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4章1節その4。
不道徳な花とよしの4。

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 目を覚ますと部屋は薄暗く、毛布をはだけさせた肩が冷えている。ほんの数時間だけ眠るはずだったのに随分遅い時間になっているみたいだと時計を見るとまだ四時で、陽が急激に短くなったのについてきていないのだなと気づかされた。授業は終わっている時間で早くしないと千佳が帰ってきてしまう。からだを起こしてほとんどひとりで毛布に巻き付くうつぶせの彼女をみるとくしゃみが出た。安らかそうに眠る背中が無関係のように思えて喪失感を覚えるけれど、目を覚まして二、三言交わせばすぐに忘れてしまうだろう。腹立たしくて毛布を奪ってかぶると仰向けになって青白い肌をさらす、平たくなった胸やへこんだお腹、そういったものの一切にこれから先触れられなくなる、手を離れて萌の元へ戻ってゆくのだと思うと口惜しい、私は全くの何もないところへひとりゆくことになるのだろうかと感じてさっきまでの勇ましいような気持ちは嘘だったと気づかされた。
「よしののぉ? もお夕方だよぉ……はやく起きないとちぃ戻って来ちゃうよぅ?」
 毛布と乱れたシーツのなかに散らばる肌着類を拾って身につけてゆく。授業が全部終わるのは四時半で、あと十分少ししかない。まだ教室にいるから急がなくてもいいけれど、部屋で一緒にいるところはあまり見られたくない。青く湿ったような寝息やかすかに見える頬や耳の産毛、細いからだがこれから先失われてゆく。眠りのなかで体温の高い手に指を絡め、お腹や胸、首に指を伝わせてゆく。くすぐったそうに震えるまぶたに唇を寄せ、睫毛を舌で撫でた。
「おはよう、よしのの。早く着替えないとちぃ戻ってきちゃうよ。めぐみんに知られちゃうよぉ?」
「うん……もう、起きるよ」
 板張りの床は冷えていて、靴下に包まれていない足先をおろすと引っ込めたくなる。外は小雨が降っていて、雲におおわれた空の端のほうが赤銅色に鈍く光っている。いつの間に雨雲がきたのか、サッシに指を触れると冷たく、ほんの少し窓がらすが曇っていて、開くと風が吹き込んでくる。粒の小さな水滴が肌を湿らせてゆくのを感じながら、向かいの棟のまだいくつかしかついていない明かりを見ている。もうすぐ日が沈む薄明かりのなかサンダルを履いてベランダの柵にもたれて下を見ると渡り廊下の屋根やその下の歩道、茶色い枯れ草が濡れ、街灯に光っているのが見える。白と灰のまだらの雲が形を変えていく、関節が震え、寒さのなかに身をおいていると海にいるときよりも鋭い寂寥感に捉えられた。人々は部屋に閉じこもり、廊下や談話室にいるのは数人だけで、ほとんどはまだ学校にいる、人にあふれた寄宿舎のはずなのに、誰ともふれあうことはない、個々の生活や人生は壁に仕切られたうちにあり、関知することはあっても、手は伸ばさない。よしのの身支度をする音とかすかに息を吹き返そうと、その活動を萌のほうへむけようとする、彼女の奥底の声を聞いている。ひと月もすれば私は元通り、千佳の同室の菊組のありふれた言動と髪の色だけがおかしな人に戻るけれど、その隣に立つものはいなくなるのだろう。三人の関係がどう変わろうと、私は輪のそとにあって眺めるだけになる。すべて自分のしたことで、よしのを受け止めきれなかった、千佳と萌を制御しきれなかった不甲斐なさが原因で、最もつよいものであったにもかかわらず適切に自己を運用できなかった無力に還元されるのだ。
「花さん、そんなところ立ってると本当に風邪をひいてしまいますよ。あと、毛布、ひとりで使っていたようでごめんなさい」
「いいんだよぉ。よしののが風邪ひいちゃったらやだしぃ、花はいいのぉ」
「こっち、来てください。服、着せてあげますから」
「へへ……よしののはやさしいなぁ……花、そんなことされたかったのかなぁ。いま、ちょっとよくわからないんだぁ。よしののはもうすぐ萌のところに戻っていっちゃうんだよねぇ、花、やだよ。花、もうちょっとよしののと一緒にいたいかも」
「髪もぐしゃぐしゃになってますよ。梳かしてあげますから、折角きれいなのに、もったいないです」
 ジャケットのボタンを留めていない、幼さを強調する紺色のジャンパースカートのお腹と胸元の白い丸襟ブラウスを着た姿が椅子の足下に落ちた制服を拾っている。皺を伸ばして丁寧に椅子の背もたれにかけられる、恋の失われたやさしい手つきと腕の伸びる背中を見ている。腕を伸ばしてブラウスの袖に手を通し、跪いた彼女の指がボタンを留めてゆく、昼間の逆再生を見ている。起きたことは痕跡を残さないように元通りにされ、私とよしのの間にあったことは彼女のうちに残されることはなく、千佳も気づかず、萌もよしのにいわれなければ気づかないだろう。覚えているのは私だけになり、記憶に感覚は付随しない。記憶の再生は言葉だけになり、どんな感情を起こすこともないただの出来事に成り下がる。夏と秋のあいだにあった出来事のすべては忘れることはないだろうけれど、鮮烈さ、二度と訪れることのない栄光のような眩しい感覚の訪れはない。灰は灰に、塵は塵に、記憶は言葉に、言語の活動のうちに閉じこめられ、再び鮮やかさを取り戻すことのない無彩色の海のなか泡沫になり消えてゆく。
「花さんは、何を感じているのですか、いま、どんなことを思うのですか」
「さあね……むなしいなって思うよ。過ぎ去ってゆくことのすべてが私と遠くのものになってゆくんだ。ずっと昔から、どんな感覚もなくなってゆくんだ。よしののこと、忘れないけど忘れないだけでただの記憶になっちゃうのが嫌なんだ。記憶になったらそのとき感じたことはな失くなって、感覚を取り出そうとしても言葉から無理矢理作り出したまがい物に、しかも何度も取り出そうとするたび鮮やかさは失われてすり切れた、無感覚になってゆくんだ。悲しいよ」
「でも、わたしがいなくなったとしても他の人がいるじゃないですか。寄宿舎にはたくさんの人がいますよ。誰だって、いいでしょう」
「誰でもよくないよ。執着かもしれないけど花はよしののがいい。確率的によしのののことを好きになったとしても、百人足らずのここじゃ少なすぎるよ。大数の法則は適用できないなぁ……」
「淡潮のそとにもたくさん人はいますよ。花さんは可愛らしいですし、大丈夫です」
「花は淡潮でしか生きられないよ。こんな揺籃のなかで育って、外じゃ生きてけないよぅ」
 ジャンパースカートに足を通し、背中のファスナーを上げられる。
「椅子、座ってください。髪梳かしますので」
「うん……」
 机のうえに出しっぱなしになっていたブラシをとり髪をとかしてくれる。昔は千佳に同じようなことをしていたしされていたのにもう失われた習慣だ。ひとりでは面倒で暑いときに簡単に結ぶような髪型しかつくらなくなっていた。ブラシの流れてゆく音や髪の少し引っ張られるような感覚が特別だったときがあった。今でもよしののことが好きで、嬉しく感じているけれどこれから無くなってゆくもの、何度もされることではなく喪失を嘆くのにつなぎ留めることはしない。そんなこと、できやしないだろう。彼女には好きな人がいて、不当に手元に置いていただけなんだ。果たして不当だったのか、固有の強大な能力を使っただけではないか、宗像の子のようなものだけでない、一般の人間にだって個人だけの能力がある、美しさだったり、身体能力的なものであったり、それらを用いてひとを意のままに操ることが悪いことなのか、わからない。その運用に責任や倫理は伴うのか。でも、よしののことが好きで、振り向いて欲しかっただけだと思うのはそれこそ不当に恋や愛を評価しているのではないだろうか。
「花さん、ごめんなさい。わたし、やっぱり萌のことが好きみたいです」
「知ってるよぅ……」
 時間は連続していて、感情は軸に添い少しずつ形を変えてゆく。学芸会の日はまだあきらめてなんていなかった。おまえが萌のことを愛すならその形を何度でも矯そうとしたのに、今では手を離れてゆく、遠ざかってゆく姿を追うこともなく眺めるだけになっていた。千佳だって同じだろう、気がついたときには、テレパスを使わないと捉えられない遠くまで去っている。何度でも気持ちをつなげようとする、そうでなければ同じ速度で同じほうを目指す奇跡のような偶然がなければ、道は分かれ二度と触れることはなくなる。私はその努力をしてこなかった。可塑性のこころはあたたかな私の手に形を変えられる、穴の開いたところに寄り添う形を作ることができたのに、もう、そんなことをする気は起きなくなっていた。
「花に恋愛は向いてなかったのかなあ……」
「できましたよ。結んだりしましょうか」
「今日は寒いから、首は出したくないかな」
「わかりました」
「ちぃ、もう戻って来ちゃうね。そと、でようか」