donuthole.org / novels / 学芸会のおわり / 2章_9節-3

2章9節その3。
夜のプール。

一番最初
http://donuthole.org/novel.php?id=6


http://donuthole.org/novel.php?id=37


http://donuthole.org/novel.php?id=39

閲覧数 1871

 大きな水柱がたち、足の先から髪の毛までが水に沈んだ。飛び込み台から跳躍して一瞬なげだされたからだの重力にひかれ水面にたたきつけられるまでの一瞬をよく覚え、これは花さんにも手を触れられないような記憶に、奥底に大事にしまい込んでおきたいなと思う。白い台に片足で跳び、もう片方の脚で着地、見えはしない筋肉の震えや隆起だって見えたような気がした。膨らんだワンピースの裾が一瞬すぼまり、宙に投げられる一瞬の重たげな放物線のなかで揺れていたもの、膝の先を叩きこまれる前の、風に粘っこく毛羽立つ水面が電灯と月光を映し砕かれた荒い波、水色のプールの壁面を洗った水のあと。水柱の立って、巻き上げられる水滴がまたプールに落ちてできる漣を、反芻する物事をしまう記憶の引き出しにいれた。
「萌!」
 彼女のことを思ったのはずっと後で、どんな連想かそのまま死んでしまうのではと思った。素足にサンダルを履かせた脚の白さと、内側の筋肉と脂肪が詰まっていることをわずかに予感させるしなびた風な肌の感じが水に入ったら泡ぶくになってしまうんじゃないかって突拍子なことを思わせて仕方がなかった。駆けよりのぞき込んだ水の淵に潜ったまま、暗がりに溶けてしまいそうな髪の揺らめきに手を伸ばしても届かない。まだおきている小さな波が細かな水音を立てている。自分も飛び込んで溺れるまえに引き上げよう、と、服が濡れてしまうの間で足踏みをしてとりあえず訳もわからないままサンダルを脱ぎ手に持ったままでいると長く潜水していた頭が水面を割った。
「なにしてんの」
「暑かったから……」
「頭冷やしてたんだね……」
「そんなんじゃないよ」
 水の中を歩いてプールサイドに手をつく。顔に張り付いた髪をかき分ける手のしたではワンピースの裾が金魚のながい尾のように揺れていて少し可愛いような気がする。
「服着たままプールはいるの初めて」
「そんなことする機会なんてなかなかないでしょ……」
「よしのも泳ごうよ」
「いいってば」
「つれないねえ……」
 仕方なしという風にプールから出ようと伸ばした手を引っ張ってやるとひゅうっと浮く感覚が一瞬で、引っ張られた腕の強さ、萌のほうめがけて投げ出されるからだがあって水の中に引き込まれる。方向の感覚がなくなってどっちが水面なのかわからないまま手をばたばた動かしたけれど萌のからだにも触れられなくて、意を決して目を開いても夜のプールのなかは暗くて何も見えない。水がしみて痛かった。かすかに明るい、光の反射するほうをようやく見つけて手を伸ばせば触れたのは萌の手で、落とされたときと同じように引っ張り上げられた。
「なにするの……」
「ほんとにおっこちちゃうんだね」
「びしょ濡れになっちゃったじゃん……」
「あはは。本当だねー」
「笑いごとじゃないって……」
 水深百二十センチの水のなか、胸のところまで浸かって息苦しい。濡れた服が肌に張り付いて気持ち悪く、ふわふわと遊んでいるハーフパンツや、浮力のうちでつま先立ちになる足が落ち着かないでいる。萌じゃないけれど服を着たまま水に入るのは変な感じで落ち着かない。熱帯夜とはいっても夜中は肌寒くて身震いをする。
「風邪ひいたら萌のせいだからね」
「へへ。そしたら看病してあげるよ。おかゆ作ったり、からだ拭いたりしてあげるから」
「いいって……そういうのは花さんにしてもらうよ」
「ひどーい」
