donuthole.org / novels / 廃屋に花 / 2章-10

120919(Wed) 21:22:36

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 戻ってきた結那は妙におとなしくなっていた。サーシャが何か変なことをいって、混乱させたのではないかと心配になる。
「よく休めた?」
 また気軽な風にサーシャが口はひらく。なんだか、何か隠しごとをしているような気のする口調だった。
「どうだろ。横になってたけど、ふたりのことが気になってたかな」
「そっか、じゃあ、わるいことしちゃった」
 サーシャはわたしの隣に座って横になる。その隣では結那が同じようにする。何となく勘ぐりたくなってしまう仕草で、想像を巡らせる。巡らせて、黙っているあいだに結那はサーシャのほうへ近づき、半身を重ねている。恐ろしい想像ではなく、楽しいことだった。ふたりが仲良くなってくれたら。
 わたしも、サーシャにからだを寄せ、腕を重ねる。服越しにくすぐったい感触がつたわる。ふたりの呼吸の音がかすかにきこえてくる。「こうしてたら眠っちゃいそう」結那がいう。サーシャは手を持ちあげ彼女の唇をふさぐ。わたしはふたりの様をみている。
「海へいこう」再び結那が口をひらく。今度は、口をふさがれることもなかった。からだを起こし、ボストンバッグからいくつか荷物を移している。サーシャに手をとられ起きあがらせられる。ひとりで立ち上がろうとする彼女の背中を抱き、とどまらせようとする。「今日はやさしい日なの?」「特別、やさしいなんてことはないよ」
 せわしなく支度をする彼女の姿を眺めていた。「私も準備しなくちゃ」「何か、することがあるの?」
「日傘と、日焼けどめを塗らなきゃ。ひーちゃんも塗る?」
「わたしは、いい」
 それから、何も支度をしないままでようとするわたしをサーシャは引き留めて、寝乱れた髪をととのえられた。ブラシを手繰り、体温のたかい指が触れる。結んだ髪をほどかれ、一房ずつ三つ編みに結われた。

