donuthole.org / novels / やることなすこと / 3日目 12月24日-1

170827(Sun) 18:54:08

閲覧数 25

3日目 12月24日
 むかしの夢をみている。小学校のあいだは頻繁に、中学校では二度、高校に入ってからは進学のこともあるからもうないだろうと思っていたけど予想は外れた。二年生の秋口になって、急に母が転勤することになったというのを聞いて、またか、面倒だな、気が重いなどの気持ちが一緒くたになってあらわれた。けれど転勤するという決然とした物言いのなかの表情に申し訳なさのようなものが含まれていることに気づけば、仕方がないと思い、許すほかなかった。
 転校をするのには慣れていたし、友達のつくりかたも知っていた。知っているからといって、その気がある訳ではない。もう高校二年生だから学校にまつわる大きな行事は受験だけで、授業の進度だけは心配だけど、それだって一ヶ月もすぎれば慣れてしまうと知っている。二年生ののこり五ヶ月と三年生の一年間、高校生でいるあいだは残りすくないと感じられ、大学に進学すればまた引っ越しをするのだから、特別に親しい友達をつくろうと思えなかった。
 そんな態度で転校初日の好奇心の輪を適当にいなしていたけれど、彼女だけはちがった。学級委員だからと放課後に校内を案内してくれる。ここは美術室、ここは音楽室といった風に。転校するたびに何度も聞いた言葉を繰りかえしてくれる。あまり部活動に熱心な学校ではないらしく、校舎はがらんとしてすれ違うひとも少なく、他の学校では聞こえていた音楽部や校庭を使用するひとたちの声もしなかった。そんな静まりかえったなかで、教室の名前ばかり列挙する声が、素っ気ない口調にもかかわらず熱を帯びているのが印象的だった。普通教室棟をでて、体育館へ、特別教室棟へと移動する道のりのなかで、渡り廊下とか説明するもののない時間がある。教室の名前以外の語彙を忘れてしまったような彼女は何も喋らずしずしずと歩くのでわたしは後ろをやっぱり黙ってついてゆく。だから教室の名前を口にする短い時間がよろこびにあふれているようだった。声を発するために息を吸うかすかな音が、発声のしかたを忘れたみたいに大きすぎたり小さすぎたりする震えた声が心地よかった。口を閉じるまえの一瞬唇がわななき、眼鏡の奥で瞬きを何度もするのでどこに何の教室があるかよりも彼女のことばかりが印象に残った。
「一度に説明しすぎたかな。わからなかったらまた聞いてください」
 校内を一巡して教室に戻ると、夢のなかでも由海ちゃんはあのときと同じ言葉を口にする。その声は過度に不安がり、わたしの様子をうかがうようでそれがまた好ましかった。友達になりたい訳ではなかった、でももう少し声をきいていたかった。
 ここは夢のなかでわたしはきっと由海ちゃんに何でも、わたしのききたい言葉をいわせることができる。近頃は馴れてしまったせいかもう聞けなくなったあの震えた声で、好きなことを何でも。けれどいったい、いまのわたしは何といって欲しいのか、由海ちゃんに何をして欲しいのかがわからない。いつもしているようなことや、口にすることなく妄想のうちでだけで楽しむこと、夢のなかのいまなら夢を夢のまま楽しむことができるのにそれらのどれもがしっくりとこない。心をきめられずまごついているあいだに目をそらされ、あのときの続きの言葉をいおうとまた唇がわななき、きっとわたしは神託のように抗いがたい口調にほだされてしまうのだ。
「浅野さんって、痩せてるよね」
 大きすぎる声と小さすぎる声のどちらかでしか喋らない声は、こんどは大きすぎてうわずっている。浅野さんって、といおうとする声が、口蓋で破裂する音が絡まり言葉を詰まらせ、沈黙し目をそらされ、それから決然と続きを口にする。眦を決した彼女から輻射されるものに身動きを封じられた。平時だったら憎らしげな口調をつくり、わたしってーたべても太らない体質なんだよねー、なんていって済ませられるのに何もいうことができず、言葉を接がれるのを待つしかできなかった。
「だから、浅野さんのことを太らせたい」
 初対面の間柄なら、きっとひとはそんなことをいわない。ひとの形を離れてしまいそうで、恐ろしくて、あのとき初めて手をとったときと同じように続きの言葉を受けいれるしかなかった。
「浅野さんってどこに住んでるの? もし、私の家の近くだったらさ、きょううちにごはんたべにこない?」
「……えっと、」
「私の家、親がほとんど帰ってこなくて料理自分でつくってるの。だから遠慮はいらないよ。ひとりぶんつくるのもふたりぶんつくるのも一緒ってよくいうでしょ、だから、心配とかいらないし、毎日ひとりで食事をするのも飽きたし、だから、どうかな」
 過度にいい訳がましく、緊張した声がかすれて、まくしたてるように急に饒舌になった姿が痛々しく目を離せなかった。真剣さに気圧されて、みっともなくおどけた口調で返すことしかできなかった。
「……安芸さんってなんかいきなりですね。さっきまであまり喋らなくてなんていうかいかにも学級委員、って感じだったのに急に、」
「だめかな?」
 返事をせく声がせまってくるみたいでたじろいだ。もはや家が近くだったらなんて自分のいったことも忘れてしまったみたいに都合のいい期待にあふれた声だった。
「食事をいきなり……っていうのは気がひけますが、お茶くらいだったら」
 都合よく、というより運がよかったせいか、彼女の家はわたしの家から歩いて十分ほどのところにあった。帰り道に位置する団地の四階が彼女の家でそれから学校帰りには毎日お菓子を振る舞ってもらうことになった。

