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120829(Wed) 12:42:31

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1章 公団の庭

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 男が仕事を終えるのは午後六時だけれど今日は長引き最寄り駅まで戻ってくるころには十時をまわり、女が帰ってくるのも同じ時間、彼らの住む街は埼玉県の東部にあり白と青に塗られた六両編成の電車が走り停車する木造平屋の低い駅舎は人口に比べ小さく、多数の人間が下りる下りホームはあふれ混雑した跨線橋と改札口に人が詰まっているところまだ互いを知らない男と女、川村と宮田が多数の人の間に顔を見ることもなくいる。駅舎を抜けた先、ロータリーの東側のスーパーに女は立ち寄り男はそうそうにねぐらへ戻っていったが、駅前通りから商店街のほうへふらふらと歩みを進めラーメン屋に入った。女は高校生であるが今は公団にひとりで暮らしている、日々の糧、自身を養うために食材を買い、調理をする。二十三時閉店のスーパーは夕方に比べると人は疎らだが女が籠をもって歩く清涼飲料水の棚の一条隣には見知らぬ男女が酒を選んでいる、川村と宮田が互いを知らずまたそのことを疑問に思わないように女も男女らも顔をあわせることなくしずしずと籠に商品を放りこみ会計を済ませ足早に店を出る。スーパーの入り口はイオンの地下一階にあり、ロータリーから直接階段とエスカレーターが伸びているがエスカレーターのほうは数年前からとまったままでいる。上階には多数の専門店が入居している。本屋や手芸屋、洋装店、楽器店や喫茶店、その他の店舗が明かりを抑え息を潜めるなかでスーパーだけが、煌々たる絢爛で営業を続けている。地下のベンチには老人や若者がいて煙草を喫んでいる、脇を目にとまらないように足早にかけてゆく、階段を上りきると向かいには市立図書館の分館やレストラン、写真店などが軒を連ねた五階建ての建物があるがそれらも一様に息を潜め、人がいないようでいる。コートの襟をあわせマフラーを巻き直しながら原付にまたがった若者連の間を大して歳の離れていない彼女がすぎてゆく。女には今日嫌な出来事があり気が立っている。駅に戻る時間が遅くなったのもそのせいだ。そうしたときには普段しないような行動を積極的にとるようになり、ファストフード店に長居したり、本屋で読みたくもない本を買ってみたり、自転車を学校の駐輪場に置き去りにして電車で帰ってきたりをしたので帰宅は授業の終わる時間よりも大幅に遅くなっている。彼女の公団と駅までの距離はおよそ一キロと数百メートルがあり、普段は歩みが遅いので十七分ほどをかけて帰るが、今日は帰りたくないのと気が逸っているのとのあいだで混乱したように、制服に覆われた身、黒いタイツに隠された足をどこへおろしたらよいのかわからないという風に迷い、ゆっくりと進めている。
 百五十年ほど前まであった城の城址公園近くの高台に寄り添うような形で公団は建っている。春先には多数の花見客が来るが今は冬、二月では散発的に現れるサッカーをする少年やバトミントンを気まぐれに始める女たち、犬の散歩をする年嵩の女、腹回りを気にしてジョギングをする男、その他雑多な人種がまとまりもなく訪れるにすぎない。
 男がラーメン屋を出る、木造平屋、アーケードもない低い商店街の夜中近くは閉店したか営業をやめたかに関わらずシャッターを閉じていて、連なる店のなかでそのラーメン屋(店先には食券の券売機が明かりをたいている)や客が来ないにもかかわらず夜遅くまでやっている脱サラをした三十前半の男の経営する古着屋などごく少数の店しか戸を開けていない、野犬はいないが髪を染めた学生服やスウェット姿の男女が小道との角にたむろするなかを歩く彼は二十代の半ばで背の高く、痩せたからだをしていて、少し脂じみた伸びかけの黒髪を人目につかないようにと白いマフラーのなかに隠そうとしているが無駄なことだった。先を行くどこかでみたことのあるような女を見ている、背が低く、強情な染められていない髪を去年設置されたLED灯が照らしている。スクールバッグの持ち手に両手を通し背負い、先ほどのスーパーのビニール袋を握り、指定の黒いダッフルコートが紺色の制服のスカートの裾をわずかにあらわにさせ、短い脚がためらいがちに動いているところを見ているが顔は見えない。急に後ろめたい気持ちが潜水艦のように現れ、自販機のまえで立ち止まりコーヒーを買った、自分のほうが歩幅が広いだろう、追い越すときに彼女の顔をちらりと見てしまうのではないかという危惧がありそうした欲求を覚えることに異様な恥ずかしさがあった。長細い缶を開け、青い自販機にもたれ息をつき煙草に火をつける動作に彼は慣れきり、何度も繰り返してきた日常の風景だという様を覗かせている。商店街のメインストリートをわずかに離れた路傍には亡霊の杉のような常緑樹が茂る、取り残されたような片隅に彼はたたずんでいる。いつまで待てばいいのか、彼女がどこへ進もうとしているのか知らず、身を切る寒さに耐えている。城址公園は城の建っていたことを表すのに数枚の看板しかもっていない、林の中の切り立った斜面の遊歩道が昔の外堀だったとか、わずかな痕跡しかを残さず、今や一帯を狭い庭付きの一戸建てに囲まれている。公団の敷地の入り口から右に二棟進んだ一番端の棟の四階に彼女は住んでいる。注意深くあたりに人がいないことを確認する、棟と棟の間をすり抜け、明かりのついたベランダを見、窓には家族に追放された喫煙者の父がいるのを認めた。目的は五階の一番端の踊り場で、彼女の背丈でいうと胸元程度まである塀は座ると向かいからは頭の先も見えなくなり、それより高い建物も周りにないので開かれているにもかかわらずまったく隠されているようになる。
 男はわずかに熱の残る缶に火のついた煙草を入れ、ゴミ箱へ放る、小銭をいれボタンを押し缶を取り出すのと同じくらいによどみのない日常の姿ですごしている。梢の合間の空は家々や街灯、近くを走る国道と東北自動車道の光で赤くぼんやりと光っている、雲に覆われ星々は見えない。雨の予報であったけれど夜半の気温は下がりつづけ雪の降りそうな気がすると思っている。気温より何より、空の端が、堆積する雲が、光や電子をためるように赤く発光している様が雪の降りそうな感じを思わせる、彼は関西の太平洋沿い出身であったのであまり雪になじみはないけれどここと同じ、近くに大動脈になる国道と高速が走っていたためちらつく雪片が光を反射する同じような色合いの雲を見ると雪を連想する。急激に寒さを覚え雪以上に瞬きし淡く消えてゆくような商店街の大通りからの歓声を背中にうけながら家路にもどってゆく。左右に並ぶ二階建てと合間にある雑居ビル、LED灯の影に先ほどの女の影が現れないかと期待をわずかに抱いている。特別美しい女のようには見えなかった、矮躯を左右に揺らす狭い歩幅の歩みや太く膨らんだような黒髪とその毛先を巻き込む紺と緑のアーガイル柄のマフラー、黒いコートの端にこぼれる紺色の制服のスカート、黒いタイツと飴色の革靴に包まれた足、手に提げられた白いビニール袋の、生活をうかがわせる光景が焼き付いているのは追い越しざまに振り向き顔を覗かなかったからだろう。赤と灰の六角形の舗石をスニーカーと黒いジーンズの足が進んでゆく。商店街の終わりは唐突にあり、左に折れる、女と同じ公団に男は住んでいる。彼女は五棟の四階、彼も同じ棟の五階に住んでいる。互いのことを知らないまま、縦に並ぶ五〇六号室と四〇六号室の床と天井に阻まれ郵便受けの名札ほども意識したことがなかったというのは彼も彼女も新聞を取っていないし個人的な手紙を受け取るような機会や希望もないからだ。