 めぐみはおかゆをつくれるのだろうか。食事当番だってあるのだしきっと作れるだろう。花さんにはもう何も身につけていないからだをみられている。萌にだってそうだ。抵抗感はあるけれどそれはふたりとも同じで、どっちに汗を拭かれたって変わらない。それでも花さんがいいっていったのは、当てつけで、問い詰められてプールに落とされて、そんなことをされたのに看病される、甘えるなんてことをしたくないからだ。けど、本心は知っている。未だ花さんの呪縛のうちにいるけれどきっと、好きになれるのは萌で、優しくされるなら萌がいい。そんなこと、口が裂けてもいえないし、無責任すぎる。
 月光と電灯のプールのなかをワンピース一枚を着たからだで泳ぐ姿は不格好で、クロールと犬かきの間の泳法で水しぶきをたてている。顔をつけるのが苦手なのか沈むからだを器用に顔だけ出していたけれど、そんな泳ぎかたでは遠くまで行けなくて十メートルたらずで足をおろした。
「最近ね、千佳ちゃんに泳ぎを教えてもらってるんだ。平泳ぎとかするんだけど全然覚えられなくて、花ちゃんはすぐ泳げるようになったのにって笑われちゃってるよ。去年ね、わたしに教えてくれたみたいに花ちゃんにも教えてたんだってさー」
 もう一度ばた足をして今度は端までたどり着く。十五メートルを隔てた中で、声を張り上げて会話する。代わり同士、去年花さんにしたことを千佳は繰り返し、萌はきっと気にしないふりをして付きあっている嘘つきのふたりで、そう長くはもたないだろうと思う。千佳のことを好きにならなかった花さんと、花さんに恋心を奪われたわたし、行き場をなくした萌の気持ち、みんな花さんの仕組んだことで彼女にテレパスがなかったらこんなことにはならなかっただろうか。わたしと萌が付きあい、千佳と花さんは知らないけれどそのままの関係でいただろうか。花さんがわたしを好きというのはどうしてかわからないけれど、花さんが普通の人間だったらわたしを好きにできず、思いはきっと遂げられなかった。彼女はわたしのもっていないものを使って、欲しいものを手にした。それを非難することなんてできるのか。非難するなら、ひがみに依るものになってしまうのだろうか。強大な、怪物みたいな力を持ち、淡潮の全域を牛耳れるほどの能力を持った彼女のすべてがいまわたしだけに向けられているのかもしれない。そう思うとほんの少しだけの優越感と安心がある。あんまりな自分の気持ちに彼女と向き合っている間何度も気づかされる。そのたび自分を慰める言葉を、きっとみんなそんなにちゃんとしていない、身勝手なのは誰でもそうだ、探して気を落ち着かせている。好きになるといった約束も反故にし萌に恨まれることも優越感の根拠にしているくだらないわたしだ。
「全然泳げてないよ」
「じゃあよしのちゃんやってみてよ」
 それほど泳ぎが得意な訳ではないけれど、小中学校と水泳の授業もあったし夏休みになったら友達と海やプールにいったこともあった。十五メートルを泳ぎきることなんて訳のないことで壁を蹴って水中を進み、服を着たからだは重たいし抵抗もあったけれど簡単なことで平泳ぎで向こうの岸までたどり着こうとする。しみる目を見開いて、息継ぎのあいだ潜った視界に水泡がいくつも浮かびはじけてゆく。海水と違う塩素のとけたプールは浮力が弱くて、手足を動かし続けなければ沈んでしまう。息継ぎをしてその間にもせわしなく手足を動かせば前に進み萌のところまでたどり着いてしまう。息苦しくて、辛い。わたし、どうしていいのかわからない。萌を好きになって、甘えてしまいたいって、いえたらどれだけ楽だろう。花さんのことは嫌いじゃない、嫌いじゃないけど好きになりきれないんだ。萌のことを、また、好きになりたい。わたしの過誤を全て許して、元通りにしてくれなんて都合のいいことばかりを花さんといるときにだって思ってしまう。それでもよしののは花のこと好きになるんだよって笑い抱きしめてくれる彼女のことを愛せないことは惨いことだろうか。もし、花と同室になっていたら何の問題も起きなかったのだろうか。萌が約束を持ち出して今まで詰らない甘えてひどいことをした。彼女に愛されていることに安心して裏切りを続けていたんだ。いつになったら行いを改められるか、自然にできる訳なんてなくて、意思でもって彼女のほうを向かなくてはいけない。だけど、まだ、怖いんだ。また、気持ちが消えてしまうことを恐れているんだ……。
