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2章6節その4。
演劇部の練習。

一番最初
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 午後の授業のない部活は長くて、夕方頃にはすっかり疲れていた。筋トレや発声練習の基礎練のあとにクーラーのない室内で通し稽古に個別のシーンの練習と続けていると少しふらふらとする。まだ練習はおわったわけじゃなくて、舞台の上には田村早紀に扮した萌と市村花に扮した花さんがかけあいをしている。本当にあったことなのか、尋ねたことがないからわからないけれど、怪物になった萌が花さんの頬に手を添えた、ここだけをみるとなんだか耽美っぽい場面だけど見た目はやっぱり花さんのほうがきれいだなと萌が好きなのに思った。そのシーンもおわって次のシーン、わたしも舞台にのぼり、向かい合うと扉が開いて伊藤さんがきた。大道具の感じをみてほしいとのことで、ほかの部員はぞろぞろと視聴覚室を出て行く。そのなかでわたしと萌が舞台に残り、向かい合ったままでいる。本番ではかつらをかぶるらしいけど今はそのまま、結んでもらった髪でいる。
 相対した、わたし、高田ゆきと萌、田村早紀がいる。みんなは出払ってしまってもういない。練習中で衣装も着ていない、体操着とジャージ姿のわたしたちはいったいだれであるのかだなんてそれは宗像よしのと中野萌でしかない。口をつぐんだまま、申し合わせた訳でもないのに向き合って動けないでいる。ここには高田ゆきと村田早紀しかいない。わたしたちの精神は互いのものでありながら、すでに卒業したか亡くなったふたりのものであるといえるのか、いえないのか。
 いえないだろうまだ、練習のさなかで無い身体と同体になるなんてことはできない。バーチャルなふたりが向き合い、握った台本に目を落とす。
「ゆきはどこにいっちゃったの」
 震えた声で投げかけられる、田村早紀の萌の声だ。
「ゆきは、もう、どこにいるのかなんてわからないよ。ゆきは、一個のゆきだったはずなのにね、もう、早紀が好きだってことも、萌が好きなのかもわからないんだ。あのね、花だって同じなんだよ。ゆきにはわかるの。誰のことだって、聞きたくないのに聞こえてきちゃうの。うるさくてうるさくて、早紀の考えてることだって、萌のだってねぇ……聞こえてくる声が頭の内側でずっと響いていて、ゆきの声と一緒になるんだ。ゆき、わたしがだれなのかわからない」
「じゃあ、わたしが好きだってことも忘れちゃったの」
「ゆきは、ゆきのことがわからない……もう、ゆきは消えちゃうのかもしれないの。ゆきの思考は淡潮のみんなの思考になってこの脳はみんなの意識の塊になっちゃいそう。その中には早紀と萌の声もあって、ふたりが好きっていうの、聞こえるんだ。聞こえてもゆきの考えようとする声はみんなの声におしつぶされて、好きって思えないの。好かれていることがわかるだけなの……」
「ゆき、ゆきがゆきはっていうのは自分が消えてしまいそうだからなの」
「そうだよ……ゆきは、ゆきの声がっていわないと、ゆきが誰なのかわからなくなっちゃいそうなの」
「わたしにはわからないよ。ゆきほどじゃないから。でも、ゆきが消えちゃうのは悲しいな」
「ゆきは、いいんだよ。ゆきがいなくなっても、ゆきはここにあるから。ゆきのからだはここにあり続けるの」
「でも、ゆきはいなくなっちゃうんでしょう」
「でも、ゆきはあり続けるよ……なんてね。萌じゃわからないよ。あやな先輩みたいに人の心がわかるわけじゃないしね」
「そうだね……」