アスファルトの舗道の両脇には隣接する市や同規模のどの街とも同じように庭つきの家々が並び、この道をまっすぐ行くと公団があり、さらにその先へゆくと公民館や造成途中で放棄された新興住宅街の更地があり十年ほど前まではセイタカアワダチソウやススキ、ノボロギクなどの雑草、個人商店、釣り堀、木とトタンできた平屋、冬になれば大根と白菜を植える畑などがあったが今や一様に均され礫土が広くにわたっている。宮田の小学生時代はおてんばな娘で祖父母に与えられた、白とピンクに塗られ小さな籠のついた女児用の自転車を少年たちと一緒に乗りまわし幼い彼彼女の背丈より大きな草をかき分け、またその近くを流れる元荒川の木立や打ち捨てられた木造船、小さな畑や牛舎などを探検していた。クヌギやミズナラの実を見分け、今となっては食卓に上がることはないが食用に供することのできる野草を見分け、捨てられた荷車に乗り斜面を滑りおり、まだ興味を持つことのない雨ざらしの猥本を手にした木の枝でつついたりとしたことがあったがそれはもう昔のことで彼女もすっかり忘れている。宮田がともに遊んだ男たちとは小学校の中学年にもなれば疎遠になり、中学校に上がるころにはほとんど喋ることもなく、高校進学を機にまったく顔をあわせることはなくなった。それは小中学生にありがちな異性との会話を奇異な目で見てくる同級生の姿もあったし、何より彼女の性格の変化が大きかった。幼いころは十人並みの容姿であったけれど歳を重ねるごとに醜女という風情を帯び、細くその年頃の少女らが一様に祝福を受けているかのような陽に透けるつややかな髪は黒くごわごわになり、棒のような手足は楕円のような膨張をし、対照的に胴はやせ細り緩く膨らんだ腹や肋の浮き出た胸、何よりこれもまた歳によるものだけれど白い肌にはいくつもの進行中のにきびが赤く腫れさせ穴を穿っている。人並み以下の容姿や元来の口下手さにより孤立し、中学校卒業から現在まで友人未満や、密かな連帯を抱くものはいるが友人と呼べるようなものはいなかった。彼女の家は地元の名士という程ではないが金銭的に余裕のある家庭で両親も家を空けがちの不干渉さ、高校進学時にひとり暮らしをしたいと申し出れば何事もないように3DKの部屋が与えられ、姉と弟とも疎遠になりひとり部屋にこもる日々が続いている。男もたいした変わりのない生活をしていて、大学進学時に引っ越しをし川崎にワンルームのアパートを借りていたが就職時に職場に近いこちらの公団に引っ越してきた。大学の友人とは元々あまり馴染んでいなかったこともあり卒業以来一度も顔をあわせたことはない。職場の人間とも休日に会うようなことはなくただひとりで暮らしている。予想通り雪がちらつき始める。男の鞄には折りたたみ傘が入っていたが五分もしないで帰れるだろうと思うとさすことはせず、髪やマフラーに付着する粉雪を払わず同じ速度で歩く。住宅街の切れ間に唐突に現れる門をくぐり、ふたつのブランコ、青い滑り台、使用禁止になりスズランテープを巻かれたジャングルジム、赤と黄色のプラスチックのシャベルが放置された砂場、三つのベンチ、くずかご、四隅の街灯の小さな公園を通り過ぎ、数十メートルの遠回りをして部屋へ戻ってゆく。エレベータはなく階段を上ってゆく。踊り場からは向かいの棟が見え、先ほどの公園はその棟の向こう側にあり見えない。煙草を吸っていた父は部屋に戻っていて、寝静まった部屋部屋のうちに潜む誰彼を起こさないように足音を立てないように歩く。
 今年、宮田の通う水浦市立第二高等学校では市の嫁入り祭りの役者が選ばれる。市内の各校から持ち回りで主役となる花嫁と花婿の役が選ばれることになっていて彼女のクラスの学級会でもその話が上がったが、誰も立候補するものはなく、押しつけられるようにクラス代表になり、また人見知りで発言をすることもなかったクラス代表の会合でもその場の力学により花嫁役を押しつけられた。花婿のほうも同じで二年生の竹原悠が選ばれた。市内の子供たちは嫁入り祭りの由来について小学校の総合の時間の郷土史で一通り調べ学習をしている。A1程度の模造紙に図書室や市の図書館で調べた内容を大きな字で書き込み、教室の後ろや、秀逸なものは金や銀の折り紙を右肩に貼られ一階の下駄箱脇の掲示スペースに張り出されたがすでに十年近く昔のことで小さなものの頭のうえを遠慮するようにゆっくりと流れる時間が遠くのことにさせ、忘却のうちに追いこめられた知識になっていた。四ヶ月後の六月、梅雨の時期に嫁入り祭りが開かれる。水浦市立河田小学校では二年おきにクラス替えがされ時期が近いこと、また親睦を深めるため班での調べ学習ということで三年生の新学期早々に郷土史の学習が組み込まれている。積極的に図書の借り出しをしてノートをつくってゆく女子児童、丸めた模造紙でチャンバラに興じる男子児童、授業だから一応という風に参加し遊び回る男子児童をいさめる女子児童、班長の女子児童が好きかもしれないということで同じ班に立候補した男子児童など五人程度の班がいくつもできて毎年と同じように、宮田が通学していたときとも同じように模造紙に年度の初めに配られるフェルトペンで書き込まれてゆく郷土史の一部分、去年の金賞を受賞した学習の成果は班長の児童の家に持ち帰られいまは彼女の入学当時はやっていた日曜の朝のアニメの絵が背もたれにプリントされた椅子と表には同じ絵が印刷され、裏には小学生が習う漢字が学年別、画数順に学参書体で表にされているマットがあり今は裏返しにされている学習机がふたつ、小学六年生の姉と一緒の部屋で二段ベッドがあり、雑多なものが積み上げられた部屋の手前側のスペースに丸められ放置されている。遡ること四百年ほど、当時の城主と化け狐の婚儀、また城主の死後狐のたたりが出るということで人身御供にされた若い夫婦のこと、狐は数十年の後に成敗されたが祭事としてはのこっているなどが小学生向きの内容で書かれている。四百年前当時の元服の年齢をこした男女が夫婦となり祭りの主役を務めることが大正のころから現代の祭りの形式とされ、今では高校生たちがその役に選ばれる。宮田は恋愛をしたことがないし、竹原も同じだった。彼女は苛立ちに不良じみた行動をとり帰宅の時間は遅くなり、不満や不能感の解消のため公団に引っ越してからの隠された癖を実行しようとしている。公団全体の入居率は半分程度で十二部屋が並ぶ五棟の五階には四世帯が入居している、その部屋部屋のどれもが電気をおとしていることを確認して耳を澄まし、冷えたコンクリートの階段に腰をおろす、目のくらむような緊張や体温の上昇に湿る背中、顫えて粘つく汗をかく手がコートの一番下のトグルを焦りはやるように外す。白いため息をつき顔を上げ、雪が降り出したことを知るが意に介さずたくし上げたスカートのうちに冷えた指を運び太腿に触れると冷たさに身を跳ね上げる。腰をおろした四段目から伸びる飴色の革靴に包まれた足が宙におろされ触れる踏み段の角が等間隔に太腿とふくらはぎに冷たさを伝えているのは皺になったスカートを通して臀部を冷やす四段目の踏み段と同じだ。丸い指先がタイツの膜に覆われたような両脚の付け根に触れ太腿に触れたときと同じように身を顫えさせる。内側に人の住む部屋部屋の外、公共部分でまったく私的な営みをおこなう彼女の姿は塀に隠され誰にも認められない、何度も同じことをしてきたが誰にも知られず、淫蕩にふけっている最中であっても耳を澄ますことは忘れず、これから先もパブリックな場においての営みを誰にも知られることはないと無邪気に信じている。押さえつけながら漏らす吐息と藍色の嬌声や階下からの鍵を開け色あせた藤色の扉を閉める音、近くを走る国道のうなり、バイクの空ぶかしの雷鳴のような音の誰もが薄黄色い廊下の電灯に照らされる彼女のことを知らず、私は秘匿された部屋の外にあってもその機密性をたもっていると宮田は川村のかすかな足音にも気づかず興奮している。スニーカーのゴム底は音を消し、中三階の踊り場でつま先の向きを変える、四階でも同じ、中四階の踊り場の真ん中で両階を隔てる壁に隠されて男は女が次の階段にいることを知らない。宙を仰ぎ白い息を吐き続け熱を帯びた秘所、身体で最も隠された場所、体温を上げるからだ、蕩ける脳があることを、毎日と同じ階段があり部屋に戻り眠ることを考える男は知らないし、女のほうも自らが暴かれにさらされることを疑わないでいる。毎日が同じようにあると信じていて、これが物語に暴かれる恐怖すら抱いていない、昨日や前回と同じように生活が続いている、舞台に上げられることはなくまったくの個人が日々を営み続けられると信じ続けていた。
