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1章 縫いぐるみ工場の陰謀
1 縫いぐるみ王国の創成
 ごうんごうんと音をたてベルトコンベアはまわる。キャタピラみたいにおわりのない搬送帯が太陽系のちいさな惑星で棄てられた縫いぐるみたちを昼夜や時間のべつない、深宇宙の小惑星の、縫いぐるみ工場へ寡黙にはこびつづける。岩場のつづく星にはコンベアにはこばれた縫いぐるみが積みあがり、小山になっている。空は黒くて空気はない。縫いぐるみたちは喋ることなく宇宙のおわりをまっている。だけど、ときどき動きだす縫いぐるみがいる。当時八歳だった女の子に棄てられた兎の縫いぐるみが、終わりなくまわるコンベアに運ばれ縫いぐるみ工場へやってきた。搬送帯のうえで目をさまし、縫いぐるみの山に落下する。
「ぼくは棄てられてしまった。あんなに大事にしてくれた女の子もいない。暗くて寒い星のうえで一人ぽっちでいる。ここには縫いぐるみの残骸しかいない。ここには、ぼくひとりしかいない……」
 兎の縫いぐるみだったぼくは草の一本もはえない岩場に立つ。生きているものは何もない。大気のない真暗な空に、遠くには燃える恒星だ。他の星は遠くに小さく点のようにしかみえない。
「寒くて凍えそうだ」
 ここは深宇宙の縫いぐるみ工場。コンベアに運ばれ、棄てられた縫いぐるみが一体一体はこばれてくる。縫いぐるみで遊ぶ小さな子は居ない。縫いぐるみはたくさんいるのにひとりひとりは一人ぽっち、山になって宇宙の終わりがすべてをばらばらにしてしまうときをまっている。
 縫いぐるみは山になった縫いぐるみの一体を抱きあげる。話しかけても返事はない。動く縫いぐるみは彼ひとりだ。他の縫いぐるみはゴミ捨て場の山みたいだ。そのうち、いつか、布の皮膚の内側につまった綿がぼろぼろになるまえに動く縫いぐるみがやってきたら、みんなで幸せに暮らそうと思った。
「縫いぐるみ王国の建国を宣言する。縫いぐるみのみんなが幸せに暮らせるときがきたらいいなあ」
2 Shame on
 山になった毛布とタオルケット、灰色のシーツのあいだで目をさます。となりで眠る潔癖の男がえらんだリネンのシーツは、もう少しまえまでは硬かったけれど洗濯するうちにくたびれ、灰色ぎみになっていた。枕なしで眠った朝はシーツか、シーツと同じくらいくたびれた毛布やタオルケットのなかで目をさます。亜麻色みたいな髪が波に揺らめく水草みたいにあたりに散らばっている。朝おきたら街もこのアパートも水びたしになって、ベッドでどこまでも漕いでいけたらいいなとときどき思う。それから、私が目をさました朝には男はいつも眠ったままで、そういう朝はもやもやした残酷な気分になる。「何もいわず消息をたったら、手ひどい裏切りかたをして暴風のように男のすべてを薙ぎたおしていったら、男はどうするのだろう。探したり、恨んだりするだろうか」「だけど、そうやって思うのは私が子どもだからで、彼きっとなんとも、秋のおわりになって枯葉が枝からおちた、くらいにしか思わないだろう。そもそも、こういうことを考えること自体が、私が、彼に、依存しているってことなんだ」カーテンの隙間から何時間も眠ったあとの吐息みたいな青く湿った光が漏れている。夜おそく眠ったけれど私の喉はエアコンのせいで渇いて、砂みたいな息をする。嫌なことばっかりだ。寝具のなかで踵がおちつかず、蒲団を蹴りあげてしまいたくなる。そうしたら男は寒いだろう。だから、優しくしたいと思って、エアコンの熱風と私たちの体温で水死体みたいに膨張した毛布を蹴りあげない。かわりに水死体の毛布でぶよぶよになった男の指に指をからめる。骨張っているけど火照った指どうしが触れ、皮膚はやぶけ、体温と体液が直接まざりあうのを待つ。灰色のシーツと毛布ら波打つさまは荒れた海で、そこにちらばる髪は海賊の遺した金貨のあふれるさまだ。やがて灰色の荒れた海と金貨の波をさらう、深宇宙からやってくる愛おしさがからだを捉えるまでそのままでいよう。
 未だ稚い様相を顔とからだ一面にぶちまけたみたいな私は(また、私と似たような孤独の大海の最中にいる彼女らと同じように)、こういったときどんなことを考えたり口にしたらいいのかわからない。錯覚だと識っているけれど愛おしくてたまらない、全宇宙で最後の恋をむかえる、千の朝に立ちむかう言葉を私はしらない(ほんとうは、これはぜんぜん最後の恋なんかじゃない。ありふれたつまらない恋で、いつかおわるときがくる。別れたあとは何でもなかったように新しい男を見つける)。
 だからゆるして欲しい。行為の最中に何を考えていたらいいのかわからず九九をしてまだちゃんとかしこくいるって確認することを、学校で全然とけない積分の計算を、ベッドのうえでもちゃんと解けないことを確認して私は世界でいちばんキュートで素晴らしい女子高(校)生だって確認することを、私はゆるして欲しい。世界でいちばん可愛い女子高生は、九九はとけるけど二次関数も対数も微分も積分もわからないってことを、数学の先生でもなく、爆殺された張作霖のことを教えてくれた世界史の先生でもなく、大好きなお菓子の香料(パイナップルは酢酸エチル)もバファリンも試験管のエステルだってことを教えてくれた化学の先生でもなく、他でもない目の前でセックスをしているティーンエイジャーに認めて欲しいだけなんだ。
 深宇宙からやってくる最後の恋のきざしもうまくつかまえられず、にぎった指にながれる血を(その血と将来赤ちゃんにあげるだろうおっぱいはほとんどおなじ成分であることをかしこい女子高校生は保健の授業できいている)想像し、指の先まで拍動をつたえる心臓がたしかに脈うつ、広くも薄くもなく青白い女の胸みたいに静脈の透ける、胸板に耳をつけ、肋骨と肉の奥の心臓がしっかり動いていることを確認するなんて不義を、しっかりできない(けど、ちゃんとしっかりしたいって思っているんだよ)、幼い私を認めてくれることをまっている。眠っている心臓のはたらきはかすかで、指まで伝わる拍動は弱々しい。そのことを知識だけではあき足らず、からだで知って安心することをゆるして欲しい。
 そのことを知り安心し、起こさないようにベッドからでる。服をきないからだだけど、エアコンの吐いた空気がみんなぶよぶよの曖昧にしてしまったなかで部屋の温度はわからない。フローリングだけが蹠からいまは冬でとても寒いのだと忠実に報らせてくれる。放りだした制服のブラウスを羽織って、軋む窓をあける。硬くてつめたい冬の風が吹きこんで、白い肌とか首筋、乳房、浮きでた肋骨の隙間をすべってゆく。こうしたとき、深宇宙からやってくる恋や、一度だけの本当の恋愛なんてものが幻想であることをたしかなからだで認められる。冬の朝は無色彩の海に沈んでいて、突き刺す風のそれだけが高分子の幻想をくだいてくれる。窓枠においた煙草と交代に手を衝き、身いっぱいに冬の苦しいにおいを吸いこもうとするけれど、冷えた風は鼻や口の粘膜を痛くしてしまう。大きらいな稚さと幼さを無数の恒星みたいにぶちまけたからだとそのなかにつまった傲慢、それから未だ未熟だけれど子どもじゃなくなってしまったことが突然嫌になるほどわかる。もっと小さな頃、箪笥の影にさえ認めることのできた死の影が払拭されてしまっている。もう言葉にすることもできなくなり、ぼんやりした象牙色の蒸気のかたちでもいれなくなった死への深い理解が跡形もなく残酷に砕かれていることがわかってしまうのだ。くわえた煙草を指にはさみ息を吐く。息が白いのは結露なのか煙なのかわからない。なにもかも曖昧で嫌になってしまうし、ちゃんと識っているのに信じることのできない二十になったときの未来が待てず、もうどうしようもないってわかっている、わかっているんだ。早朝の街は灯りが点いていなくて陽も色をつけるまえで、じっと灰色をしている。無彩色の海のなかで煙草の穂先だけが赤く、吸いこむたび明滅している。乾燥した喉で煙草をすって、溜息を吐こうにも擦れた声にしかならない。蛙みたいにみじめで、手をついた窓枠から崩れそうになる。何もかもがうまくめぐっていない気がしてならない。クーラーの音がうるさく感じるけれど、雪のふりだしそうな空は一面しんとしていて、眠る男の息だって、煙草の燃えるかすかな音だってききわけられそうだ。強く吸い込むとタールの炸ける閃光も、三棟の集合住宅といくらかの家の建つ小さな集落は眠っていて、ここに住む彼らの寝息が口から冷えた室内へ、窓の外へ、空へのぼるさまもみえる。街の向こうの雪原と防風林も眠っている。灰色の水が渦を巻く海も、ときどき神話的に翼をひらめかせる海鳥もずっと、冬のあいだは眠っている。
 男をそろそろ起こすべきだろうかと考える。でも、彼をやさしく眠りの淵から引きあげる言葉をしらなくて、私はどうすることもできない。煙草はいつの間にかフィルタの間際まで燃えていて、灰が音をたてず窓枠の水混じりの雪の残骸に混じってきたなくなっていた。それらをみながら、ゴーギャンの絵のタイトルのこと考える。どこからきて、何者で、どこへ行くのか。歪んだサッシのきしむ金属の音をのこして窓はとじられる。隙がなく、すべてを凍らせる風はもう入ってこない。部屋のなかは窒息しそうなほどあたたかなエアコンの空気で再びいっぱいになる。この男がいるから私に縫いぐるみはいらない。だけど、それも、高分子のみせる夢だってことを、やっぱりかしこい女子高校生の私はだまされきれず、わかってしまう。ほんとうは、もっと小さなころ一緒にいてくれた縫いぐるみみたいなものがいちばん大切だって解っている。やっぱり、男がおきないうちに出ていこう。下着とスカート、リボン、セーター、ブレザー、靴下、コート、素早く、音をたてずに着た。小さな1Kはリビングのドアをくぐればすぐに玄関がある。靴箱のうえの小さな鏡をのぞきこめば、そこにはあした十八の誕生日をむかえる女子高校生の肖像がある。リボンと前髪の角度をととのえ、私にとってまるで野戦用のブーツを履き、厳冬の広野にでる。男の部屋の戸をしめる鈍い音を聴き、縫いぐるみを探しにゆく決心をかためる。まずはバスにのろう。雪がちらつきはじめた。灰色の雲の渦まく空が音をたてて頭を押さえつける。木々や草原のざわめきなんて遠くて、まわりには何もない。バスがくるまであと何分だろう。それとも、バスは来ないだろうか。黒い影のようなものがあらわれてから、世界は滅亡することになった。高校生たちは学校へ行かなくなり、大人も会社に行かなくなった。世界のおわりの間際でそんなことをしている暇はないのだ。だから、バスも走っていないかもしれない。高校は、誰もこなくてもあいているのだろうか。雪の積もりはじめたころ、いちめん灰色のなかをバスのヘッドライトが犀みたいにかき分けてやってきた。運転手は項垂れ、制帽の影になって顔はみえない。歳をとったようにみえるからだは運転席に枯草みたいにへばりついている。座席にはバスに乗ればいつもいる、備品みたいな老婆がふたり座っている。まだ、通学でも通勤の時間でもないし、学校や会社に行こうという人はいない。運転手は次のバス停がどこか告げないまま戸を閉じ、エンジンをうならせ雪のなかへ出発した。
