donuthole.org / novels / 廃屋に花 / 1章-6

120902(Sun) 00:55:10

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 そうして眠りに落ちる。泣きあとを湿らしたまま眠るサーシャをおいてわたしは部屋を出る。たくさん泣いて、喉がかわいていた。
 三階左翼の一番奥にあるわたしの部屋と台所はお屋敷のほとんど対角線上にある。いつ頃建てられたか知らない、きっと昔の階段は一歩ごとにきしんだ音をたてる。部屋じゅうを明るく照らしてしまうのが苦手で、夜でも電気をつけることはあまりない。段差の高さも、踏み板の大きさも、廊下の長さも全部覚えている。窓からさすかすかな光のなかを歩いてゆく。廊下は曲がり角が多く、見透しが悪い。しんと静まった、ほとんど空き部屋のなかも覗えない。座敷童でもなんでも、想像の生き物が扉の向こうで息を潜め、廊下の角からこちらを覗っているかもしれないと、他愛もない想像をすることがよくある。二階の廊下からは前庭が見える。ぼうぼうの垣根のなかにも猫や狸、イタチだけでない、人目を避ける俊敏な生き物がいるかもしれない。
「菊太郎、いちか?」
 キッチンの扉のすきまからかすかな明かりがあふれている。
「どうしたの、秋乃。眠れないの?」
 キッチンの小さなテーブルにはふたりの父と、コンロのまえにはすみれさんがいた。屋敷の大人たちはこうしてときどき、夜中に集まっていることがある。大人たち、かずみも大江さんも歳のうえでは大人だけど、あまり大人という風ではなく、お姉さんみたいに感じていた。
「ううん。喉がかわいたの」
 菊太郎の正面、いちかの隣に座る。しゅんしゅんと湯気をのぼらせる細身のケトルを持って、すみれさんが振りかえる。「そう。ポットとお茶っ葉をだしてくれる」食器棚からふたり用のティーポットとハーブティの缶を取りだす。父たちはお酒のグラスを傾けている。ポットを差しだすとすみれさんはお湯を注いでくれる。
「サーシャは」
「寝てるよ」
「けんかでもした?」
「してないよ。どうして……?」
「泣いていたみたいだから」
 肘をついたすみれさんがふんわり笑いながら訊く。テーブルの真んなかにおかれた、ランプというのだろうか。火を使った照明器具の光が揺らめく。こういう風な、いまでは使われないような道具はみんなすみれさんのもってきたものだ。なんでも、魔女はそういった雰囲気を大切にしなくてはいけないらしい。
「泣いてたけど、ちがうよ」
「そう」
 からから、グラスのなかで氷が音をたてる。いちかはお仕事の休憩中なのだろう。眠たげにしながらグラスを揺らす。そのたび、フリルとレースに飾られた長い袖も揺れる。いちかお父さんは男だけど、男らしい格好をしているところはほとんど見たことがない。屋敷の外にでるときだけは男ものの服を着るけれど、そんな機会は年に数度しかない。外にでるのは怖いそうだ。そんな格好をしていても、お屋敷にはわたしと菊太郎、すみれさん、かずみと大江さんしかいないから、誰も気にしない。いちかは、きっと他の誰かからみたら変なひとで気持ちの悪いひとなのかもしれないけど、それでもわたしたちの間ではただのいちかお父さんだった。それに、顔立ちだってなんだか女のひとみたいで、四十をすぎているのにどことなく少女の面影があるみたいにあどけない。けれど、少女ってそんなにいいものなのだろうかといちかに訊いたことがある。きっと、あこがれとか阿りとかなれなかったものだとか、いろいろなものがあるのかもしれない。いちかは笑ってごまかした。
「そうだ。旅行、サーシャをさそったよ」
「来るの?」
「うん」
「そう、よかった」
 どっちのお父さんも本当のお父さん、なんてなかなか嘘だ。好きだからといって、ふたりともがお父さんになる訳ではない。

 サーシャの寝相は悪く、部屋に戻るとベッドの端で落ちそうになっていた。彼女の眠りは浅く、真んなかに戻すと眠たげな瞳が薄く開く。「起きなくていいよ」手をつなぎ、わたしもベッドにはいる。サーシャの体温が残っていて温かい。手をつないで眠れば、彼女もベッドから落ちることはなくなる。
 翌朝、大江さんのつくった朝食をたべ、わたしたちは学校へいく。姿見のまえでおかしなところはないかと確認するたび、わたしは、制服ってなんて不格好な服なのだろうと思う。成長することを見越して買った制服だけど、ウエストはだぼだぼとし、袖も余っている。いちかにはそういうところだってうらやましいといわれるけれど、わたしにはわからなかった。
 彼女が泊まった翌朝はすこし早くお屋敷をでる。サーシャを駅まで送っていかないといけないからだ。電車で三十分くらいの私立校に彼女は通っているのだ。