 宮田のほうが先に足音に気がついたけれど川村のほうもほとんど同じ瞬間で、緩んだ顔、スカートを皺にし股にもってゆかれた指を隠す余地はない。まったく暴かれてしまった。女は青ざめ、男は驚きを露わにしている。女は知らないが男は先ほど見た女だと気づき、特別美しい女だとは思っていなかったけれど痘痕面の醜女に対面し他人のごく個人的な面、両者の合意によって部屋の内側やファッションホテルのうちでおこなわれること(想像やアダルトビデオで見た知識しかないけれど)が偶然のうちに目の前に現れる、が、暴いてしまう恐怖と昂揚を一時に覚えさせる。まったく美しくないからこそ歪められたり湿ったりした眉睫、屈辱や恥辱、媚態のすべてが感情を喚起する。腫れたような顔、太い脚など肉の重たさを想起させる醜さの総体が美しさ、ランチュウの瘤のようなものを想像させる、醜いもののうちの美しさを制服とコートに隠された不格好なからだが秘めていると身勝手に、けれど鋭い飛翔と降下をする猛禽に捉えられるようにして宮田の外見とそれを形成する内心を知ったように感じている。湿った指を引き抜きスーパーの袋を持ち走り去る、その一瞬ですらを川村はやはり身勝手に美しいものと劣情を喚起するシンボルとして同時に感じていた。屹立した陰茎をその場で露わにすることもなく彼女の腰をおろしていた踏み段に手のひらを触れさせ、わずかにのこった熱が消えないうちに焼き付けようとする、ざらつくコンクリートを撫で雪の降るほどの寒さに消えるまでの一瞬を楽しむ。足早に階段を上り廊下を歩き、はやる気持ちを抑えつけることもしないで未だ震える手で鍵を開け扉を閉め後ろ手に鍵を閉める。靴を脱ぎ捨て宮田と同じ間取りの部屋に帰り着く、電気もつけず玄関と一続きの台所とリビングを足音を立てながらすぎ、風呂場とつながった部屋の中央に腰をおろす。壁面には水槽が並び品種は違うがどれにも金魚が泳いでいる。電灯に赤や黒の鱗を光らせる魚の中でもどかしげにジーンズを脱ぎ捨てる。多数の黒い目が男の帰宅を覗いている、おそらくどれにも意思はなく、尾を緩やかに動かしながら興味があるのかそれとも偶然そのほうを向いているのかもわからないが見つめられたなかで陰茎に手を添えている。川村は宮田の名前を知らない、どこに住んでいるのかも、この団地に住んでいるのだろうと想像しているが確証はない。ひとつ下の同じ位置、ボール紙に書かれた表札と名を知らず、それでも一瞬の目撃という縁を糧にした欲情に身を任せている。俊敏な尾ひれで水をかき分ける和金、たおやかな鰭を揺らしながら見つめる琉金が彼女の目であり、僕が女をみとめる、また、女が僕の淫蕩をみとめたときにあるだろう稲妻のような痺れ、雷のように何本もの鼈甲の簪を挿した遊女や華やかな金魚群ではなく、一個の醜い女、そのうちに宿る湿りや発散される青い蒸気のような美しさのことに想像をたくましくし、手のひらに射精する男の隣の浴室の下の階では女がシャワーを浴びている。オレンジの電灯が脱衣所に灯され、磨りがらす越しの小部屋に明かりはない、薄い明かりの中で水のつたうからだや表面張力に盛り上がった水滴をまとった女が先ほどと同じように股に手を当てている、恥辱、個人の営為の暴かれる様、そのことによる興奮が先ほどよりも熱のこもった仕草や声に現れている。下駄箱の上のスーパーの袋、玄関から点々と脱ぎ散らかされたコート、ブレザー、よれたリボン、皺になったスカート、ボタンがひとつはじけ飛んだ白いブラウス、飾り気のないブラジャー、股ぐらの湿ったタイツとパンツが最後の足ふきマットのうえに残されている。勢いよく噴射する湯を身にうけながらだらしなく背中を壁につけ、うつむいて伸ばされた脚のあいだ、毛に覆われた秘所を爛々と光る目で見、指をあてているが宮田も川村も、互いの行為を知らない。一瞬視線を交わした姿を反芻している。夜は更け、日が変わる。彼らのいないベランダ向きの部屋は城址公園と国道の明かりがかすかに差し、二間続きのフローリングと畳敷きのうえに放置された洗濯物や敷かれたままの布団、図書館で借りた読みかけの小説や教科書を照らしているがそれは宮田と川村が知りあわなかったのと同じようにこれからも知り合うことのない階下や隣室で眠る男女ふたりのきょうだいのいる一家や独居老人、空き部屋、男と同じような境遇の単身者の部屋もそうで、独居老人のわずかにのこる髪や老人性色素斑や肥大したほくろのある頭に月光が注ぐように穏やかに、継ぎ目なく存在している。女の木曜日の授業は最初の二限が美術、体育、数学Ⅰ、古文、公民というようになっている。雪は降る速度を増し、街の明かりを乱反射する、男が実家で暮らしていたときに見たような赤くぼんやりと光る空をつくっている。目撃された彼女や目撃した彼はそのことを人に話すことはないだろう、まったく個人的なうちに隠されていて、暴かれることはないのかもしれない。個々人が部屋部屋に引きこもり言葉を交わさない、公団の住人が自分の物語を他人に話したりしないのと同様で、一個の人間の物語は口を通じて暴露されることはない。三〇五号室の子供部屋で目を覚ます小学五年生の娘に訪れた初潮、小学三年生の弟や父親の目を覚ますことなく夫婦の寝室に忍びこみ少女は母親を起こす、母と娘だけが知っている出来事があり、それも他のどのものと同じように彼女の驚愕や諦念、母の恐れは口に出されることなく小さな頭蓋のうちに閉じ込められている。最後にため息をついた女が乱暴に顔と髪を洗う、彼女の顔には産毛が生えていて、美容院に行ったとき以外に剃られることはないし、引っ越してからは自分で前髪を切りそろえた以外に手はつけられていないから一年近くそのままにされている。彼女にも未来に顔の毛を剃るときがくるのかもしれないし、こないのかもしれない。男が丸めた手のひらに精液をためながら入れ替わりにシャワーを浴び始める、冬場のシャワーの温度は四十三度だったがタンパク質が凝固しないようにと三十七度の湯で手を洗い流す。散らばった制服を拾い、ブラウスとタイツ、下着が同じように体操服やその他制服類はいっているが私服は一枚もない洗濯籠に放られる。制服は座椅子の背もたれに掛けられ、クリーニングに出してから一度もアイロンがけをされていないスカートにはたくさんの折り跡がついている。食欲もなく、明かりはつけず、ハロゲンヒーターのオレンジと音量を抑えたテレビの青、黄色の明滅を眺めながら先ほど買ってきたコカ・コーラと湖池屋ののり塩ポテトチップスで夕食を済ませて下着姿で眠った。その頃には男もシャワーを上がってかすかな罪悪感を帳消しにするように乱暴に、何度も洗濯されかたくなったバスタオルで髪とからだをぬぐい、適当なシャツを着ている。彼は自炊をしないので外食かコンビニかスーパーの弁当や総菜で済ませている。唯一の調理器具である炊飯器にはひと月前に炊かれた飯があり、黒や黄色やピンクの黴を吹いていることに気づいてはいるが開ける気は起きないので来月もそのままになっているだろう。台所にいくつもの弁当の残骸やペットボトルがたまり、それらはおそらく炊飯器の中身と同じときに片付けられるだろう。水槽の部屋に戻り畳に直接腰をおろして水槽群を眺めている。本当はアロワナを飼いたいと思っているがアロワナは病気に弱いし、大きな水槽も必要になる、何より高価であるので手をこまねいている。男の収入と貯金からすればアロワナに手を出すことは不可能ではないが恐怖している。夢に手を出したとき、自分の不具を見せつけられてしまうのではないか、たとえば、アロワナが死んだときの絶望があるだろう、巨大な魚の銀色に光る大きな鱗が、思考のないように澱み、純粋さを保った目に射すくめられたとき、一体どのように振る舞えばいいのかわからないだろうと理由を見つけ出し先延ばしにしている、いつかと願った夢が果たされることがないくらいは彼だって知っている、本当はこの夢が叶って欲しくないことだって知っているんだといい聞かせ、水槽の部屋を出る。明日だって仕事がある、今日はもう眠らなくてはいけない。丘に立つ英雄のような、女の姿を見た、あれは希望だとそれを見たことだけで満足しておけと独りごちてベッドに潜りこむ。