3 角のある動物になる
 高級娼婦らと子どもたちの住む娼館はごちゃごちゃごみごみ、まいにちスリルとロマンとサスペンスがあふれている。母の名前はわかっているけれど父の名前はわからない兄妹の三ツ矢とメアリィは他の娼館で生まれて、ここまで連れてこられた。娼館へやってきた当時は、母は子どもたちをかわいがっていたけれど、いつの間にか母はいなくなっていた。他の娼婦らにまぎれてしまったのかもしれないし、他の娼館へうつっていったのかもしれないし、他の職についたのかわからない。だけど、女ばかりの娼館だから、かわりに母の役割をする女には困らなかったし、子どもたちも幸福に暮らしている。
 二階建てで、ところどろころ三階建てに増築された屋敷を子どもたちは探検する。中庭は深林や草原、みんなが忘れて誰も訪れなくなった古城。箪笥のなかは深い水とコウモリの巣、蛭だまりの洞窟。ベッドや机は海原をゆく船や二頭の馬がひく戦車、まだしることのない客と娼婦らの戦場。ダイニングのソファはそのままベッド。ほとんど使われることのない図書館は図書館のままだけど、ときどき幽霊がでる。三階建ての一室の納戸は姫のとらわれる尖塔で、外の穀物小屋はお城。それらが冒険の舞台になっているけれど、兄妹は屋敷のそとにでた記憶がないのでそれらの実物があることを知らない。絵本のなかのものだと思っている。
 兄妹は屋敷のいたるところで冒険を繰りひろげるけれど、決して客のまえにはあらわれない。ふたりは、娼婦たちだけがしっている秘密だ。コの字形をした屋敷の右翼の五部屋が客をとる部屋になっているけれど、兄妹は娼婦らにそのことを教えられているので客のくる時間帯も、真夜中や明け方も近づかない。左翼の廊下から向かいにみえるけれど、部屋には常にカーテンがおりていて、中はうかがえない。一度も足を踏み入れたことのない部屋の中は想像のなかで広がってゆく。子どもらを育てる娼婦らと客の情事は兄妹のまえで口にだされることはないけれど、かしこい子どもであるふたりはしっている。それは左翼の二階の突きあたりにある図書館であったり、娼婦らの会話を盗みきいた事実、また、彼と彼女の経験によるものだ。

 ダイニングのソファで男の子メアリィが遊んでいるのを僕はみている。裁縫の得意な娼婦のコハルが仕立てなおした男物の、しかも老人のような服を着て、蛇とミミズクの縫いぐるみを怪物にみたてて遊んでいる。女の子の僕はソファのしたの絨毯にぺたりと座って、じっと絵本を読んでいる。僕の服もコハルが仕立てなおした服で、彼女らのお下がりだ。長いスカートの裾が擦切れた絨毯に広がっていて可愛い。
 兄で女の子の僕は絨毯のうえに座って、小さな女の子の絵本を読んでいる。チューリップから生まれた女の子の話だ。妹で、男の子のメアリィは王子様になって、蛇とミミズクの怪物をやっつけている。王子と怪物の声が昼のダイニングにひびいている。
「ぎゃおーん、ぼぉぼぉ。まいったか怪物どもめ。おおじはここだおまえらには殺せまい」王子になったメアリィの両手につかまれた蛇とミミズクは抵抗できない。怪物を征伐した王子は縫いぐるみをソファの裏に投げとばし、雄々しく立ちあがる。「やったぞ。ついに怪物を殺したぞ。どうだ!」鼻のあなを拡げ、僕のほうを振りむく。
「わるい怪物はいなくなったんだよ。みんな幸せになれるんだよ!」
「お姫さまはいないの」お姫さまみたいに豪奢な娼婦の服をきた僕が訊く。
「そんなお話つまんない」
「でも、そういうお話って最後はお姫さまをたすけたりするんじゃないの」
「でも、お姫さまなんていないもん」メアリィはソファの背に立ったままぐらぐら揺れている。
「ぼくがお姫さまになるのは」
「つまんなーい」
 僕は女の子の格好をしていて、メアリィは女の子の格好をしている。服はコハルが仕立ててくれるけれど、僕たちは交換してしまう。ときどき、遊びでそうしているのではなく、気付いたときからずっとそうだ。僕のスカートは夜の眠った花みたいに広がり、メアリィのズボンからは細い枝みたいな脚がのびている。明確な性別がうまれるまえの僕たちはどっちが割りふられている性なのかわからない。「お姫さまなんていらないもん。わたし、つよいんだから、そんなのいらない」女の子の僕は、でも、と思う。僕だってきみみたいな格好よい王子様にたすけられたいよ。それか、きみみたいに強かったら、一緒に冒険をしてみたい。
 光線のさす午後の部屋は窒息するほど眠たい。メアリィは紙の王冠を脱ぎすて、ぐらぐらするソファの背をおりる。僕も絵本をとじて、メアリィと一緒に横になる。僕たちは屋根裏の納戸の一室をあてがわれているけれど、眠るのはダイニングのソファだ。ふたりの服やコハルや、他の娼婦たちは納戸で寝かせたいみたいだけれど、僕たちは嫌だ。服も、あたえられた性別と同じものを着せたがるけれど嫌だ。僕たちはきっと嘘吐きで自分の性でいることに我慢がならないし、狭い納戸に押し込まれるのも嫌だ。
 汗がにじむほど光線に熱せられた空気が肺のすみまで満たすと眠ってしまう。それは娼婦らも同じで、客をとっているあいだでも変わらない。おろしたカーテンは僕たちになかをみせないためでも、知りもしない男と白昼の部屋でセックスをするのが気持ち悪いというのでもあるけど、いちばんは眠たい空気が入ってこないようにするためだ。

 稚い肉付きのからだが絡みあい、夢の波が頭蓋骨の内側を洗いはじめたころ、妹の頭に角が生える。山羊の角みたいに禍々しく捻くれた角だ。仕事をおえた娼婦のひとりがダイニングに戻ってきて、メアリィの頭の角を発見した。娼婦らは兄妹が目をさますまえに素早くあつまり、額を突きあわせる。角はどうしてはえたのか。娼婦の職業のせいなのか、いつの間にか消えてしまった母親のせいなのか、それとも、人間と獣の間の子なのか。答はわからない。子どもが嫌いな娼婦の一派はあれは悪魔の仔だから殺してしまえといったり、引っこぬこうといったけれど、コハルをはじめとする娼婦らが結論はでないけれどいまはまだ見守ろうといい、結局はその通りになる。なぜ角が生えたのかを無限に論じるほど彼女らはばかでない。これからふたりをどう育てていくか、角のことをどうやって説明するか、角を生やしたことのない娼婦らはわからないけれど、それでも母親の知れない私生児を育てることにした。とても優しい娼婦たちだからだ。夕方近くなり、青白い光線に黄色の光が混じったころ、兄妹は目をさます。ダイニングにはいつも以上に娼婦らが集まっていて、ふたりは少ししあわせな気分になった。

「あれ、どうしたの……」僕はダイニングにたくさんの娼婦がいることにおどろいたけれど、でも、目をさましたときたくさんの人に囲まれていることに安心する。ときどき、目をさましたら寒い宇宙のどこかに放りだされていたらどうしようとか、死んでいたらどうしようとか考えるからだ。
「おはよう」コハルが食事のときのも使うテーブルの椅子から立ちあがり、ぼくの前で膝をおり、目をあわせてくれる。こういうときには、何か大切な話をするのだと僕はしっている。「おはよう」
「おめでとう」作り話が得意で、いつも僕たちを楽しませてくれる、図書館に住んでいる娼婦のアンジェもコハルのとなりに座って話しかけてくれる。「ついにお前たちにも角がはえる時期がきたんだねぇ」「何いってるの」間髪いれずにメアリィがいう。「角なんて生える訳ないじゃない」「さわってごらん」僕たちは頭のうえをさわる。アンジェの話だからまだ作り話でかつごうとしているのだと思ったけれど、ぼくの頭にはないけれど、メアリィには本当に角が生えていた。
「あれ……」「ほんとうだ……」
「心配しないでいいよ。歳をとったら私たちみたいに角がとれるから」
「ふぅん……」「そうなんだ……」
 アンジェの話だから信用ならないけれど、角が生えたってなにも変わらないだろうから気にしない。それより、夕ご飯までまた遊びたい。メアリィがぼくの手をとり、部屋を駆けだそうとする。「夕飯にはもどってくるんだよ」コハルがいう。
 このまま、角だけじゃなくて、どんどんからだがかわってほんとうに女の子になれたらいいなと思いうれしくなる。そういう未来があったら、今度こそ怪物にさらわれた僕をメアリィが助け出してくれるかもしれないって思って、またうれしくなった。美女と野獣みたいだ。ちがうかもしれない。

 恥ずかしがっているのかはわからないけれど、娼婦たちのうえではすばしこい草食動物みたいに駆けていく時間も、小さな僕たちのうえでは遠慮してのっそりした流星みたいに流れてゆく。だけど、その時間も冬の近づく秋みたいにほんとうは想像よりもずっと早く流れ、時間のちりを積もらせてゆくことをかしこい僕たちはしっている。その時間はしらない風みたいに時間のながれに浮く帆船である僕たちを人跡未踏の大陸へつれていく。これから辿りつく大陸は決して終着点でなく、ぼんやりしていると殺されてしまうような土地でもあることを、やっぱりかしこい僕たちはしっている。また、その土地は苛烈な太陽で海の、嵐の記憶を消してしまうともくろみ、またそのような怪物が潜んでいるのだ。
 そうしてどんどん歳をとってゆく。からだの表面を時間は粘っこくすべってゆく。それは泥でできた粗末な堤防みたいにいまはまだ耐えているけれど、いつか、変化がやってくる。変化の奔流は僕たちを流していくだろう。その嚆矢となっているのかわからないけれど、角(それは絵いりの図鑑にのっていた羊みたいな角だ)の次には耳が生え、体毛も濃くなり、つぎは尻尾がはえるのではないかと僕とメアリィ、コハルとアンジェをふくめた娼婦らはうたがっている。
 神をもおそれぬ娼婦の一派(それはやっぱり、コハルやアンジェたちだ)は気にしないけれど、敬虔な娼婦の一派は悪魔の仔だという。アンジェが歳をとればまたもとに戻るといっていたのは、やっぱり嘘だとわかっている。ぼくらは悪魔の仔なのだろうか。それとも人の子なのか、獣と人の子なのか。まだ誰にもわからないけれど、僕らは確実に動物の特徴をそなえた生物になりつつある。
 板張りの廊下を駆けるメアリィの鋭い足音がきこえてくる。今朝、目をさましたら彼女の爪先に蹄がついていた。きっと、僕にもこれからはえるのだ。
4 花にんげん
 目をさましたらバスは暗いところを走っている。いつも、彼か、私の家のまえから乗って、学校のまえでおりる。終点までいったことは一度もない。もしかしたら、バスの終点というのはこういうところかもしれない。暗いくらい、真暗のなかを、バスの室内だけが煌々としている。窓からあふれた光は真暗に吸い込まれて消える。遠くで星が瞬いている。次のバス停をしめす案内板は消えていて、どこに行くのかもわからない。車内は眠ったときと同じ、老婆があきらめたみたいにシートに深くもたれているだけだ。ゆっくり動く遠くの星が尾をひいて流れてゆく。運転手は相変わらず項垂れたまま、ハンドルをにぎっている。夢のなかだろうか。終末をしってから学校へいかなくなり、それからずっと時間を持てあまして眠っていた。だんだん、起きている時間より夢をみている時間が長くなって、それで、こんな現実みたいな夢をみるようになったんだ。そんな訳ないか。きっと、街にあふれた黒い縫いぐるみにたべられてしまったんだ。とりあえず、おろしてもらおう。まだ、地球まで泳いでいける距離かもしれないから。