「すごーい! ほんとに泳げたんだね」
 気がつけば指が壁に触れて両足は底におろされていた。
「まあね……。十五メートルくらいだったら泳げるよ」
 余裕なふりをするけれど本当は服を着ていたからか考え事をしていたからか苦しかった。落ち着かない両足が水面に浮かんでいるみたいでもう少し泳いでいたいなと思う。今度は萌のことも花さんのことも考えず遠くまで泳げたらいい、そうしたら嫌なことの一端でも忘れられるかもしれない。泳いでいるうちに泣いていたのか涙がつたっているけれどこの暗さと濡れたなかなら気づかれようもない。気づいてでも欲しいのだろうか。きっとそうだ。どうして泣いてるの、大丈夫、って訊かれたいんだ。
「ああーすごいねーよしのちゃんは」
 そういって抱きつき、頭をなでられる。濡れた髪は抵抗が大きく、引っ張られて痛いし、服も張り付いて気持ちが悪い。
「そんなべたべたしないでよ」
「そんなこといわないでさ、いま気分がいいんだからさー」
 これくらいはきっと見逃してくれるだろう。だって、びしょ濡れの服で満身創痍な気分なんだから、これくらい許して欲しい。
「えへへ。よしの……」
 萌の肩に手を回し、軽く抱きしめた。やっぱり冷たい水のなかで熱をもったからだが熱くて心地いい。束になった髪に指を絡ませ梳いてやるとくすぐったそうに笑う。さっきの仕返しだとばかりに倒れこんで水に沈めた。何度も繰り返し、疲れきってしまうまで水遊びをして歓声を上げる。夜中の水は冷たくて、からだも冷え切ってしまったけれど、プールから上がったら元通りに、萌のことなんて好きじゃないって風にすごさなくちゃいけないのかなって思うと惜しくて、背泳ぎで浮かんでいた。
「疲れたねー」
「うん……」
「寒くなっちゃったね」
「でも、風は暑くて気持ちいいよ」
「そろそろ上がろうよ。ほんとに風邪ひいちゃうし。わたしまで風邪ひいちゃったらよしのちゃんのこと看病できないし」
「まだ上がりたくない」
 背泳ぎのできない萌はわたしの隣にたっている。透けた服の内側には奇形のからだが見えている。青と白の縦縞のうちに隠された姿を彼女は恥じらうけれど、やっぱりわたしはきれいだと思ってしまう。台本には書かれていないけれど、花さんに聞いた話を思い出す。高田ゆきの最期は萌に絞め殺された。自我をなくして暴走した高田ゆきをとめるため蔓を絡ませ落ち着かせようとしているうちに死んでしまったらしい。わたしもそうされたら楽になれるかもしれない。まだ萌がわたしのことを好いているって確信している間に意識をなくしたら、きっと高田ゆきより幸せだ。そんなの、どっちがましっていう話だけど。
「そんなこといわないでよ。わたしだって楽しかったんだから」
 腕を引っ張られてプールの端まで運ばれる。ワンピースの裾から水をしたたらせる彼女に引っ張り上げられて陸にたつとこれで終わりなんだなって思ったし、風が冷たかった。
「シャワーどうしよっか」
「ふたりは入れないしね、大浴場まだあいてるかな」
 内階段の小屋の壁面に取り付けられた時計をみると二時をまわっていた。
「もう開いてないんじゃないかな」
 浴場に熱を供給するボイラー自体は一日中ついているから湯は沸いているだろうけどきっと、鍵は閉められている。萌がシャワーを浴びるのを待っていたら本当に風邪をひいてしまう。
「一緒にシャワー浴びようよ」
「そんなに広くない」
 ぽたぽた水が垂れるなかサンダルと台本を拾い、あやなさんと千佳はもう部屋に戻っているだろう、誰にもすれ違わないで部屋へ戻った。