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 夜中じゅう降り続けた雪は熱を持ったアスファルトや土のうえで溶けてゆき、日が昇るころになると凍結した路面と公団の塀や棟の影などに痕跡を残すにとどめ明日の通学や昼休みに雪合戦であったり雪だるまをつくろうと思い眠る小学生やまだ幼さを残す中学生の夢を砕いてまわった。宮田と川村が起きるのは七時すぎのほぼ同時刻であり、女の部屋では目覚まし時計の、男の部屋では今使っている携帯ともうひとつ念のためにかけてあるすでに契約の切れた携帯のアラームが鳴っているが床と天井に阻まれ互いの部屋に音は届かないが厚くはない壁越しに目を覚ますものもいるし、すでに起きているものもいる。床に敷いた布団の上、冬のもとでまだ早朝といった風情で照らす陽が宮田の顔の間際や図書館で借りた大衆小説、はたまた三階に住む男女の風邪薬の箱などを照らしている。先に目を覚ますのは女であり、昨日買ってきた食材を冷蔵庫に移している。床についてから肉(豚こま・五〇〇グラム)を買っていたことを思い出し起きようかとも思ったけれど苛立ちが再び現れるのではと恐怖して眠りについた。零時をまわってすでに帰宅してくるものもいないだろう、水浦駅に最終下り電車が到着するのは二十四時三十二分であるけれど部屋を離れて私的な場所であると思っていた階段の暗がりが暴かれてしまったことで同じことを繰り返せない、思い込みであっても守られていた個人の内に侵入されたことに憤りを抱いている。がさがさ鳴る袋から取り出した肉のパックの隅には赤い汁がたまり表面は黒ずみ始めている。習慣や霊的な何者かにより腐っているかそうでないかがわかるとでもいうようにラップ越しに指で押したけれど道理もなく、小分けにされ、そのときにも鼻先に近づけたが塊ごとにあたらしいラップにくるまれ冷凍室に、白菜やネギ、ウィンナー、オリーブオイル、スパゲッティなども同様に冷蔵室(一一〇リットルでチルド室はない)、コンロの上の出窓、出窓の上の戸棚のあるべきところに仕舞われる。昨日は料理をしなかったので弁当も作られない、トーストと冷凍の唐揚げ、オレンジジュースでテレビを見ながら朝食をとっている。今日はまだ半分しか読んでいないが市立図書館の本の返却日になっている。ベッドのうえで顔面と膝をつけて三角形になった男がいる、朝が弱くけたたましく鳴るふたつの目覚ましをとめる気力もなく二度寝し、次に目を覚ますのは七時四十五分で家を出るまでは残り五十分程度でありようやく目を覚ます。二度寝だけでなく三度寝、四度寝などをしないように携帯を開きメールが来ていないことを確認したあとはニュースを流し読みしたりアカウントをもっているSNSなどを見てまわると三十分ほどがすぎ台所で顔を洗い着替える。水槽の部屋は窓際の部屋との襖が閉じられていて水槽に取り付けられたランプの明かりだけがある、敷居を踏んで鴨居の真下に立つ男が台所から差す光に薄い影をつくりながら侵入していく。押し入れにはカルキ抜きの薬品やバケツ、網、ポンプ、化学繊維でつくられた水草などが仕舞われていて、餌をあげてゆくのは四五センチの水槽がふたつと六〇センチの水槽がひとつあり部屋には一六〇リットル以上の水がある。飼育されている品種は和金と琉金がメインになっていて他にもランチュウやコメットなどがいる。こちらの公団に引っ越してから何か生物を飼ってみたいと思ったのが原因で、候補にはコモドオオトカゲなどがあったがワシントン条で保護されていることや毒をもっていることから断念する。犬や猫でもよかったのだが大きい動物のほうが親近感が抱けるような気がしてダチョウを飼う姿も想像もしたがペット禁止以前の問題であったので深く考えることはなかった。他にもマンションの一室でワニを飼うという漫画を読んだことがあったのでそのことも考えたのだが当然無理で他の爬虫類やウーパールーパーなどの両生類について考えることもあったが決め手に欠け、逃げ込むように魚類の飼育を選び、シーラカンス(同様にワシントン条約で保護されている)や鱒なども候補に上るが飼育は困難であり残されるのが最後の夢としてのアロワナと、子供のころ縁日で掬ってきて殺してしまった金魚であった。結局近所のホームセンターで売っていた金魚を選ぶことになり同時に外の園芸コーナーでサボテンも買ったがそちらはベランダでひからびている。布袋葵を指先でよけながら餌をおとしてゆくと顔を上げた魚が口を動かしていて可愛らしい。金魚や魚類全般の飼育法や生態、構造についてほとんど無知でぱくぱくと口を開けて餌を食べる姿を可愛らしいと感じている。背中の向こう、押し入れには飼育用品に紛れて金魚の飼育マニュアルや生態についての本が押し込められている。シャツにパンツ一枚の格好を改めてゆく、卒業式以来袖を通していないスーツもクローゼットにかけられているが、私服で通勤していているため格好に大差はない。ヒートテックにTシャツ、パーカー、昨日と同じジーンズ、少なくとも公団に越してきてからは繰り返されていることで眠っていてもできるだろう、髪もととのえることなく、長身痩躯のさえない男が寝室と兼用の居間にできあがる。薄い生成色をしたカーテンの向こうのベランダは雪に濡れている。サボテンの棘にいくつか雪片がつき、浅く盛られた水はけの良さそうな土は昨日まで茶気ていたけれど黒々としている。礫砂漠の植物相と埼玉県東部の植生はまったく異なり、自生するサボテンなどはなくせいぜい駐輪場の小屋の日陰に生える銭苔やそういったじめじめとしたものしかない。水分を少しでも受け取ろうと伸ばされた棘はようやく面目躍如といった風情で、ひからびていた姿も夜には乾燥したみずみずしさを取り戻すだろうが男が注意を向けることはない。ベッドに腰掛け灰色のアンクルソックスを穿き準備は終わってしまう。携帯のアラームがつけっぱなしになっていないか確認をして家を出る、暗がりの玄関に放置されたスニーカーには融けた昨日の雪が小さな水たまりをつくっているがそれにも気づくことなく足を通され部屋を出る、ほとんど同時刻に女も家を出るがその姿は昨日帰宅したときと同じ制服姿で、違いは見受けられない。黒いコートと裾からこぼれる紺色のスカート、黒いタイツ、飴色のローファー、背負われたぬいぐるみ類など同年代の彼女らが好んでする装飾はないスクールバッグ、ごわつく髪、黒と紺のアーガイル模様のマフラー、昨日家を出たときには白く手の甲のところにぼんぼんがついたマフラーをしていたが自転車で帰らなかったので机の引き出しに忘れられ、けれど路面が凍結しているため結果的に電車で帰ってきてよかったと感じている。コートに隠された内の端には臙脂色のリボンと白いブラウスが覗いているけれどそのほかに何があるのかは見えない。同じように紺色のジャケットやらくだ色のカーディガンなどが着込まれているがその下を見透し描写することは、まったく私的な部位で彼女が自らもしくは川村や竹原、青木などにより脱がされないかぎりできないだろう? 