「すみません……」
 声をかけても運転手は項垂れている。帽子のつばに隠れて顔はみえない。ほんとうに眠っているのかもしれない。宇宙で眠りながらバスを運転したら、捕まってしまうのだろうか。それとも、ぶつかるものなんてないから誰も気にしないのか、警察がいないからつかまえられないのかもしれない。
「どうしました」運転手は掠れた声で答えてくれる。眠っていなかったようだ。
「この、バスは。どこへ行くのですか」
「宇宙の果てまで」
「あの、おろしてくれませんか……」
「だめだよ」
 運転手が帽子をあげ、顔をみせる。顔はついていない。顔のついている場所にはたくさんの花がはえている。バスの運転手は花にんげんだった。
「…………」
「どうしました」
 花にんげんの話はときどききく。都市伝説みたいなもので、黒い縫いぐるみと一緒に世界を滅亡させようとしているものらしい。
「あの……」こわい。どこかに連れさられているのだろうか。もしかして、もう死んじゃってるとか。スカートの端をつかむ。膝がふるえている。「なんで宇宙の果てなんかに」
「千尋がいきたいって思っているからだよ」「私、そんなこと思ってません!」
「そうかい……」花男の顔はたくさんの花とか葉っぱとか蔓とかにおおわれていて、どんな表情をしているのかわからない。怒っていないだろうか。怒っていたら、どうしよう……
「次は、屋敷に停まります」
「あの、私、縫いぐるみを探しているんですけど……」
 花にんげんは何も応えず帽子を元にもどした。どうしたらいいのかわからず、もとのシートにへたりこんだ。どこへ連れていかれるんだろう……
5 縫いぐるみ工場長
 縫いぐるみのぼくは何者なのだろう。喋ったり動いたり、考えたりできる縫いぐるみはまだ縫いぐるみなのだろうか。縫いぐるみの王国には毎日縫いぐるみが運ばれてくるけれど、それらは山のように積まれるだけで、動きだすものは一体もない。コンベアの伸びる先は真暗で、どこに通じているのかわからない。工場星のうえは寒くて時間もないみたいでいる。最近はうごきまわってもいいことなんてなくて、ただ縫いぐるみたちの山にもたれてじっとしている。コンベアだけが音をたてながら動き続けている。また新しい縫いぐるみが運ばれてきて、縫いぐるみの山におちる。山がくずれてなだれる。
「ああ……」ほんとうに、宇宙の終わりまで一人ぽっちなのだろうか。なんてさみしい。崩れた縫いぐるみの山から一体が手元に落ちてくる。「やあ。さみしいね。死ぬまでここですごすなんてね。どうしたらいいかわかんないよ」偶然動きだしてしまったばっかりに、こんなことになっている。こんな風にさみしいなら、何もいわない縫いぐるみのままでいたかった。「こんなことになるなら、縫いぐるみのままでいたかったな。こうして喋りだしちゃったら自分が縫いぐるみじゃなくてべつのものになってしまったみたいだよ。喋る縫いぐるみに生まれかわって、まわりには誰もいない。何のためにここにいるんだろう」「…………」話しかけても縫いぐるみは喋らない。ぼくはきっと縫いぐるみじゃない。「わたしがいるよ」「えっ」「わたしも、うまれてきたんだ」そういって、白くまの縫いぐるみが僕の耳をつかむ。元々は凛々しくたっていたけれどくたびれて、垂れてしまった耳だ。
「きみはだれ」
「生まれてきたばっかりの白くまの縫いぐるみだよ」
「そっか。おめでとう。生まれてきてくれてありがとう」
「きみも、ずっと昔に生まれてきたんだね。きみは、だれ」
「縫いぐるみ工場の工場長だよ」なんとなく、恥ずかしくって王様だとはいえなかった。
「へえ! すごいんだ」
6 ひつじ
 角がはえ、耳が、尻尾が、蹄がはえ、僕らはついに動物になる。白くてかたい毛におおわれた痩せたからだの、四本脚で歩く、くるりとした角の羊になった。
「ぎゃあぎゃあ」
 言葉も、もう、人間の言葉を話すことはできない。コハルやアンジェ、娼婦たちの言葉や、僕とおなじく動物のわめき声みたいなメアリィの言葉も意味はわかる。だけど、娼婦たちは僕たちの言葉をわからない。自分の耳できいても、僕の言葉は動物のわめき声でしかかない。そして人間の声も、人間のわめき声にしかきこえない。だけど、瞬時に彼女らのいう意味はわかる。きっと、見た目はすっかり動物になってしまったけれど、まだ、人間らしさをのこしているのだろう。
 動物のすがたでは階段を上手に上り下りすることはできないので、二階よりうえにのぼることはなくなった。未だ愛着のあるダイニングか、中庭にいる。中庭はろくに手入れもされていなくて荒れている。木々が茂り、薔薇の蔓があたりを包んでいる。中庭の真中にはちいさな噴水があるけれど、それも壊れかけ、間歇的に水を吹きあげたり、とまったりしている。真昼で、野放図の植物にくるまれ熱気と窒息しそうなほどの湿気、目を焼くような白い光におおわれている。こんなに暑い昼は誰も仕事をしなくて暑さのやわらぐまで午睡をしている。起きているのは僕たちと、噴水の魚たちだけだ。メアリィは噴水の水を飲みながら、鼻先で魚たちと遊んでいる。魚たちはどこからきたのかわからない。物心ついた頃からずっといる。どこかの川か湖につながっているのかもしれない。白色の光が木々と蔓性の植物の葉に反射し、辺を緑っぽくしている。噴水の石灰岩も薄く緑づいている。ときどき、魚の鱗や鰭をひらめかせる。間歇的に吹きあげられる水が融けた岩石のようであるけれどきらきら涼やかでいる。硬い蹄が草を踏み、噴水とメアリィのほうに近づいてゆく。鼻先で水をすくい口に運ぶ。ただひたすら蒸し暑くて、風も吹かない、葉擦れの音のしない初夏が毎日、粘っこい時間のなかで動物になっても未だ子どもである僕たちのまわりを終わらないみたいにくたびれ、擦りきれそうになりながら繰りかえされている。ときどき、のっぺらぼうみたいな夏の毎日がいやになり、何かしなければと焦りのようなものも感じるけれど、それで何かする訳でもない。ぼんやり蒸気のようなものにつつまれ夢をみるようにすごしている。現実感がなく、くたびれた毎日だけがある。メアリィが若く凛々しい耳のはえる、細長い頭をすり寄せてくる。僕もそれに応え顔と顔を触れさせる。動物になってから喋ることが少なくなった。何もいわなくても、必要なことのすべてを予感することができるのだ。
 遠くからエンジンの音がきこえてくる。客か、屋敷の管理をしている男がきたのだろう。人間の姿をしていた頃は、彼にみつからないように隠れていなければいけなかったけれど、動物になってからはそんなこともなくなった。人間でなくなってしまったので、興味をもたない人間にはみとめられない。人間の外にあって、幽霊にでもなったみたいだ。こんな暑い時間に誰かがくるなんてことは一度もなくて、きっと、受付をしている娼婦も眠っているだろう。メアリィは、噴水のなかにはいって水を浴びている。水が毛皮を濡らして、光を浴びて、きらきらしている。昨日もこうしていた気がするし、明日もきっとこうしているのだろう。夏の暑い日が続き、秋も冬もこない。こうした日々が繰りかえされるのだ。中庭に続くロビーの戸があけられ、娼婦でない少女がやってきた。みたことのない服をきている。メアリィもそれに気付いたみたいで、顔をあげた。茂った枝や蔓をわけて彼女が歩いてくる。彼女の後ろには背の低い、やっぱりみたことのない服と帽子をかぶった男が歩いてくる。俯いていて、影になった帽子のつばのしたに人間の顔はなくて、植物がおおっている。なんとなく気持ちわるくて、こわい男だ。少女がぼくの前に立ち見おろす。僕は頭をさげて顔をすり寄せる。とても暑くて風も吹かない。くたびれた毎日が続いて、終わりがみえない。少女が一緒にいこうというので僕たちはついていくことにした。僕もメアリィも、きっと、彼女をまっていたのだと思う。
 屋敷のロビーは日が射さず、ひんやりとしている。受付の娼婦もいなくて、しんとしている。あけられたまま扉を花の顔をした男がくぐってゆく。背中は小さくくたびれていて、ここにくるどの男とも違っている。女の背中は重たげなブレザーと髪に包まれていて重たい。僕はぼんやりとしていて、いつもと同じように目の前の景色が流れていくただの風景だけみたいで、現実感がない。ふたりぶんの蹄の音が空っぽの屋敷に響いている。コハルが左翼に続く通路の影に立っていて、こちらをみていた。
「いっちゃうの」と訊いたので動物の声で応えた。きっと、コハルはわからなかったと思う。真白なそとにメアリィの背中がきえる。きっとこの先は暗くて寒いところへ続いていて、そこからかえってこれたら、その先にきっと、こういうような蒸し暑くてなまあたたかなところがあるのだとたしかに感じた。
 屋敷のまえには大きく長い車が停まっていて、花の男はそうそうに乗り込んでいた。少女がメアリィを抱きかかえ、車内におろす。次は僕の番なのだけど、屋敷の扉をくぐったときにしばらくは戻ってこないのだとわかっていたので怖がったり、特別な意味を見いだすみじめなことはなかった。車は戸をしめ、出発する。滑りやすい蹄の脚をたたみ、床にまるまる。エンジンは砂利だらけの道でうなる。屋敷は遠くなり、銀色に曇り空の光をはじく湿地をすぎる。女は座席でまどろみ、見知らぬ老婆が幻影みたいにシートにもたれている。みたこともない暗くて寒いところへ僕とメアリィは運ばれてゆく。
7 白くま工員の祈り
 暗くて寒い宇宙のはて。誰も来ない、縫いぐるみだけの王国がある。縫いぐるみで遊んでくれる人間なんていない。山とつみあげられた喋らないぼろぼろの縫いぐるみのなかで、兎のぼくと白くまの彼女がいる。たぶん昔に棄てられ、いまも何もいわず縫いぐるみを排出し続けるコンベアに運ばれて縫いぐるみの星と工場にやってきた。白くまの彼女にも持ち主がいたのだろうけどもう、どんな人だったのか、覚えていない。ぼくも、ぼくとあそんでくれた子どものことを覚えていない。だけど、その子はどこかにいたはずだ。いまは孤独なぼくだけれど、覚えていないずっと昔には、そういう子がいたのだ。せまい縫いぐるみ王国の星は大気がとても薄いか存在していなくて、空は宇宙の真黒をうつしている。ずっと遠くに白い星が散在している。広い宇宙のなかでは近くにある、縫いぐるみの惑星をうごかす恒星が日々あかく輝いている。星はまわるけれど、時間はなく、退屈でくたびれた日々が続いている。ふたりだけしかいない縫いぐるみの星はあたらしい縫いぐるみがふえる以外、何もおきない。ずっと静かでいる。
「…………」