 花さんも高田ゆきと同じようなことを思っているのだろうか。時々見せる透明な雰囲気は、自分がなくなってしまって、本当に透明になってしまったのかもしれないと思い、この台本が本当のことなのかまだ知らない、本当にあったことなのか訊けないままで、確かめることもできないでいることに思い至った。これがすべて嘘だったらいいのに、花さんは本当に悪役みたいなひとで、千佳やわたし、萌の心情なんて何も慮ることなくただの放埒の結果あのようなことをいったのであったなら、わたしは彼女をためらいなく嫌いになれるだろうかと自分のこころを量っている。なんていやらしさで、自分を自分の好きに、コントロールの下に置くこともできないで、ただ彼女を嫌ってもいいという物語を欲しているだけ、大義が欲しいだけの自我のなさは高田ゆきがまだ生きていたら怒られてしまうのではないかと思うそれも物語を与えてほしがっている反証なのかもしれない。推測ばかりで、わたしは、わたしのことなんてわかっていない。
「台本、みんな本当のことなのかな……」
「わたしにはわからないよ。くる前のことなんだから……」
「そんなこといってるんじゃないの! もーよしのはそうやって結論ばっかり急ごうとするんだから」
「そんなこといわれてもわからないものはわからないって。ふたりとも会ったことないし、それに、わたしはひとの考えてることなんてわからない。もう行こう。待ってるかもしれない」
 何も聞いていなかったかのように萌は台本を演台に置き、近づいてきた。顔と顔が触れあいそうな、質感の違うふたつの髪の先がふれる距離だった。「わたし、わからないよ。なんでこれを先輩が書いたのか。わたしに早紀先輩の役をやらせて、よしのちゃんにゆきの役をやらせるのか……ねえ、わたし、早紀先輩のこと嫌いだったの。もういなくなっちゃったけどね、あのひと、ずっとゆきと一緒にいるんだもん。わたしが、ゆきの同室だったのに。こんなこといわれても困るよね。知らないんだよね。でも、もう知ってるよね……わたし、ゆきが好きだったの」伸びた腕がからだを包み、結んだ髪がほどかれる。風の通る視聴覚室でうなじにかかる髪が蒸し暑く、午後が陰り始める前の長い陽が部屋の奥まではいってくる。「ごめんね、よしのちゃんがよしのちゃんってこと知ってるけど、まだからだじゃわからないんだ。それに、わかったときだって怖い。また、同じことになっちゃうんじゃないかって。よしのちゃんはゆきとは違うのに、人間なのにね」「うん……いいよ」許しの言葉をこぼすわたしは彼女のことを許しているか、許しきれていなくて、やっぱり嫉妬が根底にある。わたしは宗像よしので、高田ゆきではない。わたしは、わたしをみてほしい。誰でもなくなってしまわない、ただのひとりの、確固とした一個の宗像よしのであるって、自分で信じている。だから、わたしは、わたしを、みて欲しい。そういおうと額を近づけたとき扉がひらいた。抱き合った姿勢をみとめたのは花さんで、だから、中で何がおこなわれていたかなんてわかっているんだ。「だけど、わたし、いまは、」
「もーみんな待ってるよぅ? 練習熱心なのもいいけど、はやくきてよ」
 舞台の上にあったはずの雰囲気は消えてしまい、いくあてをなくした言葉がのどの半ばでわだかまっていた。しかし、これでいい加減わかっただろう。
「うん。いまいく」
 萌の手を取りすり鉢の階段を上る。先んじて歩く花さんの揺れる後ろ髪を眺めるわたしたちのつながれた手を、彼女は知っている。島内で起きる人の間のすべてを知る彼女は、高田ゆきのように自分をなくしてしまうのか、それとも、わたしの知りもしないような作用が髪を揺らす頭蓋の中で起きているのか、それはあやなさんも同じなのか、わたしと萌たちはそれを知ることはできない。知っているのは、わたしたちと違うテレパスを持っている人たちしかいない。一方的にしか知らない言葉と感覚のなかに花さんは閉じ込められてひとりでいる。