門から最も遠い階段を使い少し遠回りをして団地の公園を横切ってゆくため男と、普段であれば最も門に近い階段を使っている女は朝、顔をあわせることはない。住宅街と商店街を宮田が先にゆく、男は幻影を追うように女の姿を探したが同じように駅へ向かう人々や横切る自転車に阻まれて見つけることはできなかった。多くの自転車が往来するのは公団の近くに高校があるからで、制服も似ているため男は気がつかなかった。高校は商業高校で商業科と情報処理科が設置されている。また、商店街を抜けた駅前通りをまっすぐゆくと国道と交差するまえにも普通科の高校があり、こちらは紺色というよりも青々とした布地のため見間違えることはないが男にとって攪乱のようをなしている。二分ほど先行していた女が信号にふたつ捕まるあいだ男は歩を緩めることなく、ついにauショップとイオン(一階の公団側にはミスタードーナツが入居している)、マツモトキヨシ、個人経営の人形店と不動産屋が四隅に建つ交差点で似たように見える背中を捉える。とはいっても似たような彼女は何人もいる。電車通学をする商業高校の生徒が横断歩道の向こうで待っていて、女はひとり男に気づくこともなく背中を向けている。似てはいるが並べば違いはわかり、昨日見た制服だとわかる。背格好は似ているし、似ているという訳だけではなく運命的に昨日の彼女が再び現れた、奇跡のようだと、確信したようにマフラーに巻きこまれる黒髪を見ているが、だから何だ、あなたの媚態をオカズにして自慰をしましたと告白する訳でもない、隠された姿を何者かに導かれるように暴いた、それだけであるのに一体どういう言葉をかければいいのか、部屋の中ではかまわない、だけれども公共の場であのようなことに及ぶのは、僕のようなものでなければ乱暴をはたらかれても文句はいえないよ、などといけしゃあしゃあと諭すようなことをいうのだろうか。僕はそこまで恥知らずじゃないと演技的に人波に囲まれたなか頭を振っているあいだに信号はかわりかごめかごめではなくひよこの鳴き声が聞こえてくる。半歩遅れで脚を出すあいだにも女は駅へ向かい逃れてゆく。この時間六両編成の最後尾の車両は女性専用車両になっている、男は上りの終点まで乗るが、女はどこまで乗るのだろうか、制服姿で行き交うひとたちを観察したことはないのでどこの高校に通っているのかわからない。途中で下りるのだろうか、終点まで同じなのだろうか、それとも電車には乗らないのか、乗ったとしても下りだったら彼女の詳細を突き止めることはできない。男がミスタードーナツの前を通りかかり些細な興味を抱き増幅させているころ女はロータリーの始端、六階建ての人形屋の前を通りすぎている。あまり近づきすぎたら気づかれてしまうだろう、そうしたときどのような顔をしたらいいのか、もしかしたら一瞬のことで顔は覚えられていないかもしれないけれど目が合ってしまったらこちらがおかしな挙動をしてしまうだろうと思うあいだにも線路の向こうの最近建てられたふたつのマンションのうち駅から遠いほうに住んでいる普通科高校の一年生の女が自転車にのってすれ違う。彼女の最近の悩みはブラスバンド部の一年上のチューバを吹く男の先輩一色で恋を全うしようと奮闘しているが実を結ぶのかはわからないし、また、男を追い越す紫色の頭をした六十がらみの女はロータリーの横断歩道を渡った向かいのパチンコ屋に並ぼうと急いでいる。鄙びた店で、はじかれる銀玉と電子音の轟音、目のくらむリール配列が老爺と老婆を駆り立ててるがそれは遊戯本体ではなくイオンと公民館のあいだの道をまっすぐ行き、数年前ビフォーアフターに出演し今風の見た目にリフォームされたラーメン屋(市のB級グルメグランプリ金賞受賞・学生は学生証の提示で五十円引き)に目をくれることもなく、突き当たりにある地域の優秀な中学生の集う学習塾を左に折れ踏切を渡り警察署の敷地の奥側の角を左に折れてまっすぐいった先にある接骨院に集まる同じような老人たちが同じように望むようにコミュニケーションを切望してのことだった。そうしているあいだにも女は二千円ほどがチャージされたPASMOで改札をくぐり、男からは見えないところへ逃れてしまう。男は先頭車両に乗るが、女は五両目に乗っている、男は知らないことだがこの時間の先頭車両は後尾の車両に比べると倍以上の乗車率になっていて、改札前の混雑さえ気にしなければ後ろに乗ったほうが得である。男がすし詰めの車両で呻吟しているころ女は空いているとはいえないがまともにつり革をつかみ百ページほどを残した今日返却の文庫を読んでいる。四駅を通過し終点に着くと男は定期券にしているSUICAで改札をくぐろうとしたが期限は三日前に切れていて、残高(水浦駅の改札をくぐる時点で一二〇円チャージされていて隣の駅までの運賃が七〇円、終点までは一九〇円)もなくなっていたので自動改札機のひとつの流れがせき止められすぐに他の改札へ処理が分散されリカバリされたがキャパシティオーバーの人波をかき分け精算機に近づくと二台ある前に七人ほどの列ができていた。その隣を宮田が通りかかりまだ名前を知らない川村の横顔が見えたことに驚き一瞬のあいだ恐慌をきたしたが何事もないように通りすぎたとき男は鞄から財布を取り出し小銭の準備をしていたため女に気がつくことはなかった。
 駅からは高校前を通る路線バスが出ていて、東口のロータリー前には宮田と同じ制服を着た少女らが並んでいる。第二高校前バス停までの料金は一七〇円であるけれど、回数券(水浦市立第二高等学校の生徒はそう呼んでいるが実際には十円と百円の券が綴りになっていて千円、三千円、五千円の種類がありたとえば千円のひと綴りを買うと千百円分になり一〇パーセント得をできる)をもっているため一五三円で乗ることができる。几帳面であるためあらかじめ百七十円分の単位をつくり財布にしまわれているものを手のひらに握って待っていると程なくバスが現れる。スーツを着た男と女、私服の女がひとりずつ下り、高校生たちが乗りこんでゆく、比率は七対三で女のほうが多い。高校生以外にも途中にある総合病院に通う老婆がいて、貪欲に優先席を獲得している。この循環の乗客比率は第二高校の生徒、病院に通う患者と新患(初診の場合は紹介状が必要になり公団の周辺では駅の反対側へ行った通りにある内科医院が多く紹介状をだしているが、水浦市に合併する前からある市立の総合病院へ行くものも多い)、路線沿いに住む人間、その他の順になっている。高校までは十七分ほどで着き、料金箱に回数券をいれて下りたあとには二十代程度の男と四十台程度の女を乗せ再び走り出した。SHRまで二十分ほどあり、朝練のない生徒らが疎らに歩く、または自転車に乗るなかを他と同じようにすぎて上履きに履き替え四階の一年三組の教室に入ると三十六人いる生徒のうち十人程度が登校している。鞄をおろすなり宮ちゃん宮ちゃんと話しかけてくるのは三学期が始まったときの席替え(並びは成績順になっていて後ろにゆくほど優秀な成績、最下位の生徒は教卓の前・右側)で二列目の窓際になった女の隣の青木りりで女よりは高いが背は低く痩せたからだをし、縮毛矯正をして地毛といい張る赤っぽい色をした髪の今風の可愛らしい女だ。ねえねえねえ今日髪巻いてきたんだけどどうかな! 可愛いかな! ねえもしかして怒られちゃったりしないかなどうしよう、怒られたら男子みたいに切られちゃうのかな。バリカンでじょりじょりじょりーってされちゃうんだよねえ大変だよねえりり女の子なのにそんなことされたらどうしよう尼寺、尼寺に行けばいいのかな! そんなに、簡単に巻いたの元に戻らないし今日だけっていったら許してくれるかな。許してくれなかったらどうしよお……ああでも何もいわれなかったらそれはそれでショックかも。ほらりりも生徒な訳だし、それで何もいわれなかったらりりは必要ないのかな。