 いつかきっと、ここに、ぼくとあそんでくれた子どもがくることをまっている。でも、そのときはずっとこないとわかっている。宇宙のどこにあるのか知れない小さな惑星にひとがくることなんてきっとないし、きたとしても、それがぼくとあそんでくれた子である訳がない。そもそも、ぼくはもう、その子の顔も覚えていないのだし……
「…………」
 白くまの彼女はじっとだまって、ふわふわの手をあわせている。指はなくて、茶色い布を縫いつけた手のひらをぴったりあわせ、黒くてまるい宝物みたいなボタンを恒星のひかりに反射させている。縫いぐるみだから、表情は動かない。つくられたときと同じ、親しい笑顔で真暗の宇宙の一点をじっとみている。彼女も、いつかきっと人間たちが縫いぐるみ工場へやってくるのをまっているのだ。人間がきても、きっとろくなことはないかもしれない。だけど、あそぶためにつくられた縫いぐるみたちは、縫いぐるみたちだけでいても孤独だ。たのしいことの何一つがおきなかったとしても、ぼくたちはさみしいんだ。ぼくも彼女といっしょに手をあわせる。やっぱり広大な宇宙のどこかに神様なんていないことはわかっているけれど、それでも祈る。祈りは何もひきおこさない。時間のないなかで、ずっとそうしていたけれど、人間たちはこない。わかっているんだ。人間のうえにおこらない奇跡が縫いぐるみのうえでおきるのをずっと待っている。宇宙がばらばらになるまでまだずっとながい。
8 女の子とのこと
 当時小学生にあがったばかりの私は縫いぐるみなんて子どもっぽいし、こんなものでばっかり遊んでいて、友達とあそぼうとしない私もだいっきらいな気分だった。縫いぐるみのおままごとなんてたのしくない。だって、縫いぐるみは動かないし喋らないのだもの。ませた子どもだった私はそんな風に考えていた。いまの私にはそんなことは予想できるけれど、子どもらしい勢いにまかせて縫いぐるみを棄ててしまった小さな頃の私は夜になってたくさん泣いた。小さな私がもっと小さな頃にかってもらった縫いぐるみは、ずっとずっと友達で、なんでもわかってくれる大切な友達だった。何もこたえてくれないけれど、よく話しかけた。未分別のもやもやした気持ちをうちあけると、口はひらいてくれないけれど、でも、きちんとした答えを教えてくれた。
 棄ててしまった縫いぐるみをとりもどすみたいにそれからしばらく買い物にいったり、誕生日やクリスマス、そのほかのプレゼントをもらえる機会ごとに縫いぐるみをねだった。私の部屋には小さなものも大きなものもふくめ、縫いぐるみがあふれた。いまはなかなか家に寄りつかなくなったけれど、それは今も変わらない。家のそとでも、鞄や携帯に縫いぐるみをつけている。数すくない友達にも、ときどき縫いぐるみをもらう。悲しいことは嫌で、あれから一度も縫いぐるみを棄てたことはない。ずっと増え続けている。自分の部屋にも、彼の部屋にも。彼は、縫いぐるみをあつめるくせについて時々、整理したらとはいうけれど、その他はなにもいわない。そういうところも好きだ。そんな風にして縫いぐるみをたくさんあつめたけれど、小さな頃に棄てた兎の縫いぐるみ以上に愛着のある縫いぐるみはいないし、ときどきそのことを後悔していた。
 していて、今も変わらず縫いぐるみは好きだけれど、でも、小さい頃のように縫いぐるみに依存することはなくなっていた。数々の男や女たちと交わることや、幼い頃縫いぐるみにうちあけていた悩みや、受け入れがたい不条理をなし崩しに許容するようになってしまったからだ。きっと、これでよかったのだろうけど、でも嫌だ。そういう気持ちになったときは縫いぐるみに相談していたのだけど、いまはもう、相談する縫いぐるみがいなくなってしまった。
 縫いぐるみのかわりになってくれていたはずの男や女たちにそういう話を持ちかけることはない。彼には、ときどき話してみたいと思うけれど、なんとなくやめてしまい、そうしたことは一度もなかった。少しずつもやもやした気持ちがひろがり、ついにあの兎の縫いぐるみを探しにいくことにした。

 いつの間にか眠っていたみたいだ。バスは地球をはなれ、宇宙のどこかにいた。花にんげんの運転手はさっきと同じく項垂れたままで、じっとしている。たどりついた大きな屋敷から連れてきた草食動物の二匹は床で丸まっている。角のはえているのと、はえていないのがいるから、きっと番なのだろう。老婆は、まえにみたときと同じようにいちばん後ろの座席に座っている。死んでいても気付かないだろう。車内の暖房がうなっていても宇宙は寒くて、コートを着ても凍える。深宇宙からやってくるとおもっていた恋も、きっとこんな寒いところからはこないだろう。なんとなく確信しているけれど、花にんげんはなにもいわないけれどバスはきっと私の望んでいるところまで運んでくれる。小さな頃の夢をみたのはきっと、この先のことを無意識に考えていたからだ。この宇宙のどこかにきっと、小さな私が棄ててしまった縫いぐるみがいるのだと思う。縫いぐるみのいるところまであとどれくらいだろう。
9 土星
 バスはアナウンスもなしにどこか知れない小さな惑星に停まる。ドアを開いて、おりろと促しているみたいだ。床で丸まっていた羊たちも立ちあがり、おりたがっている。
 惑星の表面はごつごつした白っぽい地面で、空はほかと同じで真黒い。大気がないみたいだけど、息苦しいなんてことはない。へんなところだ。バスの車内より寒くて、コートのまえをあわせる。地面を踏むと土埃がたちのぼる。二匹の羊たちが歩いていくのでついてくことにした。当たり前だけど、植物も水もなく、月面みたいな惑星の表面に生き物はいない。私と二匹の羊だけだ。空を見渡すと白い星が所々にあるだけだ。羊たちはあるいてゆく。あまりバスからはなれて、置いてけぼりにされたらどうしようと私は心配する。
 しばらく歩いた岩場の影に羊たちは消える。岩の後ろを覗きこむと、布でできたような塊があり、羊たちが鼻先でそれをつついていた。布の塊のそばに蛇の縫いぐるみが一体いた。羊たちはこれをつついていたみたいだ。他にも、布の塊と縫いぐるみが点在していた。どうしてこんなところに縫いぐるみが、というか、人のつくったものがあるのだろうと思って足下にあったミミズクの縫いぐるみをひろいあげた。ミミズクの縫いぐるみは縫いぐるみらしく手のひらでぐったりしていたと思ったら、布のくちばしをもごもごと動かして喋りだした。「こんなところに人間がいるなんて……」「えっ……」「お前たちなんて大きらいだ……」そういって縫いぐるみは動かなくなった。しんでしまったのかもしれない。へんなことばっかりおこるけれど、それ以上に不安な気分になっていた。縫いぐるみに嫌いだといわれたからだと思う。そういう気分を察知してくれたのか、角のはえたほうの羊がすり寄ってきた。ぼんやりしたまま頭を撫でる。ごつごつした惑星の表面にはほかにも、布でできた塊が点在していて、その形はなんとなく飛行機にみえた。縫いぐるみたちはこれに乗ってきたのだろうか。角のはえない羊がまたどこかへ歩いてゆく。荒涼とした惑星はなんなのだろう。空を見あげると小さく布で作られた飛行機が飛んでいるのがみえた。ふらふら飛んで、そのうち落ちた。他にも、彗星みたいにおおきな流れ星がとんでいた。流れ星は目の前に落ちてきたので、つかまえてみた。透明で白く輝くかたまりだった。とりあえず、不安だけど気になるので落ちてきた縫いぐるみの飛行機のところへゆく。
 土埃のもうもうとあがる、いま落ちてきた飛行機から白くまの縫いぐるみが歩いてきた。また嫌いだっていわれるかもしれないと思いと少し身構える。惑星の表面はつめたい。角のはえたほうの羊が縫いぐるみをくわえてこちらへ歩いてくる。白くまは手足を動かして抵抗している。
「人間なんてだいっきらいだ!」
 白くまはさけんでいる。縫いぐるみを棄ててしまったことが否応なしに思いだされて、逃げだしたくなった。探している兎の縫いぐるみも、喋れたら、嫌いといわれてしまうのだろうか。羊がこちらへ歩いてくるのをぼんやり突っ立ったままみながら、そんなことを考えていた。突然、流れ星が雨みたいに降りはじめた。こわくなり、バスへ駆け戻る。でもほんとうは、それで死んでしまうより喋る人形がたくさんいるここがこわい。
10 流れ星つかまえた
 バスは街をこえ湿地をこえ宇宙のはてまではしる。真暗で冷たい場所で、恒星と恒星の距離はとおく、疎らで、空気もない場所がくたびれた感じで、無関心につづいている。
 短いうちにずいぶん遠くへきた気がするし、でももしかしたら屋敷をでたのは遠いむかしでいつまでも宇宙のなかで眠っていた気も、バスがどこまでも走っていく途中で、たくさんの街や宇宙の空間をぬけてきた気がする。いつまでも感覚が曖昧で場所や時間がわからない。たどりついた月みたいに白くてごつごつした惑星のうえに降りたち、僕らのわかい蹄が土埃を巻きあげたのをみても、どうやらこれは現実感のない、幻影的な夢なのではと思う。それから、すこしまえまで体内でうずをまいていた大切なものやきたなくみにくいものの大半がどこか遠くへ逃げてしまった疑念がいつまでも拭えずにいて、もしかしたらそれはほんとうなのではと疑いはじめる。目の前でおきることのすべてがただの目の前で起きていること、自分は傍観的にあるだけで、感覚をともなった体験でない、ような気がする。そもそも、人間が羊になってしまうことなんてそうそうないだろう。これはやはりとても長い夢なのだ。
 メアリィが惑星の表面を注意深そうに歩きはじめる。顫動した一歩から、蹄が岩石と堆積した砂塵のうえに、そうだ。メアリィの心もわからない。どこから注ぐかもしれない原始の文明のような、あるいは階梯の先の文明のような、とにかく今のものでない光が彼の若く雄々しい角をぬめぬめと輝かせている。彼がどこへ向かっているのかわからない。莫とした惑星の表面で、目指すところなんてどこにもないのに。彼がどこかへいってしまうのがこわい。白い体毛が地面にまぎれてしまいそうで、このまま消えてしまうのではないかと不安で仕方がない。僕とメアリィはもともとひとつであったような気がしていたのに、別れてしまって、これからどうしたらいいのかわからない。成長してしまったからだろうか、僕たちが手をつないで歩いていたはずの道がわかれてしまい、どこか違うところを目指しはじめたのだ。喜ぶことだろう。そうだ、僕の脚も震えながら、蹄が、軟らかな、雪みたいな土を踏みしめ足跡をつける。ここから遠くへ行くのかもしれない。何もない、茫漠の月面みたいな土地を歩きはじめたのだ。いいや、これは錯覚だ。だた、目の前に脚を出すことに何かの意思や思惑があってたまるか。そんなものはどこにもない、僕は、ただの、もとは人間であったけれど、一匹の山羊にすぎず、身は肉と骨で、そのふたつはどうであれ、霊的もしくは神的な何者かの思惑を受けいれる余地を残していない。惑星の運行、バスの運行に霊や神様のかかわる余地はないのだ。それらは物理の塊である重力と、人間の組んだダイヤに基づいていて、その軌道をはずれることはないんだ……!
