donuthole.org / novels / 廃屋に花 / 2章-13

120922(Sat) 22:44:28

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 濡らしたまま眠った髪は朝になるころにはふくらみ、方々へはねている。今日は旅行の最終日、山のお屋敷へ戻る日だった。夜遅くまで起きていたわたしたちは案の定寝坊してしまい、慌てて髪をととのえた。旅行鞄は口を開けたまま放られ、けれど今日は一緒に着替えをする。
 今日は近くの海岸沿いにあるいちご狩り農園へ行くそうだ。昨日の夕方からは晴れていて、車から降りると晴天が海の向こうまで続いている。駐車場からビニールハウスまでは歩いて二分くらいで、途中、岸壁沿いのみちを渡ってゆく。潮風が吹き、まだ若草色の犬麦やオニアザミ、ハルジョオンなど背の低い草を揺らす。菊太郎とすみれさんが先頭を歩き、つぎにわたしとサーシャ、結那はこわごわしながら海風にさびた手すりとかずみの手をつかんでいる。三棟のビニールハウスのまえには受付のおばさんがいて、わたしたちはプラスチックのパックと練乳のチューブを受けとった。広いビニールハウスのなかには、他に二組の家族連れと男女しかおらず、ゴールデンウィークなのに大丈夫なのだろうかとすこし思う。
 いくつもの畝がはしり、いちごの葉が茂るあいだに白や赤の実が見える。「赤い実、たくさんあるね!」サーシャはそういい、畝のなかを進んでゆくのでついて行く。ひとがすれ違えないくらいの道で、転ばないようにゆっくりと進む。畝の中頃で立ち止まり、いくつかのいちごを摘む。形のきれいなものから、二股みたいに分かれたものまでたくさんの実がなっている。サーシャは摘んでは口へ運び、わたしと結那も同じようにする。
「ほら、これ大きいよ」
 そういって、四センチくらいあるいちごを目のまえに差しだすとサーシャは首を伸ばしてわたしの手からたべてしまう。その様がなんとなく面白く感じられ、もうひとつ摘み口へ運びと繰りかえす。
「なにしてんの……」というのは結那で、「餌付け?」というのはかずみで、ふたりはやっぱりいつの間にか仲良くなっているみたいだった。結那は首に提げたカメラでわたしたちを撮り、かずみはわたしがするように結那の口へいちごを運んでいる。
 菊太郎とすみれさんは端のほうでふたりでいる。いまのように毎日顔をあわせるわけではないけれど、生まれたときからすみれさんとは知りあっていた。親しげなふたりをみて、小さなわたしはふたりの関係を夫婦だと思った。幼稚園のころ、そのことを訊いたけれど笑って違うよといわれたことを思いだす。ふたりは付きあっているとかではない。むかしにも、そういうことがあったとはきいていない。
 わたしたちはお腹がくるしくなるまでいちごをたべた。これ以上たべられなくなるまでたべても、まだたべたりない気がする。ひとり二パックまで持って帰ってよいそうだ。最後に摘んだいちごを持ち持ち帰る。たくさんのいちごはかずみか大江さんがジャムにするだろう。それがまた楽しみだった。

 お屋敷へ戻り、最初の予定では昼食のあと帰るはずだったけれどわたしたちはお腹がいっぱいで、菊太郎たちが昼食をとるあいだ散歩へ行くことになった。
「まだくるしいね」
「ひーちゃんがたくさんたべさせるんだから……」
 わたしは先頭を、結那はサーシャと手をつないで階段を下りる。初日ほどつよい風は吹いておらず、風にからだがあおられることもない。穏やかな春の日で、散歩をするには絶好の日だった。
「今日は暖かいから泳げるかも知れないね」
「服を脱いだら寒いよ」なんて、ひとり泳いでいた結那がいうのでわたしもサーシャも笑った。
 磯を歩き、蟹を捕まえた。サーシャが流れ着いた昆布を両手にもってわたしと結那を追いかけた。そうして走り回り、笑いあって、一時間もするころには疲れて、座りこんだり寝転んだりしていた。見た目には平らな岩のうえといっても、ごつごつとしていて背中や頭が痛かった。
 座りこんで空を見上げていたとき、雲間に姿が見えた。わたしが小さなころにみた生き物の姿だ。
「あっ、天使……」
 怪物もお化けも悪魔も天使もいない、けれど、わたしには見えていた。
 雲のあいだを飛ぶ小さな影を指さす。ふたりはそれを見上げる。

 わたしたちが戻ると昼食はおわっていて、名残惜しいけれど帰ることになる。きたときに開け放ったすべての窓をかずみひとりで閉めてまわることはできないので手分けして屋敷じゅうをまわった。屋根裏部屋も昼間になれば日の注ぐ普通の部屋で、怪物の姿はまったく見えない。けれど、さっきみた天使の姿が、非存在の姿を強調する。ここは魔女の隠棲、屋根裏に潜む怪物がいたっておかしくはない。そう想像しながら鎧戸を閉める。
 すべての鎧戸を閉めた窓から室内へ光は注がず、再び誰かが訪れるまでお屋敷のなかは真っ暗闇のなかに閉ざされる。そのなかで涵養される生物がいるのか、存在しないまっくろくろすけのようなものがいることは、再び訪れた何者かの目にその姿を現すことはあるのだろうか。すみれさんに、お屋敷にはどんな目に見えないものが住んでいるのか訊くと、あたしが喚びだせばどんな恐ろしい怪物だってあらわれると笑っていわれる。
 山のお屋敷に戻るころには、楽しさに忘れていた疲れがあらわれ、わたしたちは後部座席ですっかり眠っていた。