから。けれど互いの体を腕のなかにおさめて、最中なにも喋らずにいるというのは冗談で済ませられるようなものではない。いつも、由海ちゃんの家をでてから自宅に帰るまでのあいだに思うのだ、こんなことをしていてはいけない。いけないということはないのだけど、やめようといい出せないのは気持ちがいいからで、この習慣をなくしたくないからだ。由海ちゃんも同じように思ってくれているだろうか。そうだとすれば私たちは互いに目隠しをしあっている、目をそらそうとしていることが互いにある。これは向きあわなくてはいけないことだろうか。もし口にだして指摘してしまえばもうまえには戻れず何もかもが手遅れになる。やっぱりあれはなかったことに、なんていって無効にすることはできない。由海ちゃんが腕を伸ばしかけるあの動作をするときわたしは緊張する。抱きあうことは好きだ、言い訳のしようもないくらい心地よいことと知っているから。緊張で口のなかが乾き、座っている地面が宙に浮いているように落ち着きがなく、恐慌に近い状態に陥ることも甘いことと知っているから。知っているから逃れられなくて、冗談のふりをして間合いをはかりあい、当然という顔をしてその場におさまる。一度でも拒絶すれば二度とそうすることはできなくなりそうな気がして拒むことができずにいる。
 でももし、巴さんとも同じようにしているのだったら、由海ちゃんは親しいひとには誰にでも同じようにしていて、しかも喋ることもないというのまで同じだとしたら、わたしとしていることも冗談の範疇になるのかもしれない。だから、巴さんに聞いてみた、浅薄にも質問に質問を返す臆病を発揮した。
「私は! ……由海とはそうするけど、」
 突然の大声に由海ちゃんは台所から振り返りこちらを伺う。何でもないという顔をしてみせると向き直った。
 いまここで引いてしまったら卑屈だけどささやかな目論見も果たせなくなる。わたしはいつも由海ちゃんのまえにいると彼女の挙措に引き寄せられるように行動を誘発させられる気がする。抗いがたく、意識を介在させることもできないままに何もかもを、それはきっとわたしがしたいと願っていることで、それらの何もかもを引きだされそうになり、自制というものがきかなくなる。こんなとき由海ちゃんならどうするだろうと記憶をあさる。手のかすかな動きや表情の変化を索引に彼女なら巴さんに何をするだろう。
 巴さんはまだ自分の出した大声に驚いた顔をしている。わたしは腕を伸ばし彼女の唇のうえに人差し指をかさねる。
「けど、わたしとはそうしませんか? そんな悲しい線引きをしないで」
 台所の由海ちゃんはまだお茶を淹れている。もう少しのあいだはこちらを振りかえることはないはずだ。こんなところをみられたくなかった。わたしはわたしのことを嫌っていない、浅慮を巡らせることをやめようとは思わない。自分の浅ましさにあきれることはあるけれど、嫌なところをすべて取りはらいすばらしい人間になりたいとは思わない、そんな人間であったら由海ちゃんとあんなことはしない。体を抱きあうような愚かしいことをしない人間になってしまう。それでも、みじめなところはみられたくなかった、変わろうと思わないのに、みっともないところはみせたくないのだった。
 体を向かいあわせにして、膝を太腿のあいだに割りこませる。肩と肩を触れあわせる。由海ちゃんとそうするときには顔をあわせることはない、どちらかがうしろから抱きこむ。きっと彼女も顔を見られるのが恥ずかしいはずだ、でも、いまはそんなことをしていられない。巴さんと向きあわなくてはいけない。
「巴さんはわたしに嫉妬しているといいましたが、だからといってわたしを嫌ってはいないと思います。巴さんのいうとおり、わたしは由海ちゃんの幼なじみだったらよかったと出会ったころには思ったかもしれません。いわれたときには気づきませんでしたが、いまになってそんなことを、言葉にしないまでも思っていたんじゃないかと想像します。わたしは巴さんのことも好きですし、だから、わたしのすることも巴さんのすることもひとりで決めたりしたくないです。こうして巴さんの体に腕を回したりすることも、逆にこんなことはしない、っていうこともひとりで決めたくないんです」
「そんなのわがままだよ。そんなの、私をうまいこといって説き伏せたいだけなんじゃないかって思う。私の意思を尊重するようなふりをしながら、全部自分の思い通りにしたいだけに思える」
「そうかもしれません」
「そんなことされると、困るよ」
 やかんの沸き立つ音が聞こえてくる。
「やっぱり仲良しだ」
 お茶の支度が整って由海ちゃんが戻ってくる。どんな顔をしているのか、いつものようである、というより平静そうな顔をしている、そのなかにむっとしたような、険のあるような表情をしているのを見つけて安心する。
「由海ちゃんもはいる」
「三人ははいれないよ。早くこたつださないとね」
「うん。由海ちゃんちはすこし寒い」
 安芸家の十二畳のリビングは他のどんな家とも同じような家具が揃っているはずなのになぜかわたしの目にはがらんとして映ってとても寒々しい。生活感はあるのに、なんだかここが生活の中心ではないような気がするのだ。彼女のすごす場所はここではなくて、他の場所にあるか、そうでなければ居場所を見つけられないでいるように感じられる。
「さあお上がりください」なんだかとても芝居がかったように恭しく手を広げられる。「きょうは千世のリクエストで甘さ控えめでございます」
 差しだされた緑色のパウンドケーキに手を付ける。ほうれん草のパウンドケーキらしいけど、苦さはなく口のなかでほろほろととけて淡い甘さがひろがる。
「きょうのお茶はニルギリでございます」また芝居がかった口調だ。男装の似合う風でもないのに由海ちゃんは中学校の演劇部では執事の役をさせられていたといっていた。彼女は麗しい風でも可愛らしくも、美しくもない。特別不美人であるとは思わないけれど、それでも愛嬌、みたいなものはなく無口でむすっとしたひとである。わたしは彼女のそういうところも好きだけど、華のある、役者のようなひとではないと思う。
「なんか、むかしより上手になったね」
 腕のなかで巴さんがいう。
「演技が?」
「お菓子作りの腕が」
「まあ、さいきんはだいたい毎日つくってるからね」
「千世は、おいしい?」
「由海ちゃんのつくるお菓子は毎日おいしいよ」
「……うれしい」