 こんなくだらないことを考えていてどうするのだろう。こういった物事のすべてに意味を錯覚することはできても、実際にはなにもないんだ。宇宙は寒い。大気の薄いこの惑星の空は真暗だ。青空以上に意思も思惑もなく、どんな祈りや呪いも何もない。僕たちは歩きだし、後ろを名前の知れない彼女がついてくる。彼女は何を考えているのだろう。メアリィが何を考えているのか同じくらいわからない。わからないことばっかりだ。背後でバスのエンジンの音がずっとしている。おいていかれたりしないだろうか。
 白い岩場のかげにメアリィが入りこむ。岩の裏には布でできているみたいな塊があった。こんなところに人間がつくったようなものがある。布のかたまりのそばには蛇の縫いぐるみがいる。メアリイが鼻の先でつついている。ぼくも近寄り鼻先でなでればそれはコハルのつくった縫いぐるみだ。白い岩場のうえに、スーパーボールみたいにカラフルな、つぎはぎの布の塊がたくさんあり、じっとしている。真暗な宇宙を背にしてビビッドだ。蛇の縫いぐるみは息も絶え絶えといった感じで舌先をうごかしている。惑星の表面でフジツボみたいなたくさんの布の塊があり、行くあてもなく、蹄をまえに動かし砂を踏んでゆく。人間の彼女もこちらへ歩いてきて、足下のミミズクの縫いぐるみを拾う。縫いぐるみは動き、喋りだし、空からは彗星みたいな流れ星が降りはじめる。墜落した縫いぐるみの飛行機からメアリィは白くまの縫いぐるみをひろってくる。流れ星は降る勢いをまし、縫いぐるみ飛行機や縫いぐるみ乗員あたり跳ねたり、地面にあたり砕けたりする。僕の前にも流れ星はかすめていった。がらす質の白くてきらきらした星で、砕けた破片が薄暗いなかで燐光みたいにひかる。人間の彼女は死んでしまうと思ったのか白くまの縫いぐるみを抱えたままバスへ走る。僕たちも追従する。振りかえると流星の雨とカラフルな縫いぐるみの飛行機が真黒くあいた宇宙を背にしてじっとしている。流れ星は降りつづけているけど、じっとしているみたいだ。バスに乗りこむと天井で流れ星の砕ける音がする。バスは走りだし、縫いぐるみと流れ星の惑星はとおくなる。
11 縫いぐるみ有人飛行の挫折と希望
 燦々光さすさんざめく光なんてない縫いぐるみ工場の星のうえで兎と白くまのぼくたちはふたりでいて、人間たちは未だこなくて、人間じゃない縫いぐるみであそぼうとする生き物もこない。コンベアは縫いぐるみを運びつづけ、数をふやし堆積してゆく。白くまの彼女も祈りはついに通じないのだ、もとからそんなことはわかっていたけれどついに綿の隅々まで諦めの気持ちが染みわたり、縫いぐるみ工場の星は諦めの雰囲気で窒息しそうになっている。きっともとからでここには希望なんてなかったのだろうけれど、絶望的で投げやりななかにいてもそのうちなにかをしたくなってくる。いつまでたってもこない人間たちのことがいつの間にか大きらいになってしまい、ぼくたち縫いぐるみ工場、縫いぐるみ王国の王様のぼくは人間への蜂起、縫いぐるみ王国の人間世界での台頭を目指しうごきはじめた。昼夜や一日はないけれど無限にある時間のなかで試作とテスト飛行をくりかえしついに縫いぐるみから飛行機を作りだすこと、それから、動かない縫いぐるみたちにこころをあたえ、ぼくと白くまみたいに動きだす術をあたえた。たくさんの縫いぐるみたちがそれぞれの飛行機にのり、どことも知れない地球を目指し、順次飛びたつ。白くまの彼女はもういってしまった。この、荒れた縫いぐるみの星にはついにぼく一人ぽっちになってしまい、となりには縫いぐるみからつくった飛行機、コンベアは動きつづけているけれど縫いぐるみを排出しなくなった、国土のうえにいくらでもいた縫いぐるみたちは動きだすか、飛行機になるかしていなくなった。きっと、コンベアがつくられたときと変わらない風景が広がっている。先に飛んでいった縫いぐるみたちはちゃんと地球へついただろうか。燃料が足りなくなったりはしていないだろうか。白くまは、無事でいるだろうか。無事でいても仕方がないんだ。ぼくたちは人間文明を侵攻する勇敢な縫いぐるみの戦士で、負傷は勲章なのだ。
「ああ……」
 空はぴかぴかに磨きあげられた星と、底しれない黒だ。遠くに小さく縫いぐるみ飛行機の機影がみえる。編隊をくみ雄々しく地球を目指す彼らはちゃんとたどりつき人間たちを虐殺するだろうか。さらに遠くの太陽をみれば目をさました頃にはまだ小さかった気がするのにずいぶん大きくなった。きっと、そのうちこの星も飲みこんでしまうだろう。でも、ここにはもう戻ってこない。縫いぐるみ飛行機のステップに脚をかけたとき、
12 未来のはてなんてない
 遠い宇宙のどこをいまバスは走っているのか、宇宙は黒くてどこにもないみたいにみえる。地球にいたときの、彼の部屋と学校のなかにはないほど暗くて寒い場所にいても未来のはてなんてどこにもないことは解る。手のなかには白くまの縫いぐるみと白い流れ星がある。がらす質というか石英みたいにあらくて硬い表面は車内の電灯で光っている。バスのうなりは車内にはつたわるけれど、空気をつたえるものない外にはどこにもつたえないだろう。老婆は相変わらず後ろの座席で置物みたいにじっとしている。羊の二匹は私の足下で丸まり、白くまの縫いぐるみは手足を動かし、逃げだそうとしている。
 車内の誰も口をひらかずじっとしている。羊も、花にんげんの運転手も、白くまも。バスはやがて最後の場所へ着く。大きなベルトコンベアのある小さな星だ。そこには、一台の縫いぐるみ飛行機と兎の縫いぐるみがいる。
「ここでバスはおわりだよ。あとは、もとの場所へ戻るんだ」
 バスを降りるとき、運転手はいった。帽子のつばに隠れた花におおわれた顔はみえない。老婆は動かないでいる。羊たちがけだるげにからだをおこし、バスから降ろせとうながす。
 兎の縫いぐるみは飛行機のステップに脚をかけたままこちらを見ている。もう、余計なことを煩うことなんてなくて、あとはもとの場所に戻るだけだ。
「むかえにきたんだ」
「お前なんて大きらいだ」
2章 みんな妄想
1 Vomit
おおきな川みたいにあふれる私の髪が彼と私の眠るベッドの息をとめようとするとき目をさませばみんなみんな夢で兎と白くまの縫いぐるみも羊も花にんげんの運転手もいなくて夢のなかのことのみんながたのしかったりこわかったりしたただの映画みたいなまぼろしであったことに気がつき遠くへきえてしまったような気がしてきてなんだか羊や縫いぐるみたちは現実のどこをさがしてもいないのかそれらはすべて頭のなかでおこっていたことでしかなくて彼らはどこにも生きていなくて屋敷も縫いぐるみの星もある訳ないただの妄想の産物だったのだとおもうと私は悲しいのだけどそれもやっぱり夢なのだから少したてばみんな風のつよい日の雲のようにきえてしまうのだそうおもうと悲しみも少しまぎれるけれどやっぱりそれは悲しいことに折りあいをつけているといえば聞こえはいいけれど目をそらしてみないようにしているだけではないのかそうしている自分に無性に腹がたったような気がしてもういちど眠りなおし夢の続きを兎の縫いぐるみの大きらいという言葉のほんとうのところや気になっているたくさんのことそれから兎の彼をつれて安心するところへ戻ることを想像するのだけど兎はすでに私の腕のなかにいるし眠気もいったん覚めてしまったのからだをおこしちらばった髪をまとめてフローリングのうえにたつとエアコンの音がうるさく気持ち悪いくらいあたたかい部屋でそのなかでもフローリングだけは外が冬であることを蹠をとおしてたしかにしらせてくれここがどこなのかようやくわかったとき彼がおきだし無言のまま煙草を吸いに窓をあけると冬の冷たい空気がはいってきて暴露された裸のはだがあわだち寒さを少しでもやわらげるよう兎を抱きこみ慣れるのをまちそれから煙草を喫う彼のとなりにならび私も煙草に火をつけまだ朝のはやいときで陽がのぼっていなくてあたりは灰色に沈みこんな景色は世界のおわりみたいだけどもうすぐ世界もおわるおわることをしているから学校へはいかないし彼の家で一日だらしなくすごしているのだということを昨日や一昨日とおなじように思いだしきっと明日もそうだろう明後日もそのさきもそうだ昨日と今日明日をわけられず毎日が眠っていてもおきていてもかわらない一続きのベルトコンベアに運ばれてきた時間のようにのっぺらぼうでいてすべてのできごとが夢とかわらず目のまえで流されているだけの映画みたいに何もひきおこさないでくたびれてしまったようなきがしてくる昨日とおなじ空をした薄灰とのぼりかけの暁光のきたない光景を何も喋らず煙草をくわえながらみているのだけど白い棒をこうやってくわえてならんでたっていると歯磨きをしているみたいで世界がおわると知るまえの同棲する高校生の男女が学校へいくまえに歯磨きをしている生活の風景みたいでまだそういうときを懐かしんだりするのだなあといやな気持ちになりここから意識を遠くに防風林のむこうの海で朝はやくから海鳥がまるく飛んでいるところをみることにしてしばらく身動きせずじっとみていると彼は煙草をけし蒲団へ戻ってゆく終末でも発電所は動いていて部屋のなかはエアコンの暖気であたたかく気がぬけてしまうほど平和な室内だけがまわりからわけられきっと世界のおわったあとも宇宙に浮いてすごしているのだろうなあとおもうけれどそれは妄想で嘘で信号も無視して走るバスが通りを走り抜けてゆきああそういう妄想はするだけ無駄なのだと何度目かわからないけれど悟る信号を無視して走るバスは人間の運転する定期のバスではなく顔を花におおわれた気の狂った花にんげんの運転するバスだから近づいてはいけないし通りには他にも真黒いぶよぶよした人影がいてそれらは宇宙から飛行機にのってやってきた人類殲滅の使者だから近づいてはいけないもし近づいたらぶよぶよのからだにとりこまれて二度と戻ってこれないところへ追いやられてしまうのだけど人間たちは彼らをどうすることもできずただなされるがまま殺され絶滅するのをまつ斜陽の場所においこまれある人は果敢に抵抗し花と散りある人は私のようにあきらめ家にこもりすごしている腕のなかの兎が目をさましたのでそとをみせてやる彼は兎の縫いぐるみだったけどこうやって動きだしたじっとしていることにつれてしまったのか縫いつけられたばってんの口がガムをかんでいるように動きはやく白くまの縫いぐるみのところへ行こうというのだけど白くまは島でいちばん大きな街の百貨店の縫いぐるみ屋のショーウィンドウのなかにいて赤いビロードのひな壇で女王様のようにじっとすわっているのでぶよぶよや花にんげんの外へは出ていけないのでたすけにいけないそれでもぼくはどうしても白くまのところへいかなくてはいけないという核戦争のあとの灰みたいに雪をふらせる雲が朝陽で光りだしくわえた煙草はすっかり灰になりフローリングのうえに情けなく灰を落としていたので足ではらってなかったことにしてもう一本に火をつけたとき通りを二匹の羊があるいているところがみえたけれどすぐに通りの陰にすがたをひそめて羊の彼らだか彼女らだかはろくに食べ物をえられず山からおりてきたものなのだろうとぼんやり思い吹きこむ風に少しからだをふるわせたけどそういえば今年はいつもより寒い気がするというか今年の冬が例年よりも寒いと思いこむのは毎年のことだけれど今年の冬がいちばん寒いと思う私の感想は決して間違いではなくその彼らだか彼女らだかも寒さや食べ物の不足に山をおりてきたのだろうと決めたけれどもうすぐ人も全滅してしまうし彼らだか彼女らだかも冬をきっと越せず食べたいと思った草と一緒に雪のそこにうもれてしまうのだろうなんて思うと悲しくてでもすぐみんなどうでもいいことに思えてまた一瞬あとにはミステリーもサスペンスもない退屈でくたびれた毎日に何かかわったものが欲しくなり自分から死ぬ気はないけれど早くぶよぶよどもに食べられて生きることをやめてしまいたくこれ以上生きていても未来なんてないのはぶよぶよが現れるまえからおなじでそれなら早く死んでしまいたくどう転んでも明日はあるかもしれないけど来