donuthole.org / novels / 廃屋に花 / 1章-5

120831(Fri) 22:39:49

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「サーシャ、寝てるの?」
 部屋に戻ると彼女はベッドで丸くなっていた。
「ううん。まだ」
 電気はついていなくて、月明かりが窓辺を浅く照らしている。サーシャは締めつけられる服が苦手で、眠るときは制服の肌着のスリップ姿でいる。影がゆらりと起きあがり、月光にからだの線が浮かびあがる。
 先ほどの昔話を彼女にしたことはない。まだすこし湿る髪は束になり、垂れさがっている。
「サーシャも三つ編みにしよう」
「あとついちゃうよ?」
「明日になったら可愛くなるよ」
「幼稚園のころ、お母さんにしてもらったな……」
 机の引き出しからブラシと髪ゴムをとりだし、サーシャの背中に座る。ブラシをかけながら昔話をしてゆく。
「……それで、今日は?」振りむいてわたしの髪をみる。
「かずみがね、脱衣所にきてくれて、結ってもらったの」
「そっかぁ、よかったねえ……」
 サーシャはゆっくりとずっとながいあいだ練ってきた言葉のようにいう。
「そうだ、今月末旅行へいくの。千葉のほうへ。すみれさんの別荘があるっていってね、遊びにいこうって。サーシャもくる?」
「いく!」ブラシをかけた髪を束にして、痛くしないように編んでゆく。自分の髪を三つ編みにするのは苦手だったけれど、ひとの髪にするのは難しくなかった。彼女のまっすぐな栗色の髪が明日にはふわふわとしているところを想像する。さぞかし可愛いだろう。
「よかった。わたし、あんまりいきたくなかったんだ」
「どうして?」
「だって、四月だよ。海っていったって泳げる訳じゃないし。それに、お屋敷を出るのはあんまり、やだな」
「……ひーちゃん、泳ぎたかったの?」
「……ひとがいない海ならね」
「ひーちゃんはそういうの気にするよね」
「だって、だってだよ。人前でそんな風に服を脱いで、肌をみせるなんて恥ずかしいよ」
「ふぅん……」
 サーシャはなんだか含みのあるような顔をする。
「ちがう、そういう意味じゃ……」
「いまの、誘ってるみたいだったよ」
「ちがうってば!」
「……でも、海、楽しみだな。私、あんまり海っていったことないし、ひーちゃんといけるし」
「うん……」
「そうだ、わたし、カメラを持っていく」
「海をとるの?」
「海も、サーシャも」
「私は、いいよ」
 結いおわった髪を留める。露わになった首筋は細く、月の光を浴びて白く発光するように輝く。後れ毛を指先でいじるとちいさな背中がふるえた。倒れこむからだを受けとめ、わたしも横になる。明日、小湊さんがくる。わたしはまだ、彼女がどんなひとなのかを知らない。知りたいのだろうか。嫌いではない。ただ、彼女と仲良くしていると学校の生活が面倒になりそうだという危惧があるだけだ。そんなことを顧慮する必要があるのだろうか。彼女がどんな意図でもって仲良くなりたいといったのかはわからない。わたしのことを、クラスの騒がしいグループのひとのようじゃないから仲良くなりたいといっていた。それって本当だろうか。嘘でもいいけれど、近寄ってきてくれるひとがいる。そうしたひとをあしらうようなことをするのは苦手だった。
 まず、第一声に。「小湊さんと仲良くなりたい」接いで、「サーシャは、小湊さんのこと、好きになりたい?」
 サーシャ、好きだよ。とは切りださなかった。それをいってしまったら、阿っているようないいかたになってしまう気がしたからだ。それでは、わたしが小湊さんと仲良くなるのにサーシャを説得しなくてはいけないみたいになってしまう。
「ううん。まだ、あんまり。小湊さんのこと、ぜんぜん知らないし、それに、友達をつくるのは苦手だから。
 私ね、ずっとひーちゃんと一緒にいたからね。ひーちゃんと私は分けられないようなものの気がするの。気がして、信じているのに、もしかしたら離ればなれになっちゃうかもしれないって思うんだ。からだの距離じゃなくて、もっと他のものが。
 でも、そうやって思うの以上に、ひーちゃんと私は絶対に離れないものだって思ってる」
 嫉妬と傲慢といっていたことを思い出す。きっと、わたしと小湊さんが仲良くなることに対する嫉妬。わたしの一番がサーシャであることは揺らがないという傲慢。わたしも、サーシャにあたらしい友達ができたときそう思うのだろうか。
 何か嘘をつこうと思う。なるべく荒唐無稽な、けれど、ぎりぎり信じられるようなものがいい。
「いちかも菊太郎もどっちもほんとうのお父さんだと思ってる。小さなころから一緒にいるから、疑問になんて思わなかった。
 サーシャともながい間いるよ。
 でも、時間のながさが大事なんじゃない気がする。サーシャのこともお父さんのことも、いろんなことを知ってる。知ってて、甘えたくなるし、甘えて欲しくなる。菊太郎は甘えてくれないけどよく甘えるよ。いちかにはどっちも。サーシャには甘えてばっかりだけど、甘えられるのもすごく好きだよ」
 嘘は、どちらもお父さんというところだ。お父さんとは呼ぶけれど、父だとは思っていない。父という役割を菊太郎もいちかも行使しない。親しい年上のひとという間柄のような気がする。
「ひーちゃんがいなくなることを想像するよ。ひーちゃんがいなくなったら、私はひーちゃんについて覚えていることを全部思い出して、頭のなかにもうひとりのひーちゃんをつくるの。
 そうしたら、いつでもひーちゃんと一緒にいられる。隣に立っていなくても、頭のなかにわたしとひーちゃんがずっと一緒にいるの。
 だったら悲しくない。手をつなぐよりも近くにいられるから」
 彼女はそういいながら泣いてしまう。わたしも悲しくなり、泣いてしまう。
「ごめん、ごめんね」嘘は見抜かれてしまった。
 ひとりぼっちのサーシャ、なんてかわいそう。
 わたしのお腹のうえで腹ばいになる彼女が口づけをしてくれる。いくら体格がちがうとはいえ、すこし重たかった。
 涙はあふれつづける。サーシャの口づけで、悲しくはなくなった。それなのにとまらない。魔法つかい失格だ。
「よしよし」わたしの嘘を気にした風もなく、サーシャは髪を撫でてくれる。お腹のうえの体温がとても熱く感じられた。
 あんなことをいわせてしまって、わたしはひどいことをしてしまった。
 離れがたいものだから、離れたときのことを想像する必要もない。あり得ないけどあり得そうなことを想像するのは怖い。わたしとサーシャが離れないことはわかっているのに、怖い想像がいつまでもついて回る。否定する手立てがないからだ。わたしの嘘も、小湊さんのことも、きっとたくさんの怖いことを思わせてしまったのだ。好きという言葉ではこの恐怖を無効にできない。わたしもサーシャも泣き続ける。一体、どうすればよいのだろう。
 ぎゅうと抱きあい、肌をくっつける。恐怖のはいりこむ余地はいくらでもある。強迫的に、いつまでも思い続ける。離ればなれになったとき、わたしはサーシャを好きでいるだろうか。
「サーシャ、好きだよ」
 きっと何にもならない言葉を口にしてみる。恐怖は消えない。わたしがサーシャを好きというのは陽が東からのぼり西へ沈むくらいに変わりようのない、無意味な言葉だからだ。
「私がひーちゃんを好きなことは消えないよ。
 いつかそんなことになっても、いま、ひーちゃんのこと好きなことは変わらない」