二高にさあ! ほら、なんていうの、思春期だから! かまってほしいんだよお! とまくし立てる青木の髪は今朝中学生二年生と小学六年生の妹に見守られながら巻かれたもので、三姉妹の長女である彼女は妹らのことを大変かわいがり次女からは非常に疎まれているものの食い下がればかまってもらえている、一巻きすることにどうかなと人並み以上の声量で訊き、次女からはどうでもいいよ、三女からはお姉ちゃん可愛い! との賛辞をもらう、次女も三女と同様に姉を慕うように教育したはずなのにと頭をかしげることが彼女の毎日になっている。そうだね可愛いんじゃない、と返すと宮ちゃん冷たいいいと新学期にはクラス中が振り返った声だったけれど今では誰も気にしないような大声で不満を漏らし、また、その大声と自称などから学年では有名人であり不興を買っている。青木は宮田に対してでも誰にでも懐こうとするがうまくいった試しはない。中学生のときは学年の人気者だった、なのに、今では友達のいないうるさくて痛い女で、爪弾きにされたもの同士でくっついているが互いにまだ友達と認識してはいない。宮田はうざがりながらも仲のいい人がいたら楽になるのだろうなと思い、青木は友達というよりもかまってくれる人として女を認識している。青木の話に適当に返事をしていると鐘が鳴り担任がはいってくる。連絡事項として嫁入り祭の打ち合わせがあるからと女が名指しで呼ばれ、かすかな笑いが起きる、主に五列目の廊下側の女が笑っている、その中を宮田と青木だけが息苦しそうにしている。「ねえ宮ちゃん! 一緒に帰ろうよ。ほらさあ、りりたちって華のJKなんだしさカラオケとかマックとかさあ、南京通りのカラ館の割引券もってるよ! 宮ちゃん仲良くなろうよおお」「私、呼び出されてるから」「待ってるからさあ!」暴れる青木を無視するように教室を出て行くが机には鞄とコートが残されている。祭の実行委員には女の現代文を担任している男が就き、国語準備室に呼び出される。国語の教諭はまだ着ておらず、普通教室の半分くらいの部屋で、隅に置かれた教室のものと同じ椅子に竹原が座っていた。女は昨日初めて竹原と対面した、挙手による投票で選ばれたふたりが名前を呼ばれ周りから教室ほどではない嘲笑みたいな拍手が上がり、諦めたみたいに立っていたのがふたりで、そのとき初めて名前と顔を覚える、以前にも廊下や食堂などですれ違ったことがあったかもしれないけれど、顔を覚えることはない、名前を呼ばれて知ったから覚えた。女が国語準備室の戸を開け、竹原と目を合わせると、他の古文の教諭もいなくてふたりきりで、もう少し青木につきあっておけばよかったと後悔している。後ろ手に戸を閉めて、竹原は携帯をいじっている、女はまだ話したことのないひとつ上の男を前にして言葉を探すけれど口を割ることはない、急に選ばれちゃって大変ですね、六百人もいるのに何で私たちなんでしょうね、私可愛くないのにこんな役になっちゃってどうしたらいいのかな、など会話の糸口になりそうなものをいくつも浮かべている内に時間切れみたいに口を開いたら変な雰囲気になってしまうような空気が流れている。仕方なしに窓際にもたれて現代文教諭を待つ、五十代の男で妻子がいるらしい。中学生の息子が受験生だと授業中に話していたけれど、宮田たちはその詳細を知らない。同じように携帯を取りだしてメールを打つふりをしようとする。普段は友人もいないので着信はないけれど今日は姉から一通来ている。週に一度ほどメールのやりとりがあり、ちゃんと食事をしているか、学校に行っているかという内容が多い。祭の役に選ばれたことは伏せて返信をしていると現代文教諭が現れる。ホームルームが長引いてねと笑いながら現れる男は歳の割に痩せたからだつきをしていて新任の教諭よりも熱を上げる女子生徒もいる、ロマンスグレーのナイスミドルという風情の男だ。茶色の三つ揃いも相まって物語の登場人物のような典型的な国語教師といった感じだが帽子はかぶっていない。女は一、二度現代文教諭が三十代後半から四十代前半のころ生まれた息子について考えたことがある。息子のことというよりも、その歳の男がするセックスのことに割合がおかれていて、手つきや事後に何を喋るのかといったことを想像しているが女子高校生とはまったく違う生物に思えるためそのたび気持ち悪さを覚える。仲良くやっている、何も喋っていなかったのかと気まずい雰囲気がなかったように話しかけプリントを手渡す。祭までの日程が書かれていて、特に注意事項の囲みがMicrosoft Wordでつくられた雰囲気をあらわしている。「今日はとりあえず説明事項ぐらいだから長くならないよ」「竹原は水浦市にすんでいるのか」「宮田はそうだったよね」「竹原の現代文は僕受け持たなかったからなあ」「いつも最初の授業にどこに住んでいるのか訊いてるんだけど、僕は旅行が趣味でねえ、郷土史とかを調べて旧址や景勝地とかをまわってるんだ」「このお祭りもおもしろいよね」「嫁入り祭、元々室町幕府があったころにできた城があって、元々地方豪族が治めていた土地なんだけど」と話が続いてゆく。竹原は隣接する市に住んでいて、電車で通っている。「それじゃあ大変だねえ、毎日電車に乗ってバスに乗って」「高校生だと車は乗れないもんね。そういえば受験が終わったら車の免許はとるのかい」「今を逃したら大学に行ってからじゃなかなか時間もとれないしねえ、車はもっておくと便利だよ」「今の時代東京に住むならいいけど、それ以外だとないと不便するし身分証明書にもなるしね」「そうだ、祭の話しだね、宮田は水浦市だもんな、子供のころ親に連れられていったりしたのかな、なかなか豪勢な祭だよなあ、僕も赴任してきたころ、といっても七年くらい前だけど見に行ったよ、もうこの歳だから来年しなかったら定年まで二高に勤めるんだろうね」祭の話にはなかなかはいらず現代文教諭の話が続いてゆく、三十分ほど教諭の話が続き、その後自己紹介をして準備室を出る。その際、仲良くするんだよといわれたが一体どうやってとふたりともが思っている。竹原の背は百七十センチほどで、宮田からは他のどの男とも同じく大男に見える。仲良くってどうしたらいいのかなと竹原が話しかけるが宮田はしどろもどろになり小声で返事をする。国語準備室は特殊教室棟の三階にあり普通教室棟とは渡り廊下でつながれている。普段は普通教室棟の階段を使って上下の移動しているが逃げるように特殊教室棟の階段から教室に戻った。青木は席について近所の書店のカバーのついた文庫本を読んでいたが女がはいってくるなり声をかけてくる。なんか取っつきにくい人で大変だったと返し、かっこよかったかと訊かれるけれど、普通、いっこ上でどうしたらいいのかわからないと返事をするだけだった。コートを着て鞄を背負い、手袋をはめると可愛いと褒められる。隠すようにポケットに突っ込んで教室をでる。ねえねえ、どうする、カラオケいく、宮ちゃんどこ住んでるの、一度に質問を投げられ、ひとつずつ返事をしてゆく、青木は女の使っている私鉄沿いに住んでいて、自転車で通学しているらしい。自転車で行くと駅までは十分ほどで着く、バスは遠回りをするような順路をとり信号も多いため時間がかかる。雨の日だけ電車なんだけど混んでて大変だよねーといった話をしながら駅前まで自転車で行き、案内された部屋は四、五人程度の入れる小部屋でどんなもの歌ってるのと訊かれるが女はカラオケきたことないと返事をする。青木が数年前の流行歌を歌っているのを眺めながら一時間ほどで出てロータリーの対角線にある二軒のマクドナルドの学校に近いほうに入る。二階のシート席に向かい合って座り、女はコーヒーを、青木はジンジャーエールを飲んでいる。二時間ほどがすぎけだるい雰囲気が流れている。周りの席にも彼女らのような高校生がいる、三人の女、向かい合う男女、それらは女とは違う制服を着ているが、店の端の彼女らからは見えないところに五人の男女混成の同じ制服の一団もいる。