 そんなあらましを思いだし、夢のなかのわたしは時がすぎても同じ、何をしたらいいのかわからないままだった。あのときああしていたら、なんて過去を好きなようにしてしまいたいとは思わない。きっといまの記憶のまま夢でなく現実としてふたたび転校し、彼女のまえに立つことができたとしても同じようになるだろう。
 これまでの短い人生で、過去を省みることはなかった。そんなことをしても仕方がないし、疲れるだけと知っているのに、いまはそうしたかった。由海ちゃんとすごした時間の出来事を思いだすことはできるのにそれに対して幾許の感興もない。いまは、いまこれから、未来の彼女に何かしたいと思っている、わたしが働きかけることで何もかもを変えてしまいたい、いまの生活に不満があるわけではない、それでも、じれるような気持ちで、ただそういうことをしたい。冬休みに入って、生活の仕方が変わった。夜になり眠り、目を覚ましても学校へ行かなくてよくなった。普段だったら夕方すぎには由海ちゃんの家をあとにして、自分の家へと帰る、あまり遅くなるとあしたに差し支えるからと初めて訪れたときにいったから、もう新しい学校にも慣れてすこしくらい帰るのが遅くなってもかまわないのに頑なに最初にいったことを守っている。きのうは昼食を頂いたあとそのままだらだらとすごし、気づけば夜になり、学校はもうないのでむかしの言い訳を守る必要はもうなかった。積極的に帰ると口にすることはなく、それに着てきた服はベランダで干されているけれどまだ乾いているかわからなくて、着替えるのも面倒でそのまま泊まっていた。いまわたしは由海ちゃんのベッドのなかにいる。足元にはもうひと組布団が敷かれていて、部屋の主人はそちらで眠っていた。起きしなに、千世は寝相が悪いんだねといわれた。起きあがるのがなんとなく面倒でまだ横になっている。苦手なはずの暖房をつけてくれていて、部屋は冬用の分厚い布団を掛けなくても大丈夫なくらいに暖かで、目を覚ましたときにはタオルケットと枕を抱えて丸まった姿勢のまま、寝乱れた布団のなかにいた。体のそこかしこに柔らかな布の感触があり、それらのどれもから由海ちゃんのにおいがする。
 気持ち悪い、とか思わないのだろうか。あのあと彼女は何もいわなかった。何もみていないというふりをして触れようとしない、そのせいでわたしは余計に意識してしまう。自分の布団を貸し与えるなんてことを、どうしてしたのだろう。まだ眠たくて、自分のことをうまく考えられない。枕に顔を埋めて、深呼吸しながらきのうのことを思いだす。あんなことをしたいと思ったことはなかった。衝動的にした訳でもない、ただ目のまえにあったからした。きっとあのときわたしが想像していたのはもっとちがう口にするのがはばかられるようなことだった。昼間は眠たくて仕方がないのに夜になると寝付けない体質だった。眠ることのできない時間を目を閉じて、夜毎に想像するのだった。きっとそんな風にすれば眠れるはずだと思っていた。合理的ではないかもしれない、それでも布団のなかでそういった想像をすると気持ちが落ち着いてそのうちに眠気がくるのだった。きのうは、由海ちゃんが隣にいたからそうした想像をしなかった。そうする必要もなく眠れた。