donuthole.org / novels / 廃屋に花 / 1章-9

120904(Tue) 22:05:39

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 今日はサーシャも泊まっていかないし、小湊さんも帰ってしまった。話し声であふれていた部屋はもうひっそりと沈んでいるのに、耳元ではまだ会話が聞こえてくる気がする。小湊さんはわたしのことが好き、なんて、そんなことあるのだろうか。だって、わたしはまだ彼女のことをほとんど知らない。サーシャの考えすぎなんじゃないかと思う。
 思って、考える。もし、ほんとうにそうだったら。わたしは彼女に応えるだろうか。応えたら、どうなるだろうか。きっと、付きあうとか、そういうことになるのだろう。けれどわたしはそういったことはしたことがない。仲がいい、歳の近いひとなんてサーシャしかいない。サーシャのことは好きで、サーシャもわたしを好いてくれているけれど、付きあうとかではない。わたしは付きあっているひとがいない。だからといって、小湊さんと付きあうとは限らない。そうしたら、きっと、サーシャはあまりよろこんではくれないだろうから。
 ふぅ……と息を吐いてベッドに倒れこむ。夕方になり山のほうから雲がでて、夕陽がぼやっと光っている。雨でも降りそうな感じだ。そういえば、自転車を門のまえにおいたままだった。小湊さんに、生活を乱されているような気がする。普段だったら自転車を門のまえに駐めたままにすることなんてない。もう一度、今度はしっかりとため息をつく。生活が乱されて、煩わしいと思うのだろうか、思う以前にわたしは彼女のことを思いだし、考えている。サーシャのいうことも思いだす、油断ならないひと。押し切られちゃう。思いかえせばそんな気がしてきてしまう。仲良くなりたいといいつきまとわれることも、うちに来たいといったことも。思いだせば何でそんなことを了解したのかわからないのに気づいたらそうしてしまっていた。そんなことはないだろうけど、きっと、手をつなぐこと以上のこともしてしまいそうな気がしてくる。そうしたら、サーシャは、何と思うだろうか。小湊さんのことを考えているのに、サーシャのことを考えていたら小湊さんは不貞というだろうか、サーシャにも、怒られてしまうだろうか。
「よっし……」全部、考えてもわからないことだ。小さな印象と出来事を反芻したからといって未来のことがわかるようになる訳でもない。せいぜい、予想と大きくずれなかったとき、動揺にからだを支配されなくなることくらいしか望めない。それだけなら、不安な時間をすごすよりも、彼女と接するときに精一杯動揺し取り乱そう。そのほうが誠実だ。未来のことを斟酌しきたるべきときに備えたところでそのときはこないかもしれないし、それに、そのとき感じることをいまから恐れて無害にしようとしたって、そんなのは吹けば飛ぶような安心にしかならない。きっと、小湊さんだって、取り乱しているわたしのほうを好ましく思ってくれるだろう。
 そんなことをいっても、茫洋とした未来の影は消えてくれない。揺らめきながら、差しかけるそれをみないようにして、部屋をでる。階段を一段ずつ下りるたびに耳元で鳴る話し声は薄れてゆく。ただ、その声は怖いと思っていたはずなのにいざ薄れてしまうととても寂しく思えた。
 台所に入るとかずみと大江さんがいる。この時間になると何か毎日の仕事以外のこと(たとえば、季節のかわり目に庭を申し訳程度に整備するとか)がなければもう仕事はあらかた片付いてしまい、夕食の支度まで休憩している。
「大江さん、わたしにもお茶をちょうだい」
 すこし緊張して言葉を吐いた。昨日のこともあるし、それに、お願いごとをするのは得意なのに命令をするのは少し苦手だった。大江さんもかずみも同時に立ちあがり、大江さんはお湯を沸かし、かずみは戸棚からカップを取りだす。ひとりでやってもふたりでやってもそう変わらないことなのに、ふたりは、ふたりでいるとき些細なことを分けあう。だいぶ陽は翳っていても電気はつけられない。わたしと同様、お屋敷のひとたちはあまり電気をつけない。部屋の隅にも棚のあいだにも、テーブルのしたにも陰は落ち、暗く、見えないようにしてしまっている。