「なんか宮ちゃんと仲良くなれた気がする」「まあそうだね」「なんかつれないねーりりのこともしかしてうざかった」「別にそんなことはないけど」「りりうるさいからさーよく嫌われちゃうんだよね」「まあうるさいよね」「宮ちゃんひどーい。でもなんか高校生って難しいよ。中学のときは誰とでも仲良くなれたのに、なんかみんなさー、うるさい人はお断りっていうか大人っぽいっていうかさあ」別の高校生グループの会話に紛れて宮田と青木の会話がされている、どこでも同じ会話で、東京や千葉、四国のマクドナルドでも同じような会話で、彼女をどこかの高校生とを取り替えても変わらないだろう。「へええ宮ちゃんってひとり暮らししてるんだ。大人ーだね」「青木さんは実家」「そうだよおひとり暮らしも憧れるけど妹がいるからさあ、ふたりいてりりは長女なんだけどかっわいいんだよお、中学生の次女にはうざがられるんだけどさあ、そうやってうざがるところも可愛いし、三女のね、夏紀はまだ小学生なんだけどもーちょうちょうちょお可愛いんだよお」「中学生になったらその次女さんと同じようになるんじゃないの」「そんなことないよお、だって、可愛いんだもん。ずっと可愛いままだよお。ねっ、宮ちゃんはきょうだいとかいないの」「姉と弟がいるけど」「へええお姉さんかあ。憧れるよねえ。りりもお姉ちゃん欲しいなあー」「仲はいいの」「お姉ちゃんにかわいがってもらったり弟をかわいがったりさあ」「特にそういうのはないけど、家、もうでちゃったからあんまり会わないし」「へーなんか悲しいねえ」「青木さんって自分のこと名前で呼ぶよね」「うん……、なんで、なんでだろ、癖だからかなあははっ、ただの癖なのにねえ、調子乗ってるとかかわい子ぶってるとかっていわれちゃうしほんとなんなのーって感じ。いいじゃん、自分のことあたしとかっていうのと何が違うのって感じだしさあーあーもーなんか生きてるのって大変。しんじゃおっかなあ」「えーそんなことで」「だってもう死活問題だよ、うそうそ、しんだりはしないけどさあ、だってもう大変だよ、りりはただ普通に生活したいだけなのにさあ、ああうそ、普通なんてやだよもっとなんかさーだって華のJKだよ、もっと高校生っぽいことしたいしさあ、なんか中学のときはもっときらきらした感じだと思ってたのに高校生ってなんか退屈だよ。友達もできないしさあ! あっ、そうだ宮ちゃん携帯交換しようよ。いままでずっとしてなかったよねー席も隣なのにさ」「ああまあそうだね」携帯をだして連絡先を交換する。青木のメールアドレスには先ほど歌っていた流行歌の歌詞の一部が引用されていて、単語のあいだはドットで分割され、最後にはそれが三つついている。「宮ちゃん携帯のアドレス最初のやつじゃん、変えないの」「だって面倒だしというか友達いないからアドレス交換しないし」「えーうーん。なにそれーあーでもっ、りりと同じだね、友達いないし!」また二時間が過ぎる、すでに陽がくれていて窓の外は真っ暗になっている、ロータリーではタクシーのテールランプが赤く光っている「ねえもう友達だよねーねえ宮ちゃん何でそこで否定するの」「だって私友達とかいないし」「えーりりたちはどもだちだよお」「あーもーわかったよ」「そうそうよかったあ。高校は行ってようやく友達できたよ」「悲しいね」「悲しいよーだってでもいつも友達になっても嫌われちゃうんだもん。宮ちゃんは嫌わないでね」「どうかな」「ほらそうやって冷たいことゆうー」「この話もういいよ」「あーもう九時だね、そろそろ帰ろうか」「もうちょっといようよー、別にいいけどさあ、帰ってご飯つくったりするともう真夜中だよ」「あーそうだよねー宮ちゃんひとり暮らしだもんねーご飯つくったりしないといけないし、大変じゃないの」「別にもう慣れたよ」「そっかーあーでもひとり暮らしいいなー」「妹いるんじゃないの」「妹可愛いけどさ、でも自分の部屋とか欲しいしー」「部屋一緒なんだ」「うん夏紀とねー、宮乃とも同じだったんだけどりりとはやだっていってひとり部屋もらってんの。あーいーなー」「頼んだら部屋もらえないの」「えーもう部屋ないし……」「そっか」「あー……宮ちゃんにだけいうけどさ、りりってオタクなんだよねー、漫画読んでるときになんかにやにやしちゃってえ、そういうときに部屋はいってこられるとやだしい、夏紀の教育にも悪いーみたいな感じだし親に見つかったらやだから本隠したりしないといけないからさあ、そうそう、りりは自分のノーパソもってんだけど他はリビングのやつしかなくってえ、時々宮乃が貸してってくるんだよお、中見られたらはずかしいし拒否るんだけどそしたらりりだけずるいっていわれちゃうし……あーひとり暮らしいいなあ」「別にそんないいもんでもないと思うけど、ていうか青木さんってオタクだったんだ……」「えっ、宮ちゃんも偏見あるの、せっかく同族だとおもったのにい」「別に偏見はないけどあんまり漫画とか読まないしネットもそんなにしないし」「えーなんかこういったら悪いけど宮ちゃんも友達いないからそうだとおもってた、別にいいけど、中学のときからそうだったの」「うーん中学のときは友達いたから遊んでたけど高校はいったら暇でさあずっと漫画読んだりしてたらそうなっちゃった。うー誰にもいっちゃだめだよ、また嫌われちゃうし」「他にもそういう人いると思うけど、ああほら、文芸部とかそういう人集まってるじゃん、入部したら」「えーもう三学期だよ、今更行きづらいしっていうか知り合いもいないしい」「でもいいじゃん、同じ趣味の話しできる友達できるだろうし小説とか書いたら楽しいんじゃないの」「えーだってあそこの人ってなんかオタクっぽいしい、りりもっとなんか高校生っぽいことしたいしい。何のために髪染めたり巻いたりしてるのかーって話しだよ。それに今日だってさあ、廊下歩いてたらちょづいてるとか遊んでるとかっていわれるしい、もーなんなのって感じ、いいじゃんなにしてたって人に迷惑かけてる訳じゃないんだしさあ、あーそうだ、今度宮ちゃんちいっていい」「いいけど何もないよ、遊ぶものとかないし。暇なだけだと思うけど」「えーいいじゃん、こうやって話ししてるだけでもいいしい」「じゃあ今度ね。今日はもう帰るよ」「んーじゃあいこっか」ありがとうございましたーという声を背中にうけて店を出る、外は寒風が吹きすさびコートを揺らす。寒い寒いといいあいながら自転車を漕ぎ、十分ほどしたところで別れる。
 女はひとりになりじっと前を見て漕いでいる、青木と初めてこんな長時間話をした、もしかしたら高校に入ってから初めてかもしれない、彼女はうるさい人だけどそんなに悪い人ではなさそうだ、バイパス沿いを進みながら考えている。トラックが脇をすぎると風によろける、並ぶテールランプとヘッドライトの光をうける、青木さんのこと、あんまり知らなかったけど仲良くなれるかもしれない。図書館により五十ページほどを残したまま返却期限が来た本をポストに返して公団へ帰る、駐輪所に自転車を止め携帯を見るとすでに十時すぎだった、姉からのメールが来ていて今度遊びに行くねとあった、ひと月に一度ほど様子を見に来ることがあり、面談をされているみたいだと思う。駐輪場は裏門側にあり、階段を上りながら昨日のことを思い出している、ああいうことをする日は三つある内の裏門に近い階段を使っている、今日は不注意で登ってしまっていた。使う階段も踊り場も同じで、普段使う階段と切り分けるためだった。行為の記憶が思い起こされる、部屋を出てしに行くことはなく、学校で嫌なことがあった帰りにすることが多い。宮田の、コートを着たからだが水銀灯に照らされている。