donuthole.org / novels / 廃屋に花 / 1章-4

120830(Thu) 21:53:35

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 今日はサーシャと別々にお風呂にはいった。部屋にくっついた浴室ではなくて、一階の浴場を使った。脱衣所はひとりで使うには広すぎる。火照ったからだを冷ましながら、鏡のまえで魔法の練習をする。笑顔とすこし怒った顔、不安な顔、悲しい顔、ひとつずつ何度も練習した表情を繰りだしてゆく。嘘っぽいところはないか、思っていることを伝えられる顔をしているか確認する。怒っているのに不安な顔をしていたらまじめに受けとってもらえないでしょうとすみれさんがいっていた。笑った顔も使い分ける。可愛いもの、ほほえみかけるもの、自分のためによろこぶもの、おねだりをするもの。頬に手のひらをあて、表情筋をほぐしてゆく。濡れた髪からしずくがぽたぽたとたれる。からだは冷えていた。
 伝声管をとり、台所にかける。きっといまの時間なら大江さんがいるだろう。
「大江さんいる? いたら脱衣所にきて」
 息を吐き、椅子に腰掛ける。魔法を使ってみようと思ったのだ。練習した成果を試そう。
「お待たせしました」
 時間は九時過ぎ。勤務はおわっているけれど彼女はメイド服に髪をひっつめたままだった。
「アイロン、ありがとうね」
「いいえ。仕事ですから」
 仕事をしているあいだ、大江さんはわたしに敬語を使う。それをなんだかつまらないと思うのは彼女の矜持を崩してしまうものだろうかと一瞬考える。仕事のあいだは言葉遣いを変えることでちがう自分をつくっているのかもしれない。ちがう自分をつくって、自身のうちにある何者かを守ろうとしている。仕事中の大江さんはしっかりとしたひとだけど、仕事がおわってしまえばかずみにべったりの、わたしみたいに甘えたがりのひとだった。
「それでも、ありがとうね」言葉を句切って吐く。大江さんはくすぐったそうな笑顔を露わにする。無防備な笑顔で、きっといまならわたしのつたない魔法でも通りそうな気がする。
 距離を詰める。「知紗」言葉を素早く吐き、耳に届ける。「服を着させて」
「命令ですか」
「んー。命令がいいの?」一度では成功しない。今度はゆるませた口調で問いかける。「知紗に、そうして欲しいな」ゆるく甘く、けれどしなって懐に潜りこむようにもう一度。
 大江さんはさっきよりもずっと無防備そうな笑顔を浮かべる。風邪をひいたときみたいに瞳がうるんでいた。もう一言で成功しそうだ。魔法を使えたことに興奮して、つぎの言葉をつがえて唇をゆっくりと開く。口調は的確に、甘い笑顔で。何度も練習したことをもう一度あたまのなかで口にしてから、声帯を震わせようとする。「秋乃がしてほしいならします」決意したように面持ちを豹変させ、木訥に言葉を吐かれる。
 魔法は、使わなかった。
「ううん。服は自分で着る。そしたら、髪を乾かして」
「はい」
 大江さんはさっきとちがう笑顔を浮かべた。籠からパジャマをとりだし着替えていると扉が開く。
「知紗」もう私服に着替えたかずみだった。大江さんを呼ぶ言葉は、わたしと同じ音を使っても語調は当然ちがう。ちがっていて、わたしが呼んだときよりも弾んだ声で大江さんは返事をする。
「服、着替えたよ」
「では、そこに座ってください」鏡のまえの籐の椅子を指される。座ると、肩越しに大江さんの腕が伸びてドライヤーを取りあげる。スイッチを入れて、うなりだすドライヤーをゆっくりとあてられる。温風にはしないみたいで、うなじを涼風がすべってゆく。気持ちよくて目を細める。ああ、これは失敗だ。気持ちいいけれど、気持ちいいって顔をしようと思っていないのに気持ちいいという顔をしてしまった。これじゃあ、まだすみれさんのような魔女になれない。
「よかったです」
 わたしの表情の変化をめざとく見留めた大江さんがそういう。かずみはうしろのほうでわたしたちを見ている。しばらくそうやって髪を乾かされていたけれど、そのうちかずみが大江さんの隣に立ち、ドライヤーを握る手に手のひらを重ねた。
「貸して、わたしがやる」
 交代したかずみは美容室でされるときみたいに手際よくドライヤーをかけてゆく。
「かずみは上手なんだね。あっ、大江さんがへたって訳じゃないよ」
「知紗さんにいつもしているからね」
「へえ……」
 大江さんは恥ずかしそうにうつむく。もしかしたら、彼女の秘密にしたかったことを暴いてしまったのかもしれない。だとしたら悪いことをしてしまった。さっきも、彼女の気持ちを慮ることなく魔法を使おうとしてしまったし、失敗続きだった。
「はい、おしまい。髪、結ってあげようか?」
 かずみのいう、結うというのは三つ編みにするということだ。彼女がうちにきてすこししたころ、毎夜そうしてもらっていた。朝になって三つ編みをほどくとパーマをかけたみたいになるのが好きだったのだ。学校のひとにそのことを話すと貧乏パーマっていうんだよといわれてからはそうすることはなくなっていた。
「そうだね。久しぶりに、してもらいたいな」
 うなずいて、鏡越しに髪を手繰る彼女の顔はゆるやかに変化し、遠くを見ていた。大江さんがうちで働くようになったのはもう三つ編みをつくる習慣のなくなってからのことだった。不思議そうな表情を浮かべ所在なさげにしている彼女に昔話をした。話をする途中、彼女はおおきな瞬きを何度もした。