どうこうしようだなんて思えない、もともとがひとりぽっちで、わたしと萌すらも互いのことを唇から引きはがされた言葉でしか知ることはできないんだ。いいや、それより深い孤独か、それとも何もない中を彼女はひとり歩むしかない。同情なんて余計だよぉ、花のことだけをみて。花のことだけを好きでいてと頭の中で響く声は反芻しているものなのか、喋りかけられているのか区別はつかない。どっちだとしても彼女はこの声におぼれている。萌を好きなわたしはその手を取らず、すくい上げることはできない。わたしは萌が好きなんだ。この好きな気持ちは誰にも明け渡さないだなんて言葉の上でしかいえなくても、そう言い続けるしかない。今になっては溺れる花さんを無視することしかできず、死にゆく彼女に背を向けて萌の手をとるのが唯一のことなんだといい聞かせる。
 それが答えなら、花はもう、よしののを好きにしちゃうしかないかなぁ、って言葉が聞こえて過ぎ去っていった。それだけで、確固としていた意思は破れて気持ちは塗り替えられてゆく。わかっていたうえのことだけどあまりにあっさりとした終わりだった。わずかに残っている萌への感情を浚ってもそこに恋は残っていない。同室の情だけで、ほかは花さんへの愛おしさだけだった。怒りすらも塗り替えられて、落ち着いた気持ちのまま靴を履き替えて外に出る。握られた手はそのまま、ほどかれた髪ゴムは愛おしさの象徴ではなくなり、ただの物に戻る。何の感傷もない上滑りする感情に浮かべた船のようで、緩やかな風が花のほうへと運んでゆく。
 二階の下駄箱に直接つながる階段のまえでは舞台装置が披露されている。手前側の壁のない建物の枠で、メインの舞台の視聴覚室と寄宿舎を表す物に使うのだろう。もう一つは木でつくられた柵で屋上のものだ。すっかり姿をけした中野萌で、学芸会のおわりの中には存在しなくなっている。わたしになにが起きたのか知らない萌はつないだままの手をひき、柵の後ろに立つ。苦しみも辛さも何もかも消してあげられるよと聞こえ、機械的だけど感情のあるような演技をした。この演技はわたしのものではなく、淡潮で過去に起きたことをもう一度あらわそうとする花の意思だ。意識を放棄し操られるまま田村早紀は先ほどと同じように見える手で高田ゆきの手を取り視聴覚室の再現をする。わたしの消えてしまう感覚が少しずつ言葉で教えられてゆく。田村早紀と高田ゆきは愛し合っていた。早紀、と呼ぶゆきの声が重ねて聞こえ、ゆきがいなくなるという声は、わたしの好きがいなくなるよりも真実味を帯びた声に聞こえた。
「なかなかいいじゃない」
 といったのはあやなさんで、花さんも褒め、双子は伊藤さんをみている。伊藤さんのほうは照れくさそうにしていて、人気のない校舎前にあふれる歓声は人間味を帯び、柵の向こうに取り残される感情の消えかけているらしいふたりは向き合ったまま言葉を交わさない。聞こえる歓声が人間味を帯びているまま現実感がないのは、花さんの頭をリレーしているからだろう。そろそろ返してあげるねという声でゆきはよしのに戻り、しかし、一番大切だと思っていたものはやっぱり跡形もなかった。自分に戻ったあとは違う風に聞こえる声と、そのほか学校のたてる、絵美ちゃんの練習する音や、校庭でやり投げをする柳原美樹、走り込みをする新保麻紀らの音、校門のほうから歩いてくる千佳や二階の階段を下りる松本純の興味深げな目、などの姿は変わって見える。まだ花さんの感覚が尾を引いているなか、理性を発揮するのだと集中しつながれた手の指から萌を、感情をかき集めようとするのも、どんな行為すら無駄だってわかっているけれど探し続けている。
 その後も少しの間練習を続け、確認した後、大道具は解体され部室長屋の演劇部の部屋に戻された。今日はもう練習はおわりで、星見会までは自由時間になる。