年はないしその先なんてもっとないだろうと毎日のように考ええ憂鬱になりそうな念仏を口のなかでもごもごとなえこれはなんだか兎の縫い付けられた口が喋っているようだと思い気分が沈んできたので眠ろうとしたら兎の君が手足を動かし外へつれていけというのだけど能動的に死にたいとは思わないのでこれも毎日とおなじようにだめだよというのだけどこのだめというのは兎にいっているのではなくて自分にいっている節があるのではというか兎にいう以上に自分にいいきかせているのではないかと思いまたぞろいやな気分になりいやな気分ばかりが積もり重なり泥みたいになり頭のうえだかどこにあるのかわからない心のうえに雪雲や澱みたいに溜まりまた口のなかでだめなんだと念仏だか題目だかのようにとなえこれは昨日もいった今日もいった明日もいうだろう毎日毎日がかわらない明日がきても明日がきたことがわからなくて生活をすっかり花瓶で腐らせた花みたいにだめにしてしまったと学校にもいかず毎日部屋から出ず縫いぐるみに話しかけてだけすごしてきたのだし当然だし私と兎だけならにんげんが全滅しようと変わりないしなんであろうと変わりないのだとまた繰りかえしだめなんだだめなんだと口でも頭のなかでもとなえいいきかせ徹底的な無力の底に沈んで早く楽になりたい何もかんがえないですむところへ暗雲の立ちこめる未来のみえない静かなところへ行きたいしもちろんそんなところはなくいちばんいいのは何もしないで眠りつづけるのだと結論づけベッドに倒れこめばすっかり寝息をたてる男がいて男も私のようになにがしかの澱んだような気持ちを抱えていてだから毎日眠っているのかでもそれは人間が全滅してしまうなんて状況になれば当然のことだろうけどでもそのまえはどうしていたのかちゃんとしっかりしていたのか思いだせないし自分の薄情さにはあきれかえって彼のことはほんとうに愛していたのにこれが最後の恋だ愛だと思っていたにもかかわらずいまでは何でもない有象無象の人やら人でないものとおなじようなものになってしまったことに身勝手な悲しみを覚えずにいられなくてああこれだから自分はだめなのだと思い責めて気がつけば兎が指のない手で髪をいじっていてくれてああこうやって優しくしてくれるのはおまえだけだよだけど私はおまえに優しくすることはできないし白くまのところに連れていってやることもできないのだとまで思い兎は私に優しくすることで私がなにかをしてくれると思っているのかそういう打算的な考えをするのだろうかと考えそういうことを疑うことがいやになり目をとじ何もききたくない今度こそ眠るぞとすれば頬をを叩き起こそうとしてきて無視して眠ろうとすればインターホンが鳴り誰かがきたのだと緊張するけどしかし男は眠りの淵をとうにくだっていておきそうにないのだから仕方がないというかでなくてもいいのだけどドアをあけたらいきなりぶよぶよがでてきてくれたらと甘美なあくまで妄想をし来れ甘き死と口のなかでとなえベッドをでたところでブラウスしかきていないことに気付いたけれど服を着るのも面倒だしまっていてくれるかわからないしでもドアをあけてたっているのがぶよぶよではなく気の狂った男だっただどうしようと思うけれどもう何もかも関係ないないどうせ死ぬのだこんなところを訪ねてくる人なんていない真黒なぶよぶよか花にんげんだでもとりあえずなんでもいい退屈なんだと考えるけれど台所とその他との框をまたいだときには少し緊張していて抱いた兎を一層つよく抱き薄暗い玄関の靴とブーツの脱ぎ捨てられた沓脱ぎで踵の踏まれた彼のスニーカーをスリッパがわりにしてたてば緊張は高潮でくだらないお酒の瓶や読まれなくなった雑誌のつまれた一角をじっとみて気怠い毎日もこれでおわりかと思えば別に未練も愛着もわかないけれどいやだと思うしあーあこんなはずじゃなかったのになあとありふれた感想が湧いてきてここまでつまらない人間だったのかこの私はと思い思い思うことばかりででも思うだけで何もしてこなかったのだから仕方がないあきらめよう来世に期待だでも来世なんてあるのか人類は全滅じゃあ未来なんてなくそれならむかしに戻って輪廻転生私は私の母になり過去であり直線的でない時間の連続で未来のというかふたりめだかそれ以上だかわからない繰りかえされた私をうまく導いてやろうでもまだ生きている人間ももう死んだ人間の数も膨大で運よく私の母になることなんてそうそうかなわないだろうと思いああやっぱり私は言葉遊びのように思うことばかりで空っぽで布と綿の縫いぐるみより空っぽで薄っぺらい紙風船のようだと思いこれも思ったことで言葉遊びでおわりほんとうにどうしようもないと観念して戸をあければさっきみたのとおなじような羊がいて彼らでも彼女でもなく彼と彼女で角のはえたのとはえていないものの番で彼彼女はなれなれしく顔を脚にすりつけてきて赤脚はくすぐったくその姿はずうずうしく喜捨をもとめる托鉢僧みたいで外階段のむこうでは雪がふりだし冷たい空気が窓以上に吹き込みスリッパのスニーカーのつま先には風に飛ばされた雪がくっつきそこから冬の触手が裸のつま先へ足へ踝へと絡みつき冬という膨大な塊で巨大で素敵なものに飲まれてしまう錯覚をしこれは決して言葉遊びでないと感じたときには思ったけどいま考えている私は結局これも言葉遊びだとわかりこれは彼に感じた恋やら愛やらとおなじですべてのものはすぎさり感想も感傷も消え私はとりのこされ悲しいし雪はさらに降り沓脱ぎに数片をのこし寒いからはやく戸をしめようと思うかたわからさっきとおなじような感傷にまみれた感覚というか映像というのが絶え間なく流れこみ陽のみえることのない冬に飲まれていく私をふくめた世界がというか世界なんて言葉はつかいたくないけど世界が熱のない冬に飲まれ死んだ私は体温をなくし冬と熱平衡し陽のみえない雪雲におおわれたあたりはゆっくり薄暗くそれから急速に夜になり冷たく氷にとざされ雪原は雪を深くし底の土は湿地の泥と化し蕗の薹は死に鮮苔ばかりが春の暁光を待ち頭の先まで氷雪にのまれた針葉樹林もまた彼らの栄華を硬く鮮やかな緑の葉を陽にあてるわずかな夏を待ちつづけるのだけど冬はあけず地上の生物はみな死んであとは四度にたもたれた定着氷のもとで魚たちが栄え活動を強めた太陽が停滞した雪雲をはらうのを待ちつづける待ちつづけるさまを一瞬のうちにのぞき見て寒さがあたりをおおう膨大でつよい力にめまいを覚えたので立っていられないとばかりに二匹の羊にもたれれば羊の彼と彼女の痩せたからだの体毛はごわごわで壊れた雪の破片がこびりつき塵にごわついた毛は熱をためず冷えきりここにはやはり熱を持った生き物なんてなくなるんだと実感すればめまいはまし忠実な兎は私を起こそうとするのだけどそんなことはできなくて意識は途切れ途切れた先でもずっと眠っていたせいか常に青い深夜の花から発散される蒸気のような眠気に包まれているのだああなんだこれはまるで夢じゃないかと思いその夢のなかでも眠ってしまうと寒さに目をさませば部屋のなかは真暗でエアコンもついてない冷えきったさまででもいつもとかわらず兎がいてでもいつもとかわって羊の二匹があがりこんでいて彼は椅子に座ったまま煙草を吸っていてここは水中の動物園のようだと思いそう思うのはカーテンがとじられているせいでそれがもともと少ない家の灯りも街灯の光も隠してしまい人工の光なんてもうどこにもないという気にさせられカーテンをひらけば家々の明かりは消え私と彼のふたりが最後の人類でなんて妄想をして妄想が現実になるのかと毛布を巻きつけ起きあがりカーテンをあければ家々の火は消えていて同時にろくに学校に通わなかった教養のない私たちふたりがのこされ文明の火も同時に消え暗黒の地球を照らす知識の松明のリレーはここでおわったのだと思い密かに笑いでも真相はただ真夜中で灯りをつけていないか発電所が死んだのだろうエアコンがついていないのだから後者だとつまらない結論に落ちつきああなんだかつまらないとばかりに知識の松明ではなく煙草に火をつけ窓を開けはなち穂先の橙に集中し息を吸い明滅するさまはさながら冬の星だと煙草を吸うひとなら誰でも思うであろうロマンチックの欠片もないことを思いなんて退屈だとまたいやな気分になり私の視神経をはしる電流よりも速く窓から侵入する黒いぶよぶよが私と彼を包み食べてしまえばいいのだけど都合のいい事態はなかなか訪れずあと何人の人が街には島にはのこされているのか想像するけれどわかりようもないししかし大分いなくなってしまっているのだろうそろそろ次は私たちだよのっぺらぼうの毎日をひとのみにしておわらせてくれと希い感傷の底に沈んだ私と足下には兎がいて早く白くまのところへ連れていけといいそうすれば何かおわるのだろうか何も変わらないで白熊をつれて戻ってくるのかそれとも道中でぶよぶよに食べられておわりかそれならそれでよくて勝手にあがりこんだ羊たちは何なのだろうと部屋の隅の暗いところでじっとこっちを見る目がかすかな光を浴びて黒くぬれてひかるさまが不気味であまりこっちをみて欲しくない気味であまりこちらを見て欲しくないしつよい蹄が時折フローリングを踏みしめたてる音が不気味ででもお面があったらマスカレードだと馬鹿な妄想をし思うことと妄想することに疲れていっそそのたくましい角で突き殺してくれいやなんかじゃないんだなんて妄想して未来もなくくらしてきたのだどうだっていいのだいいやしかしまだやることがあるだろう死ぬまえにせっかくだどうせ死ぬのだとくだらないい訳をし兎に白くま縫いぐるみのところへいこうといいそうやって言葉を発するのは何日ぶりみたいで口のなかがかわいていているけれどこれは重大な決心をした緊張とかではなくただ眠り続けて水分をとっていなかったからなんて俗な理由でそこに特別な意味なんてあってたまるかとばかりにまた煙草に火をつけくわえながら足下にちらばる女子高校生の制服をひろって着てその様子を彼は椅子に座ったまま何本目かわからない煙草に火をつけながらみていて私も目をあわせればまた宇宙最後だか人類最後だかの恋やら愛やらを感じられるかもしれないけれどそんな訳もないだろうから目をそらし最後にコートを着てでも目をそらしきることはできず合わせてしまいしかしそういったものは感じられず最後のよりどころをなくしてしまったみたいでなんというかまあでもこうやっていまぶぶよぶよに捕食されてしまうと決めたのはかすかでもあったかもしれないよりどころというかよすがというかみたいなものはとうになくなっていたってことで別れたあととの彼や彼女に抱く感情のようにもとからなかったものを錯覚しているのだろうとにかくそういったものたちにこだわる私が無性にゆるせずブラウスのボタンを留めリボンスカートブレザーそれから指定のものでない靴下を穿きコートを着てぶよぶよと花にんげんの渦まき人間のものでなくなった街へちいさな島の街の端から塔のような白くまのいる百貨店へ駆けてゆく腕のなかには兎の縫いぐるみがいてかたわらには羊の番がついてくる時計はもっていなくていまは何時かわからない真暗な街を走りぶよぶよたちが私や羊を捕らえようと腕をのばしてくるけれど神速で走りそれを寄せつけず直線の道を走りながら夜のなかへ夜の底へ百貨店へと一目散で彼らの腕はとどかず私は捕まらなくてそれはぶよぶよの彼らがとても信用ならないもので食べられてしまったあとがどんなところがあるのかそれとも私はのこっていないのかもしれないけれどそこは絶対によい場所ではなくほんとうのところどんなところかはわからないけれど絶対的な偏見でもってそれをみとめてはいけないので私は捕まらないし捕まえられずただ走り走る道は暗い道で島をかこんでいて海の音がきこえもうすぐ流氷の季節でとおくから海の水をつたって氷のきしむ音がきこえてきそうで防風林をあいだにおいて海の冷たい手がしのびよってきそうだけれどそれもおなじようにかわし遠くから花にんげんの運転するバスがヘッドライトを光らせながら近づいてくるけれどほらそれもよけ走り途絶えてしまった街の灯りを目指しひた走りそれに羊が追従し腕のなかの兎は何もいわずじっとしていて夜があけるまであとどれほどだろうかまだ日が暮れたばかりなのか真夜中なのかもうすぐ夜があけるのかわからず少しだけ不安になるけどそれも払いいやでもまだ遠いのだろうかまだ到底つかないだろうオレンジの光がみえトンネルにのまれ電灯が私の肌や羊の体毛それから逆巻くぶよぶよの表面を変色させてまだ遠いのだくじけそうになるけれどくじけず幼さや稚さをぶちまけたようなからだや顔立ちはぶよぶよたちの格好の食べ物とされるものにしかなれなくておまえはここにいてはならない早くかえらなくては排斥されるものだと迫ってくるそれは私の内側にあるものでそんなものにさえ反抗されくじけ砕けそうになるけれど気にしてはいけない脚を前に突きだしもっと速く黒いぶよぶよも花にんげんも流氷の軋みもすべて避け私はあとどれほど走れるのだちゃんと白くまのところまで行くかそれまでに力つきてしまうのではないか食べられてしまうのではないか恐怖ばかりのなか押しつぶされそうになりながら走りああ触手が迫る花にんげんの匿名的で人間的なものなんてない何も具えていない顔がちらつきせまり私の息も羊の息も白くここにはただ感覚だけしかないような気がしてくる迫ってくる恐怖や痛む足や目が眩み瞬きする苦しみや疲れが席巻ししかしそれをはねのけろそれらに近づいてはいけなくて絶対的な偏見でもって破壊しなくてはならないものがそれなのだけど朝まで走れるか反乱のように内側から恐怖が氾濫し横溢したそれらとまた外から殺到する恐怖や苦しさや冷たさが波濤のように私を飲みこもうとしてはねのけしかし朝はまだ遠いぞしかしこれは何だ夢ではないのかさっきまでみていた夢のような気がしてきて惑わされそうになるけれど夢だったら時間の感覚も痛む脚や苦しさもなく場所も時間も思いのままに飛び越えられるはずだと思い少し安心し安心したら脚をすくわれてしまうぞと気をひきしめしかし夢でないならこれは何だまるで小説みたいじゃないか私の行動や感情の逐一を逐次的に文章に変えられそうやって文章に変えられるのはスポイルされているようではないか私の感じるすべては私が私で生み出したものではなく記述している作者によるもので私は厳密な私を失ってしまったいいやもともと厳密な私なんてものはなかったのかもしれないでもそんなことがあるのかもしかしたら私を記述する作者もそんなことを思っているのだろうか私の知覚できない絶対的な力の隔たりのある神様のようなものが頭を押さえつけていてそれをみることも打ち勝つこともできずあまりに無力だと感じているのではないかでもそんなことも感じずに一時の文章を書く快感としてこれを書いているのかそれともそんなものはなく私は厳密な私でこの疲れた気怠いなかにいるわたしこそが唯一で絶対的な私で私という暴力性を行使できる私なのだろうかとおもったところでそんなことがあってたまるかそんなものはただの考えすぎで言葉遊びだということに気付きでももし私の逐一を記述している作者というものがいたらこの先をどう書いていくのか朝まで走る私を書くのかそんなことを書けるのかずっとずっと長い道をこの先続いてゆく出来事をただ文字のうえだけでも書いていくのは大変だしそれから先を逐次記述していいくことの重みに耐えられるのかそれとも無意識にすぎていってしまうものなのかと考えているとぶよぶよがせまってくるけれどぶよぶよとはなんだなんでこんな気持ち悪いものがいるのだと思うと突然兎が口をひらきぼくがそう願ったからだといい続けてぼくが人間なんてみんな滅んでしまえばいいって思ってぶよぶよを生みだしたんだぼくは君の人形なんかじゃなく君に棄てられ宇宙のはての縫いぐるみ工場で意思をもった縫いぐるみで暗く冷たい宇宙の果てで長い時間をすごし人間たちを恨み殲滅する兵隊をつくったんだといいきり腕のなかで縫いぐるみの指のない手をあわせ何度もほんとうはそうであったらいい絶対的にどうにもならない強固な現実に対抗しようとする祈りや念仏みたいにとなえつづけるのだけどそんなことがほんとうであってたまるか私の夢は私の夢で彼の夢は彼の夢で現実にちかづいたりしないし何の影響もあたえないし祈ったって神様なんていないのだから現実はたわまないだろうしそんなものに私に関与されたくないししかし疲れてしまった脚がいたいし息が苦しくまたせまるぶよぶよをよけいくつ目かのトンネルをぬけくらい外へでてまたトンネルのなかにはいり何度おなじことを考えてきたのかおなじことを考えていても前進なんかしないだろうでもおなじことを繰りかえし考えていくなかで漸進することはあるだろうかまだ街は遠いのかはしっていったことなんて一度もないからわからなく夜があけるのはいつなのか盲目的に信じているけど夜があけたらほんとうに街についているのかすべてが目の前の暗闇とおなじように信じることができず深さは底がなく近づくことができず走るのは遅く荒い息は熱く喉も肺も焼けてしまいそうでなんでこんな苦しいことをしているのか百貨店のがらすの向こうの白くまは何なのだ連れてかえることができたら何かあるのかどれほどの意味があるのか気怠いまいにちを打破してくれるようなものなのか錯覚で何でもない思いつきで兎がよろこぶだけなのかもしれない兎は相変わらず指のない布の手のひらをあわせて祈っていて祈って何になるのだそんなことはやめてくれと叫びそうになりのどの奥におしのけさあ走れと脚に力をこめる祈りがぶよぶよを斥けてくれるのか花にんげんを寄せつけないでいてくれるのかこわくてとてもこわくて脚がいたくて苦しくて何のためにこんなことをしているのかわからなくなってくるいいやなんでもなかったのか死ぬまえの暇つぶしにしているだけだ結局白くまのもとまでいけてもかえってこられるかはわからないしなんだもうぜんぶあきらめてしまってひと思いに食べられてしまえばもう苦しいこともなくなるだろうにでもそうしたら兎は悲しむだろうか悲しんだあとは白くまのところまでつれていってもらえなかったことをおこるだろうか彼はどうするのだろうひとり電気のついていない部屋で食べられるまでを待ちつづけるのか少し可哀想だと思いだったら少しがんばろうかそれに得体の知れないものに食べられてほんとうに死ぬのかわからず食べられた先はもっと苦しいところかもしれないと思うといやだどうすることもできない未来とおなじだ未来なんてないもとからなかったまたトンネルをくぐるトンネルのなかは電気がついていなくて真っ暗だああすっかりつかれてしまったこれじゃどこにぶよぶよがいるのかわからないひとつだけ薄暗くついた電灯のしたをくぐるとぶよぶよが目のまえにいて今度こそ死ぬかいいや死にたくない痛む脚でふんばりよけて自分の選択を呪い泣きそうになりもう走りたくないと何度目かわからないことを思いしかし走るのをやめたら食べられてしまう食べられたくない死にたくない食べられそうになったら最後にせまる触手の口におおわれる寸前に後悔することになるだろうでも最後まで走り白熊を連れてこれてもきっとあとには何も残らずただ疲れたって思うだけで疲れがとれた頃には何の感傷もないただの出来事になるんだこうやって脚がいたくて重くて疲れてあと一歩でも走れないって思う苦しいこともすぎさって現実感をなくすならいま少し耐えることもだいじょぶだ何もない先を目指して走れ何もない先には何もなくてくるしみに耐えたあとに祝福してくれるものもないけどそのかわりほんとうに厳密な私だけの私もなくていま感じている真実の苦しみもなくなるんだみんな雲霞のように消えてしまうからだいじょぶだ報われるものは何もなくいつかはその連続を断ちきらなくてはいけない時がくるだろうけれどそれはいまじゃないまだ耐えられるしそれに私がいなくなってしまえば兎と男がのこされてしまいそれではいけないさあ真実の苦しみは影を偉大な光にかき消され晴れる最後の火は彼の部屋に灯りつづけ私はその灯台を目指し戻らなくてはいけない人類最後の私と彼なんてロマンチックは二度とないだろう現実の追いつけない未来がみえてきたぞさあ走れ辛いだなんていうな意思もない無秩序のぶよぶよがせまってくるぞ兎がああ死んでしまうよとうるさくいうけれど私は死なないんだ襲いかかるぶよぶよが髪を焦がすその傍を羊の角が喝破とばかりにぶよぶよをはらう蹄の音が真夜中のトンネルに響いてこれも燦然と光を放つ灯台のようださあはらえ徹底的に人間でないぶよぶよを殺してしまうのだトンネルをぬけると左にはお化けじみた防風林のざわめきとそのむこうからきしむ氷河の音と冷たい空気が忍びより右に雪をまだらにかぶったひろい草原だけど光はなく茶色の禾草も灰色だそのむこうには雪をかぶった鋭い山が巨人のようにそびえおまえたちはあの山からきたのかおまえたちは羊でなく山羊なのかとさけび声は音になり意味をなくし空気にのまれきえ直線の道はまだ長くしだいに伸びているような気がしてきたら防風林の切れ間に海がみえ海は荒れ渦をまく灰色の水は冷たいだろうきらきら瞬いている星は雪雲に隠れ月も道を照らさずコートが重たくて仕方がないけれど脱いだらいつか凍死してしまうので脱がず兎がもう走るのはやめようよというけれどやめないまだ死んではいけないんだ白くまのところへいきちゃんと男のところへ戻らなくては羊が悪魔じみた目で暗いところをにらみ角を突きだす姿が恐ろしく神々しく悪魔の仔だと思うそれに較べ兎は無力で可愛い可愛いボタンの目に縫いつけられた口とくたびれているけれどふわふわな耳や軟らかなからだでいつまでもいてくれて私が物心ついたころから死ぬまで一緒にいるのだ大切な私の仔だ先の道は十字にわかれているけどどっちだ真直ぐ進もう走るのだ早く白くまのところへいかなくてはそれは私の仕事だきちんとしっかり安全にこなさなくてはいけないさあ走れ白くまのところまで走れ羊の角がぶよぶよをはらうぞ私はただ走れ道を見失うな真直ぐ進めとおくにいつか街がみえるぞとおくから黄色い光が瞬き少しあとに花にんげんの運転するバスがかたちをあらわすので折れそうな脚を蹴るように突きだしでも骨はきしむだけでほんとうは折れたりはじけたりなんかしなくて息が苦しいのも頭がはじけてしまいそうなのもからだがやすみたがって嘘をついているだけなのだからだませれてはいけなくて私は白くまをめざさなくてはいけなくてだからこんなところでやすんだり倒れたりしたら絶対食べられてしまってそれはいけないと思いいやだとあばれるからだをおさえつけるころにはヘッドライトの瞬きが真暗をくいやぶり私をひとのみにしようともくろみ頭の白さとヘッドライトの眩しさが同じくらいになったころバスと私を隔てていた壁の一枚をやぶり対峙する私がいて兎よどうかいまも守ってくれと口にすることも思うこともほんとうはなくほんとうはそんな都合のよいことなんておきるなんて信心もまた諦めもなく私とバスのふたつしかあたりにはなく目のまえの唯一のものにだけ意識を集中しまたその少しあとにはその集中もはじけ傲慢なエンジンのうなりが点をめざせとばかりに吹きあがりくるぞおまえなんかに殺されてたまるか角のある羊が踊り出果敢にむかう塵垢にまみれた背中は精悍であったがしかし巨大なバスは彼を轢き私は凄惨や眩しさに目をとじ目蓋の内側にうかぶ赤がいちばんつよくなった頃瞬時に左へよければ飛び散った血と肉も光も背中のむこうに消えまた暗闇ばかりになると遠くにわずかな光から尖塔のような街がみえはじめたのでまた速くと力をこめ追従する角のない羊をじっとみたけれど悪魔みたいな彼女の顔には表情はなく啼きもしないで蹄の音をぶちまけながら番の片方の死なんか気にしていない風についてきて瞬きもしない兎はどうだとみれば腕のなかでじっとしているのでその姿に安心しみえてきた街の百貨店の白くまのところをめざすここから先は道をつくってくれる羊もいないぶよぶよも淅瀝もかわし灯りの消えた家が道の左右にありあと少しださあ走れ街にはいれば一直線ではないぞだまされるな塔のように高い百貨店をめざせ島いちばんの二十三階の摩天楼だ縫いぐるみ屋は二階だぞ駅から続くデッキからはいればいいもう灯りは消えているだろうけどほんとうはきらきらした夢のような店だったけれどもう夢はなくなり風が吹いていていつ死ぬかわからない現実があるのだから気を抜いてはいけない抜いたらおわりだしにたくないぞさあおちついて考えている暇なんてない急がなくては走らなくてはちいさな島だけれど街は広いぞ周縁部から中心まではどれくらいだでも道はしっている歩いたことも走ったこともないけれどバスには乗ったことがあるからしっているんだビルとビルのあいだの影は真暗でそこからぶよぶよがやってくる心配をしろ振りかってはいけないぞこわくなってしまう振りかえればのまれてしまうさああと少しだデッキの階段がみえてきたあと少しだ足をかけ三段とばしで投げだされるからだは冬の風をきり髪は空気をはらみ着地の衝撃は大したことないからそこから先は二段とばしで駆けあがれいちばんうえには一際大きなぶよぶよだそれを機敏によけまた駆け百貨店の入り口へがらすの自動ドアは閉ざされているから体あたりをするぞと考えるうちにドアはきちんと開きからだをすべりこませるとまたぴちりと閉まりもうぶよぶよどもは追ってこないけど私は走るんだ縫いぐるみ屋の一角だけが電飾をまたたかせているなんて明るい夢のようであの店は特別なのだろう私か兎をまっている白くまよようやくきたぞ走る速さは遅くじれったくさあ対面だとようやく脚をとめるとショーウィンドウのなかで光にてらされきらきらの衣を輝かせる白くまを目のまえに兎は腕を飛びだしがらすに顔をつけむかえにきたという光りのなかの白くまが遅かったとと掠れた声でいい立ち上がりがらすを飛び越えるその顔に表情はなくただボタンと糸の配置がなんとなく笑っているようにみえるだけだったけれど生まれてきたことを祝福されているような顔にもみえその顔をよろこびすぐにかえりみちのことを考えると百貨店の隅々までてらすような光が投げかけられ自動ドアのまえには花にんげんの運転するバスがとまりエンジンをとめずにでてきた花にんげんはやすやすとドアをくぐり私は緊張し瞬きもできなくてすぐに目のまえにたっていて目も口もない顔は言葉をはなせなくてだからか恭しくお辞儀をしてそのあと花におおわれた顔をむけてくる無い表情はついてこいといっているみたいだったので手をとり歩き出せば兎も白くまも羊もついてきてこれはどこにいくのか彼らも私も何者でどこからきたのかとふと思うと花にんげんの顔が視界をおおい瞬きしたあとには真暗になる
3章 たまごの嗣子のみにくいたまごの仔
1 みんなみんな夢だった
 そしてそれらはみんな夢で、世界の滅亡も大冒険もなく兎は縫いぐるみのままうごかず白くまの縫いぐるみも縫いぐるみのまま、羊も真黒のぶよぶよも花にんげんもいなくて私は彼の部屋のベッドで目をさます。長い髪は寝具にちらばるけれどそれらは反逆をおこすこともなく静かにしている。やっぱりどきどきしたことや疲れた苦しいと思ったことも、それは夢だったけれど、目をさましてしまえばすべてどこかへいってしまいそんなことがあったと思いだすばかりになる。私はここにいて夢のなかでもっとも遠くに到達したものであるといえるのだろうか。
 そして彼がおきだし、毎日のように口をひらかず窓辺へ、煙草を吸いにゆく。蒲団のなかの私も毛布をからだに巻きつけ裾をひきずりながら並び火をつける退屈でくたびれていて平穏な、いくつも繰りかえされた朝がここにありそれは夢のなかにあったようなもっとも遠くのところへ至るものであるような気がしてき、不穏をはらむ雪雲の端からのぼる曙光のはじをにらみいつかそこへといっさいの自助をともなわず希うのだけどそれは当然かなわず昨日と明日と同じ今日のまいにちがあり、夢から覚めたので今日は学校へいこうと思う。
2 ugly
 春になり暖かくなり冬は遠のく。夏のころは冬は遠くにあって二度と来ないものではないかと思い、疑いは、九月の金木犀のにおいが開けた窓枠やアパートの階段、暗い沓脱ぎ、バスの中にまで充満するみたいにあふれる。夏に集く蝉が耳の奥にひそんでどこにも居やしないのにがなっている声を聞くみたいに甘ったるいにおいを錯覚するころをすぎると肌寒くなり冬は想像のものでなくまたくるのだと感じる。それから十月になり十一月になり、寒さが雪雲と一緒に海や山のうえに居座り淅瀝の声がきえ、しんとし、天幕におおわれた島に音がしなくなりやがて流氷の軋みがやってくる。二月になると私たち、私と彼が最後の授業をうけ、学校に行かなくなる。春は、雪が融け桜の樹皮を黒くするさまをみることなく、ふたりは寒い島をでてゆく。東京へいくのだ。
 中央線沿いに住み、大学へ通う。彼も小田急線の沿線に部屋を借りる。私たちはほとんどでたことのない島をでて、東京に住むようになる。違う大学へ通うことになったけど付き合いは続いている。週の三日くらいを彼の部屋ですごすので私の部屋は家具も雑貨も少ない。雪国から持ちだしたものは兎の縫いぐるみくらいだ。制服は実家にあり、二度と袖をとおすことはないのだと思う。何か感傷を抱く訳でもなく、感想もない。ただすぎていって、私は首都へでて、そこで生活をする。五月の首都は雪もなく桜も疾うにちって、若い緑が茂ろうとしている。町田に住む彼を訪ねる小田急線の車両に乗っている。荻窪から中央線に乗り新宿へ。南口の改札を出、地下の小田急線のホームへ。だらしなく左右の戸をあけて車両はとまっていて、私は乗り、座る。そのうち戸はしまる。平日で、あまりひとはのっていない。代々木上原をすぎ、千代田線からの乗客のいくらかがロングシートに就き、何人かはドアにもたれ、他の何人かはつり革をつかむ。ベビーカーを片手で支える女がいて、茶色に染めた髪が窓からそそぐ光にすけているけれど、水気がなく死んだ蚕の繭みたいで、頬はもっと水気がなく、化粧をして隠そうともしていない。女の立つ姿を、座席の端の銀の手すりが四角く区切り、額装された絵のようでいる。彼女の絵がかざられるのはどこかはわからないけれど病院ではないだろうし、産婦人科のある病院ではもっとないと思う。日が眩しくくしゃみをし、電車は下北沢をすぎてゆく。女のほうををみているとあれが自分の未来かと思う。氷雪に閉ざされた到底日本の気候ではないような雪国は遠く、晩夏の想像にある冬のように遠く、二度と来ない、ふれられるものではないように思うけれどそんなことはなく盆には帰らなかったので正月には帰省するので手のとどくところにある。そんな風に彼女の、経産婦の肖像が映る。遠くにあって私が走っていこうとも地鏡のようにとどかなかったはずが雪国の夏の波濤のように寄ってくる。二十にもならない私がそんなことを思うのはあきらめているからだろうか。まだ若く、いくらの男でもつかまえることはできる。部屋から中央線に乗り新宿へ、東口をでれば最大の繁華街だ。しかしあきらめている。私は二十をすぎ、大学を出て職に就く。数年後には彼と結婚するのだろう。そして、あの女のようになる。産婦人科の待合室には飾られない絵に描かれる女の肖像のようになるのだ。深海の魚のように謀略や残酷さに身をおき、深林の鮮苔の獰猛さを身につける。
 ここまで想像してあほらしくなった。鞄から兎の縫いぐるみをだして抱える。襤褸は綿をはみださせている。そろそろ、破けて綿を吐きだすだろう。きっと、繕うこともあふれた綿をもどすこともしなくて、手元からなくなるだろう。五月の陽が眩しく暑く、眠った。
 半夏生が白くなるころだ。七月のおわりに私たちは海へ行くことにした。雪国の溶岩がかたまったような海ではなく、浜のつづく海を見にゆく。新宿から総武線に乗り秋葉原へ、山手線で上野へ、上野から常磐線に乗り柏、東武野田線で千葉へ、内房線で大原までむかった。長い時間がかかった。部屋の近くでは湘南新宿ラインでしか見ないボックス席のある内房線は私たちを海へ運ぶ。バスに乗り海へ。海水浴客があふれた海へついて、私たちは海を一目見て帰った。疲れていた。そのころには兎の縫いぐるみはいなくなっていた。夢で見た羊たちも、黒いぶよぶよの影も、花にんげんも、夏の陽のしたにはいない。冬がきても、東京には、首都にはいない。みんなみんな夢だった。どこにも隙はないのだと思う。
 晩夏をすぎ、金木犀のちいさな花がアスファルトや大学の構内から消える。栃が実を落とし、それを大学の清掃員が拾い、どこかの焼却場で燃やされる。紅葉した桜の葉が枝から落ち、公園の隅にたまる。欅の茶色い落ち葉も掃かれて燃やされる。十一月をになり冬が鼻の先にくる。十二月になり、月の前半は陰湿な寒さの印象しかなく、クリスマスは彼と祝い、その後やっぱり彼と帰省する。飛行機に乗り、おりる空港に雪は積もっているけれど私の雪国ではない。バスに乗り電車に乗りバスに乗り砕氷船に乗り私の雪国の島に戻る。寂寥はなく五月に小田急線の車内で覚えたただの無力感があった。
 頭上から氷雪が注いでいる。天蓋の灰色の雪雲が雪をふらせている。砕氷船のつく港の、砕氷船の甲板から心許ない鉄板を通ってコンクリートの桟橋におりる。そこからバスに乗って実家へ戻る。父が車をだしてくれるかと思ったけれど、用事があるらしくバスに乗ることになった。手袋を穿いていない素裸の手が彼の手と結ばれている。経産婦の肖像が去来する。雪がふっている。アリューシャン諸島をつたってアラスカに到達したエスキモーのことを想像してみた。想像で、きっと、現実ではない。私が、夢のなかで経験した、夢のなかで島の百貨店の二階の縫いぐるみ屋の白くまのところまで走っていったときのことは覚えているけれど、それが夢だというのはわかっているけれど、もう足の痛みや息の苦しさ、熱さの感覚は遠くにいってしまっていて、手につかむことはできない。「私はここにいて夢のなかでもっとも遠くに到達したものである。ここにありてもっとも遠くの地平へ至る」と寒さにうごかない口の中で唱える。彼は「何かいった」と訊ねてくるので無視をして手をひいた。島は小さく雪雲におおわれ海は氷に閉ざされている。人口は少なく店はちいさな商店があるだけだ。縫いぐるみだけを売る縫いぐるみ屋は島にはない。白くまの縫いぐるみはなくて、兎の縫いぐるみもどこかへいってしまった。バスがきて、除雪車の通ったあとのある道を走る。雪片のこびりつき、結露して外のみえない窓をこすり、黒い防風林を見る。エンジンのうなりで流氷の軋みはきこえてこない。正月をすぎ、私たちは東京にもどる。
3 inherited
 僕たちは押しこめられ、陽をみることはなくなった。彼女が百貨店の縫いぐるみ屋を訪れたあと、花にんげんの運転するバスに乗って娼館へ戻った。メアリィはいなくなり、僕と白くまの縫いぐるみがもどった。ほどなくして兎の縫いぐるみもぼろぼろになってやってきた。
 羊のすがたはなくなり人間にもどる。女の服をきた幼い僕が娼婦らにまぎれて館にいる。屋根裏で寝起きをし、客に姿を見られないようにすごす。昼間は客がこない。人間にもどった僕は二本足で屋敷を闊歩する。屋根裏へ続く階段をおり、廊下を歩く。そこら中に娼婦らの気配がある。図書館の扉にアンジェがいて、一階の左翼の角部屋、機織りやミシンの部屋にはコハルがいる。二階の娼婦の私室にも、リビングにも、キッチンにもいる。長い裾をひきずらないようにし、兎と白くまの縫いぐるみを抱えて屋敷をさまよう。中庭にでると眩しい陽が注いでいる。晩夏で、あたりはじっとしている。暑くて、すべての生き物がそれぞれの部屋や草木の陰、洞穴に姿を潜めている。色の濃い影が草のはえた地面におりている。草を蹴散らせば虫が気怠そうに飛んでいく。ひとの気配はあるけど音はしない。ときどき風が吹いて葉擦れの音をたてるだけだ。庭の真中から間歇的に噴水の音がきこえてくる。屋敷の外郭を日陰にそって歩きコハルのいる部屋の窓をたたく。膝のうえに縫いかけの縫いぐるみをのせたコハルが立ちあがり、こちらまで歩いてきてくれる。窓をあけてしばらく互いにだまっている。
「こんにちは」
「もう、戻ってきていいの」
「いいんだ。もう、みんなおわっちゃったから」
「そうなんだ」そういって、スカートの裾を持ちあげて窓をのりこあえてきてくれる。幼い僕にくらべずっと年上の彼女は背が高くみえる。彼女の胸ほどしかない背が見上げている。笑いながら頭を撫でてくれる。

(続く)