donuthole.org / novels / 廃屋に花 / 1章-8

120903(Mon) 21:52:01

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「ひーちゃん!」
「ただいま、サーシャ」
 扉をひらくとサーシャが椅子から飛びあがり、抱きついてきた。いつもは、こんなことをしない。「だれ?」小湊さんのことも昨日話したから知っている。なにか、演技をしたい理由があるのだろう。
「ああ。小湊さん。学校が一緒のひと」彼女の思惑をわざわざ壊すこともないのでのってみる。
「はじめまして、サーシャです」
 つやつや光る栗色の髪をみて、小湊さんは本当に外国人だと思ったみたいだ。三年前のことを思いだす。わたしも、はじめてサーシャと知りあったとき、本名ではなくそういわれた。気にいっているそうだ。
「どうも、サーシャちゃん。髪がきれいだね。あたしは小湊結那、今年から秋乃の学校に転校してきたんだ。まえは東京にいたよ」秋乃、と彼女が呼ぶのにサーシャは一瞬だけ反応する。
「ありがとうございます」
 サーシャはくすくす笑いをする。その意味をわたしは知っているけれど、当然小湊さんは知らないので怪訝な顔をする。「あたし、おかしなこといった?」ぐっと踏み込むような口調に、サーシャの目がすこしだけ開かれる。「いいえ。説明しなくてごめんなさい。サーシャはあだ名なの。本名は、有原みゆき。祖母がロシア人ですが、関係はありません。学校の友達がつけたんです」言葉は丁寧で、やっぱり、何か隠したいことがあるのか、装いたいことがあるのだ。
「サーシャちゃんはしっかりしているんだね」彼女の服装をみる。「まだ、あたしより年下なのにね」白いブラウスに臙脂色のタイ、紺色の吊りスカートは小学生の制服というような主張をする。
「ちゃん付けなんていりませんよ。小湊さんは、年上なのですから」抱きついていたからだを離し、勢いをつけてベッドへ座る。わたしたちも鞄を置き、上着をハンガーに掛けた。
「サーシャはいくつ? 小学生なのはわかるけど」
「十歳の、四年生ですよ。小湊さんの三つしたになるのでしょうか」
「へえ、じゃあ、学校の周りの子よりお姉さんなんだね」
「お姉さんなんて、たいしたものじゃないですよ。普通の小学生ですから」
 ベッドにならんで座るふたりは上滑りするような会話をする。互いに警戒するみたいに本題を注意深く避けているように思える。サーシャはときどき、相手の思惑をあるにせよないにせよ顧慮して話そうとする。小湊さんのことはまだ知らない、転校してきた学校では、そういった話しかたをするようなひとが周りにいたのだろうかと、詮索しないという彼女を裏切って考えこむ。
 戸が開き、かずみがやってくる。会話は中断され、彼女はふたりのあいだに流れる雰囲気を察したのだろう、小湊さんの分のお茶を置いたらすぐに去っていったけれど、部屋には沈黙が降りた。
「……サーシャは秋乃と仲がいいんだよね」「ええ、大切なお友達です」「じゃあ、あたしとも友達になろう。きっと、これからもよく顔をあわせるだろうから」
「……小湊さんは、転校してきたんですよね」
「そうだよ。さっきもいったけど、東京から。ここから、電車で二時間くらいのところかな」
「まえの学校はどうでした。いまの学校には、まだ短い時間ですけど、なじめましたか」
「……いいや、まだかな。転校なんて初めてだからね、まだ秋乃以外の友達はなかなかできないよ」
「そうですか。はやく、中学校のみなさんになじんで、たくさん友達ができるといいですね」
「けど、初めての友達だからね、まずは秋乃ともっと仲良くなりたいな」
「仲良く、いったいどうしたいのですか」
「そうだねえ……」息を吸う。「最初は、手をつないでみたいね」
「まあ」サーシャの高い声が部屋に放られる。「積極的なんですね」
 たしかにわたしたちは言葉を交わすようになってから二週間くらいで、サーシャととは違い、日常的に手をつないだりする仲ではない。手をつながない理由はないけれど、つなぐ理由もなかった。けれど小湊さんのいまの言葉で理由ができた。彼女がしたいというのなら、拒む理由もない。だから手を差しだすのだけど、サーシャはそれをさえぎり、まえに立つ。
「私と手をつなぎましょう?」
「ふう……」