 台所や食堂、リビングの家具はお屋敷が移築されたときに一緒に持ちこまれたものらしく、椅子は深く腰掛けると軋んで音をたてる。机も最近まで肘をついたりするとがたがたと揺れたけれど、大江さんが直してくれたのでいまは四つの脚をしっかりと床におろしている。大江さんは昔のことをあまり話してくれないけれど、なんでも大学ではそういったことを専門にしていたらしく、日曜大工みたいなことが得意で素人仕事だけどといってお屋敷の修繕もしてくれている。むかしにも、納屋のほうで溶接をしていたことがあった。わたしがおもしろがって近づくと、目を焼いちゃうよと珍しく大きな声をだしていた。ふたりは目配せをしてわたしの両隣に座る。
「秋乃、笑って?」大江さんにいわれて、ようやくわたしは表情に力をいれていたことに気がつく。
「そんなに怖い顔してた?」
「怖くはないですが、眉間にしわを寄せて、困ってるような顔をしていましたから」手のひらを顔にあて、表情をほぐしてゆく。鏡のまえで何度も練習した笑顔を作り、笑いかける。魔法の練習は毎日している、それなのに自分がどんな顔をしているのかわからないなんてどうかしている。小湊さんのことをそんなに考えこんでいたのだろうか。
「そんなに笑わなくていいです。普段通りの顔で。何か、心配事でもあるのですか」かずみがいう。
「心配事……」小湊さんのことを話してしまってもいいのか、こんな話、いきなりしてしまったら困惑させてしまわないだろうか。
「また、難しい顔していますよ」大江さんに笑いかけられる。
「……えっと、かずみと大江さんは仲がいいよね。仲良しって、どんなことをして、どんなことをしないの?」
「秋乃、まるで隠しごとをしたいみたいですね」「そうですね……どんなことでもできます。ふたりでできることならなんでも。起きそうなことも、起こりそうにないことも」
 わたしとサーシャのあいだにはどんなことが起きていただろう。中学生と小学生のあいだには起こりそうもないことはあっただろうか。わたしがサーシャに甘えていることは起きなさそうなことだろうか。サーシャがいった、口づけとそれ以上のことは起きなさそうなことだろうか。きっと、あまりあることではないけど、そういうことをするひとだっているだろう。いかにも起きそうではないけど、まったく起きないとはいいきれない、ふたりの人間がいたらできることのひとつをしていた。
「また。隠しごとはよくありませんよ。嘘をついてしまいますから。嘘をついたら、大変ですよ? 嘘を嘘だって知られてしまったら、嘘を隠すためにもっとたくさんの嘘をつかなくちゃいけなくなってしまいますから」「隠しごとをしたいのは、なにか後ろめたいことがあるからでしょうか?」
 後ろめたいこと、サーシャとのことは、わざわざひとに話すことではないし、話したことはないけれど、周りのひとからみたら気持ち悪いといわれてしまうかもしれないけれど、わたしは悪いことだと思っていない。小湊さんとそういうことになったら、きっと、ただふたりのあいだであったことなのに、誰に話す必要もないのに後ろめたいことだと思ってしまうかもしれない。サーシャとのことをそう思わない理由は、わたしと彼女は同体でいるような気がしているから。わたしとサーシャは分かちがたいものだから、そうしたことをするのもあっておかしくないことの気がする。けれど、小湊さんのことはまだよく知らないし、友達、ではあるけど、それ以上のものであったり、同体である、と思うこともない。そうしたことをしようと思ったら、きっと、明確な意思が必要になる。強くそうしたいと思わないといけない、思って、行動をはばむ意思や規範を乗りこえないといけない。自分の行動に言い訳をつけないといけなくなるから、後ろめたいと思うのかもしれない。
「後ろめたいこと、あった。たぶん、ふたりに隠したがってる」
「そうですか、話したいことのようでしたらきかせていただきます。話したくないことでしたら、訊きません」
 一瞬ためらって首を横にふる。
「そうですか。なら、話さなくていいです」
 ふたりは立ちあがり、わたしのぶんのお茶を淹れてくれる。
 もう一度、小湊さんとそういったことをすることを想像する。言い訳は、わたしの行動を思いとどまらせるものを無効にする。何が思いとどまらせるのだろう、わたしと彼女のあいだに起こりそうにないことを起こりそうなことにかえる必要がある。わたしは、彼女とそういったことをすることを当たりまえに起きることだと思っていない。友達同士のあいだでいかにも起こりそうなことではなくて、恋人どうし、みたいなものにはいかにも起こりそうなことのような気がする。友達どうしを恋人どうしにかえてしまうために何を言い訳にするのだろ。彼女のことを好きというのだろうか、愛していると思うのだろうか。そう思うことで、友達同士の好きをちがう好きにかえようとする。好きだから、そういったことをする、なんていうのはやはり言い訳がましくて、嫌らしいことだ。サーシャとのあいだにそういったことはない。好きだからする訳じゃない。したいと思うこともない。何も思うことはなく、ただ気がついたらそういうことをしている気がする。