 お屋敷の裏手の海は海水浴場という風ではない、ほとんど磯といった感じの海だった。振り返ると、岸壁のうえに屋敷の屋根がみえる。三時すぎで、陽はまだ暮れないけれど傾きはじめ、夕方の直前、オレンジになるまえの光が森のほうから差している。磯へ降りる長い階段をくだり、わたしたちはすこし疲れていた。結那のむかしのことは知らないけれど(彼女の以前の学校の話を、わたしはほとんど知らない)、彼女もわたしとサーシャと同じ、運動不足みたいだった。いったい何を用意してきたのか、わたしたちは手ぶらだけれど結那だけは膨らんだ鞄を持っている。
「だれもこなさそうな海だね」
「まだ海水浴の季節でもないし、犬の散歩にだってこんなところまでは来ないでしょう」
 海は荒れているとはいわないけれど、白い波を磯で砕けさせている。波の音と、赤松のあいだを風がすぎる音、何かの鳥の声しかしないさみしい海だった。きっと、夕方になったらお屋敷のほうに日が暮れ、暗く、もっとさみしいところになるだろう。
「アドリア海みたい」結那がいう。
「いったことあるの?」
「昔、旅行で一度だけね。ひとは、ここよりたくさんいてにぎやかだったけど」
「ふぅん……」
 昨日いっていた、夏休みに家族で旅行へいく話だろう。そんな風に、言葉の通じない遠くへいくというのはどういう感じがするのだろう。わたしたち家族は無口だ。わたしもサーシャも、菊太郎もいちかもすみれさんも、かずみも大江さんも、あまり口をひらくことはない。結那の家族はどんなだろう。彼女は弟と仲がよいのだろうか。仲がよくて、たくさん喋るようだったら、言葉の通じない場所でも、どこでも、あまり変わらないのかもしれない。想像でしかないけれど。
 結那は鞄に手を突っこみカメラを取りだす。わたしは、結局カメラをもってきていなかった。
「笑って」
「何。写真撮るの?」
「記念だよ」
「何の……?」
「いま考えることなんてないよ。あとで見返したら何か記念になるかもしれないでしょ」
 サーシャははわたしの腕をとる。とり、力をこめる。魂がとられてしまう訳でもあるまいのに、随分とけったいな仕草だった。「嫌? 嫌なら断ろうか?」「ううん。いい。一緒に映ろう」
 日傘を傾け、ひとつの傘にふたりではいる。
「顔が写らないよ」シャッターを切る音が聞こえる。
 彼女の肌は白い。白くて、紺色のカーディガンにひきたてられ、やたらと白く映る。肌が弱いそうで、春先からずっと日傘を持ち歩いている。だから、こんなに色が白いのだろうか。「ほら、傘をあげて」傘の柄を握る手に自分の手を添えさせ、持ちあげる。風が吹き、傘はふらりふらりと揺れる。
 フラッシュは焚かれなかった。カメラのほうを向かず、ふたりして顔を見合わせているときにシャッターは切られた。結那は手を振りながらこちらへ戻ってくる。「今度は、秋乃が撮って。交代で写ろう」
 ふたりが並び、こっちを向いたときにシャッターを切る。合図はしなかった。笑って、ともいわなかった。
「何もいわないんだね」結那がいう。
 次はサーシャにカメラを渡し、結那と写る。カメラを構える彼女のかわりに日傘はわたしがもった、結那はそういうのが好きなのだろう。手をつなぎ、ピースサインをする。またシャッターが切られ、今度はこれでおしまい。
「写真、あとで焼いてね」
「楽しみになってきたの? いま見る?」結那は笑いながらいう。
「いいよ。あとでで。でも、楽しみにしてるから」
 楽しみなことは楽しみだった。いま、どんな風に、焼かれた写真を見るのかはわからない。うまく写っていないかもしれない、それでもよくて、記念になるとも思っていないけれど、やっぱりそれでもよくて、ただ何となく理由もなく、彼女に写真を渡されるときを楽しみにしている。
「あたし、泳ごうと思うんだけどふたりもどう? いまから水着とりにいくの大変?」
「大変というか、寒くて泳げないんじゃないの? まだ四月だよ」
 服をきていても肌寒く、海にはいったら凍えてしまうだろう。
「それに、足がつったりしたら大変だよ。溺れたら、わたし、助けられないよ」
「準備体操するから」
 そういって、彼女は服を脱ぎはじめる。「ここで着替えるの。丸見えだし……」「誰にもみられやしないよ」手際よく着替えてゆくけれど、吹きさらしで髪をはためかせる彼女の姿はどうみても寒そうだった。着替え終えた白いビキニは自分で買ったのだろうか、お腹も丸出しだし、これでは風邪をひいてしまうだろう。サンダルも脱いで、素足のまま磯を渡ってゆく。すこし痛いみたいで、慎重そうに海の際まで歩き、準備体操をする。
 サーシャとあまりごつごつしていない岩を選んで座り、お屋敷をでるまえに水筒にいれてもらったお茶をのむ。風がつよく、寒い日で、手に持った水筒の蓋があたたかく感じられる。準備運動を終えた結那は海にはいる。彼女ばかりが寒さも感じないみたいに波に抗い、しぶきをたてている。
「寒くないのー?」
 出し抜けにサーシャが大声をだす。岸辺からはなれた結那は手をふり、「寒いよー!」と返した。寒いなら、早くあがればいいのに。
「写真、楽しみなんだ」大きな声を忘れたみたいに、肩のふれる距離だけで聞こえる声の大きさで訊かれる。
「楽しみだよ。そういえば、サーシャと一緒に映った写真なんてなかったしね」
「毎日みてくれる?」
「たぶんね。部屋の、いつも目につくところに飾っておくよ」
「じゃあ、よかった」
「サーシャはどうなの。写真、苦手?」
「苦手じゃないけど、得意じゃないよ。きっと、あとで見返したら恥ずかしくなるから。でも、毎日みられてたら、そんなにへんにみえないから」
「そっか、じゃあ……ベッドのところに飾るね」
 そういって笑う。彼女は結那の鞄に手を伸ばし、カメラを取りだす。海のほうへむけ、シャッターを切る。ぱちりぱちりと何枚も撮る。
「日付、したのところにでたりするのかな」
「どうして?」
「きっと、何年もしたら四月の海にはいるなんて何してたんだろうって、ゆいが恥ずかしがってくれるかなって」
「どうだろう。結那、そういうのあんまり気にしなさそう」
「そうかも」
 また笑う。撮られていることに気づいた結那はこちらに手を振り、岸へあがる。
「ゆい、笑ってー」
 その通り、満面の笑みでまたピースサインをする。風が吹いて髪や水着からぽたぽたしずくがこぼれて、きっと寒いのだろうに笑みを崩さない。サーシャは何枚も撮る。
「もー早く撮ってくれないからからだ冷えちゃったよ」
「四月に海はいってたらいつ撮っても寒いでしょ」カメラを確認しながらサーシャがいう。
「海のなかのほうが暖かいんだよ?」
 用意はしてきたらしく、鞄からタオルをとりだしからだをぬぐってゆく。
「ほら、こんなに冷えちゃった」拭った手のひらをサーシャの頬にあてる。彼女は驚いて飛びあがり、すこしむくれた表情をする。
 わたしはふたりの様子を何となくみていた。雲が出始め、海の遠くのほうが赤銅色に光っている。明日は雨が降るかもしれない。雲間から光がさし、天使のはしごが降りている。
 天使のことを思いだす。わたしは、いまよりずっと小さなころに天使をみた。彼女の正体は未だに知らないし、サーシャのいうまっくろくろすけやトトロみたいに存在しない、空想のものを他の何かに見間違えたのかもしれない。けれど、あって欲しいと思っている。屋根裏の怪物も、なにもかもは実在しないのに、存在していて欲しいとつよく願っている。