 ふたりは握手をする。それからは何でもないような話をしていたけれど、言葉の裏には、わたしにはわからないけれど棘のようなものが隠されていた。一時間ほどで彼女は帰った。
「小湊さん、油断ならないひとだね」
 あんまり苦々しげないいかただったので笑ってしまう。
「どうして? サーシャは小湊さんのことずっと警戒して手のひらで転がすみたいにしてたのに」
「ねえひーちゃん。小湊さんは、きっと、私のいないときにもひーちゃんに仲良くなりたいっていったでしょう。けど、手をつなぎたいとはいわなかった」
 特に記憶を浚うことなくうなずく。仲良くなりたいとはいわれた。手をつなぎたいとは。
「でも、さっきは手をつなぎたいって、具体的にどうしたいっていった。ひーちゃんがね、小湊さんと手をつないだら次はきっと、口づけをしたいっていわれちゃうよ」
「……どうして?」
「小湊さんはね、ひーちゃんと仲良くなりたいって思ってるの。仲良くなりたいって具体性のない目的から、現実に行動可能な手をつなぎたいって目標を導いたの。そんなことにいちいち応えていたら、小湊さんの思うつぼだよ?」
「いけない? 口づけなんて、その……あれだけど。小湊さんと仲良くすることってべつにいけないことじゃないでしょう」
「押し切られちゃうよ。それに、私は……」サーシャは三つ年下なのにわたしよりもずっと頭がよい。口ごもるわたしを見てため息をつかれる。「ひーちゃん、私、小湊さんのこと苦手かも」
「どうしたの? さっきまで、一応仲良くしていたのに」
「辛かったから。でも、さっきまでは気づいてなかったの」
「?」
「ほんとうに楽しいときって、自分がいま楽しいんだって気づかない。ほんとうに辛いときも、一緒。
 ひーちゃんとは毎日一緒にいるから、それがどういうことなのかはわからない。きっと、いつか、もしかしたら、ひーちゃんと一緒にいることがなくなったときにようやくわかるんだ。
 小湊さんのことと同じように、本当は辛いことなのかもしれない。でも、いまは絶対、幸せなことなんだって信じてる。すごくすごく幸せだから、幸せだってことに気づいてないんだって」
 もう一度、こんどはさっきよりも長いため息をつき、うなだれる。まぶたが震え、頬に赤みがさしている。サーシャの頬はいつも赤い。りんごの頬というやつだ。そんな風に頬の赤くなるのは体温が高いからだ。けれどいまは、いつもより赤かった。
「どうして、」
「訊かないで。訊かれたくないよ?」
 わたしたちの関係は到底道徳的ではないし、何かしら未来に繋がってゆくという訳でもない。わたしとサーシャのふたりだけで完結してしまい――そこに、お茶を運んでくれるかずみがいたり、ふたりの父がいたとしても――、まわりに影響を及ぼすこともほとんどない。けれど、そうであるからこそ、わたしとサーシャは他の誰にも見向きされず、求められることのない、自由な関係でいることができた。小学生と中学生の、未来に膨大な時間をのこす人間にとって、この年頃の時間は何にもまして重要なものらしく、未来の自分をやしなうものになるといわれている。けれど、わたしたちはこの時間を無為にすごしている。
 これは屋敷全体を通してそうだ。父たちの関係もそうだし、父とすみれさんも、かずみと大江さんの関係もそうだ。わたしたちの関係は何の発展性も有していない行き詰まったところにある。
「ひーちゃん、好きだよ。好きってだけじゃたりないくらい、たくさんのことをひーちゃんに思うよ。
 がんばるよ。ひーちゃんにわたしの思ってることを伝えられるように。たくさん時間をかけて、思っていることを全部伝えるよ」
「うん……」
「でも、思っていることはきっと伝わらない。けどいいの」
「うん……」
「行動の結果じゃなくて、行動自体が大事なの。私がひーちゃんにしてあげたいとおもうこと全部したい。
 ここには私とひーちゃんしかいないんだよ。ふたりの人間が仕合えることは、ぜんぶ、できるの。
 あることはあるんだよ。どんなに否定したってなくならないよ。どんなに不思議なことも、見えなくすることはできるけどあり続けるの。私は秋乃が好き。何度でもいう。秋乃がみてくれなくなっても、何度でもいって、みてもらいたい。死んでしまうか、いつか好きでなくなってしまうときまで、ずっと、好き」
 サーシャは唐突にまくしたてる。わたしはそれにどう答えたらいいかわからなくなってしまう。