 けれど、友達同士の好きとそういったことをする好きに何か違いがあるのだろうか。すごく好きな友達だったら、そういったこともあるかもしれない。想像はするけれど経験は乏しく、思うことの何もかもが机上の空論のような気がする。
 それなのに、そういったことを想像するたび、想像は迫ってきて行動をうながすようだった。
 茶碗を差しだされる。くちをつけると砂糖をいれていないのに甘やかに感じられる。
「大江さんのほうがお茶を淹れるのが上手だよね。かずみのお茶もおいしいけど」
 かみずは大江さんに笑いかける。大江さんは困ったように笑う。
「お屋敷で働くまえは、お茶を淹れることもありませんでしたから。練習しました」
「教えたわたしよりうまくなっちゃうんだよ。わたしは練習しなかったからだけどね。実家を出て、自分のためにお茶を淹れることなんてなくなって、おいしくいれようなんて思うこともなかなかなくなっちゃったから」不意にかずみは口調を崩す。
「——知紗はね、そういうことをしなかったから。実家にいたときは、だれもお茶なんて飲まなかったし、だから練習したの」つられたのか、大江さんも口調を崩す。
 ときどき、彼女は自分のことを名前で呼ぶ。そして、そのあとには恥ずかしそうにうつむく。きっと歳をとってから自分のことを名前で呼ぶのは恥ずかしいことなのだろう。学校には何人かそうするひとがいるけれど、小学生のときとくらべたら随分減っていた。
「知紗さんね、うちで働くようになってはじめてわたしに訊いたことがお茶の淹れかただったんだよ。他のことはいろいろできるのに、お茶はどうやって淹れたらいいかわからないって、泣きそうになってたの」
「恥ずかしいよ。そんなむかしのこと……」
「そうだねえ……かずみは、そういうのに慣れてたからかなあ。でも、知紗さんみたいに大工仕事ができる訳じゃないし、庭の手入れの仕方も教えてもらったでしょ。おあいこだよ」
 かずみも、ときどき自分のことを名前で呼ぶ。けれど、それを恥ずかしがることはない。
 大江さんはため息をつく。「けど、私はかずみみたいな育ちかたをしなかったから」
「わたしだって、いまこうやってできてるんだから自分の育ちかたは好きだけど、でもえらんだ訳じゃないよ。それに、かずみはいまの知紗さんのこと好きだよ。可愛くって、いじましくて。いじましいっていっちゃだめだよね」
「きょうはかずみ、随分いじわるするよ」
「……知紗さんね、お茶の淹れかたを訊いたら、今度は女の子らしい振る舞いってどうしたらいいのって訊くんだよ。もう可愛くってね、毎日教えたよ。わたしは小学校からずっと女子校だったからそういうの気にしたことないけど、知紗のよろこぶ顔をみてたらね、こんなことでもよろこんでくれるんだなって思って……そんな、女の子らしい振る舞いなんて学生のときは冗談の種みたいなものだったのに」
「それは秘密……」
「ごめんね」
 笑う顔は大江さんをもっと困らせてしまう。困った顔をしているのに、彼女はうれしそうだった。
 ふたりは仲がいい。このふたりのあいだでは、起こりそうなことも起こらなさそうなことも起きるのかもしれない。
 それから、かずみと大江さんは昔話をする。十代の、学生のころの話だった。かずみは女子校の生活がどんなものだったか、大江さんは男兄弟しかいない家で育って、自分も男らしくなってしまったところがあまり好きではないだとか。話をしているうちに、夕食の支度をする時間をまわっていた。台所は暗く沈み、雨の音がきこえていた。自転車は雨ざらしになっているだろう。
 ふたりは二十代の後半で、大江さんのほうがひとつかふたつ年上だ。そんな歳になれば、学校のことなんてむかしのことになってしまうのだろうか。きっと、学生のころには面倒なことや悩みごともたくさんあっただろうけど、そのことが口にのぼることはなかった。

 夕食後、部屋に戻り、姿見のまえで魔法の練習をした。思った通りのことを思ったまま伝えるために、なんども表情をつくる。かずみや大江さんみたいに、魔女じゃなくても魔法みたいに感情を伝え、相手を思うままにしてしまうことがある。わたしは、まだそれもできなかった。
 明日、小湊さんにあったら魔法を使ってみようと思う。それは魔法を使ってもこころが痛まないからではない、彼女をよろこばせてあげたいと思ったからだ。嫌いではない、好きでもまだない。けれど彼女のよろこぶ顔がみたかった。