焦るように登る踏み段を一歩一歩上りながら今日はそのような気分でないのにと思わされている、無意識に階段と行為が紐付けられていて、猥褻な考えが浮かぶ、昨日の男、今日はもう家に帰っているだろうか、彼はさえない見た目をしていたけれどと留保をおきながらまた見られてしまうことを想像している、彼に見られながら、名前も知らない同じ団地の一つ上の階に住んでいることしかしか知らないけれどするのはどういった気持ちかと考える彼女の一つ下の階の階段を川村も上っている、昨日よりは早く終わったけれど定時に遅れて帰ることになった、同じスニーカーは同じように足音を隠して女は気がつかない。男は革靴が階段を上る音に気づき昨日の女かもしれないと期待を寄せているが一方そんなうまいことはないと思っている、今朝は見失ってしまったけれど同じ棟に住んでいるのだしそのうち顔をあわせるだろう、あんな人に見られるかもしれないところでしているんだ、いやらしい娘だろう、セックスできるかもしれないと想像を巡らせている。女が四階の踊り場について、習慣から半ばまで上ると今日はそんな気分じゃなかったんだと思い出す。頭のなかでは男にからだをまさぐられるところを想像していた、もてあそぶだけの想像で、実際にそんなことをされたい訳ではない、それでもこんな妄想をしたまま部屋に戻るのは気が進まなく、またあの踊り場へ行こうかと思い始めたころ男が追いつく。先に気がついたのは川村で黒いコートを着てスクールバッグを背負った背中を見つけた、女が振り返ったときには男が通路をふさぐような姿勢になっていて、逃げることは、階段を上ればいいのだけど混乱していて、できなくなっていた。無言で向きあう姿があるが、二階では近くの商業高校に通っている男子生徒が帰宅し扉の音を立てているし、また隣の棟ではひとり暮らしの三十代前半の女が部屋の中で昨日の女と同じことをしているし、また隣の棟の五階でも中学三年生の男が同じことをしている、会釈して逃げようとする女の通路を男がふさぐ、「昨日の……」「違います」「でも」「違うんです通してください」「昨日の人なんですよね」「違いますってば。もう、許してください……」泣き出す、にきびと痘痕におおわれ腫れた顔に涙が伝う、青木さんと話して友達になって、幸福な気分だったのにどうしてと身勝手に思う。狼狽する男が、慰めるべきか、それとも、自分のせいでこうなっているのだからできることはないと思いながら欲望に負けて手をのばす。やさしくしたらヤらせてくれるかもしれない。宮田と川村の上を公団のどこの電灯と同じように瞬きしながら水銀灯が照らしている。公団ができてから、宮田のように階段の隅で自慰にふける女や男がいたのかもしれないし、その彼彼女らも見知らぬ人に見つかったかもしれない、泣いたかもしれないし、逃げたかもしれない。同じようなことが繰り返されているのかもしれない。自分は泣いていないという風に涙をぬぐわず、頬からあごへ伝い階段に水滴の染みをつける。うつむく頭に男の手が触れ、からだがはねる、また扉を開閉する音が聞こえるが、その彼か彼女は宮田と川村のことを知らない。嗚咽をつきながら男の手を払いのける。女の携帯が鳴る、青木からのメールだが開くことはできない、崩れ落ちるように階段に座り込み、男は何もできないまま立っている。退屈な雰囲気で、女は早く泣き止んでこの場を離れたがっている、男は何をしたらいいのかわからないで無視しておけばよかったと思い始めている。やがて女の顔が意地悪そうにゆがむ、捨て鉢でどうなってしまってもいいと思い、早く帰りたいけれどいっそのことこの男をめちゃめちゃに潰してやりたいと感じている。物語を駆動させるように口が開かれる。「責任とってください。私、あんなところ見られてどうしたらいいかわかりません……」「いや、でも……」「あなたのせいですよ、あなたが、あんなところ見るから、私、もうだめです」「そんなこといわれても……」青木のいっていた、死んじゃおっかなあなどのかまって欲しいことをあらわした言葉を思い出す。「私、死んじゃいますよ、ここから飛び降りて」「お、落ち着いてください」柵に手をかける宮田を見て狼狽を増す川村は泣き顔の奥の意地の悪さに気がつかない。「じゃあ、責任とってください……」「とるので! そこから離れて……」女は顔も性格も悪く、重たげな腕を男に絡ませる、恐怖がない訳ではないが彼とセックスをして捨ててやろうなどと都合のいいことを考えている、そうしたらこいつは泣くだろうか、大人だから何事もないような顔をしているだろうか、絶望して、そのまま死んでくれたら楽しいだろうに。「とりあえず、僕の部屋へ行きましょう、死なれたら,
嫌なので……」男もまた泣く彼女を手籠めにしてやろうと思っている、高校生なんだ、きっとちょろいだろう。互いに勝手なことを思っているが、うまくいくことはないだろう。手を引き五〇六号室の鍵を開け招き入れる、川村浩と書かれた表札を見て初めて名前を知る、雑然とした部屋の中に女の声がある。初めて自分以外の人間がいることを意識し始め、脱ぎ捨てられた男物の靴のあいだに女のそろえられた革靴のあることを栄光のように感じているが、ひとつ下の階の玄関にも同じように脱ぎ捨てられた靴が散乱している。泣き顔を手のひらで隠した女は悟られないように台所を一瞥する、ゴミが溜まり腐りかけているのは川村に生活能力がないことを現している、料理でもつくってやれば私にもつけ込む隙があるだろうと算段を巡らす。男の寝室におかれたローテーブルに座らせられると彼は茶をとりにゆく、冷蔵庫から半分ほどのこった麦茶のパックを取りだし、口をつけて飲んでいたものだったけれどコップに注いで出した。女は横になり窓の外を見ている、ベランダの室外機の脇にサボテンが置かれていて、朝棘についていた水滴はもう乾いている。エアコンがつけられるが空気は冷たく女はコートを着たままでいる、男は自分のものをハンガーに掛けながら宮田を見おろしている。口をつけられないままおかれたコップを見て、女を見てと交互にしながら口を開くのを待っている、もう泣き止みそうだったけれど涙を絞り出し、畳ににじませてゆく。「あの、何であんなことを、」沈黙に耐えかねどうでもいいような、無神経な質問が放られる。「そんなこと、訊くんですか」女も女でそういったことを訊かれるのに満足している、きっとこいつはばかなんだ、私のほうが頭がいいに決まっていると見下し、嘲笑を悟られないように悲しげな表情を保つ。「すみません……」「私、いやらしい子なんです……だから、あんなところで……でも、我慢できなくなっちゃうんです……」きっと男ならこういうことをいっておけば期待して好きになってくれるだろうというのが宮田の男性像で、原因はほとんど男と話したことがないからだし、川村もそれを訊いて頭の悪い子なのだろうし簡単だろうと確信し始める。女の頭には雑誌かインターネットかで聞きかじった簡単にセックスさせるような女はモテないとの本当かどうかも検証したことのない知識があり、だから今日はそのまま帰るつもりだった。「部屋の中ではかまわない、だけれども公共の場であのようなことに及ぶのは、僕のようなものでなければ乱暴をはたらかれても文句はいえないよ」などと今朝考えていたことがそのまま口にされる。「川村さんだってわからないです……」「どうして名前を知ってるの」「表札、書いてありましたから。とにかく、責任とってください……」「責任って……」「私、死んじゃいたいです」襖を開けたままになっている隣の部屋の水槽がうなっている。横になった頭をずらし音のほうに目を向けると黄色っぽい電灯に照らされる赤と白の金魚が見える。「金魚、飼ってるんですか」「ああ、趣味で」金魚でなくアロワナであったら、自分の不具の象徴を覗かれているような居心地の悪さを感じて口ごもる。「金魚、見てみたいです」「いいけど」女の心はもう男でなく金魚のほうを向いている。煙のようになびくまだらの琉金、太ったからだに似合わない優雅な尾が、縁日のものしか見たことのなかった死にやすい小さな生き物としか思っていなかったものにあたらしい視点をあたえる。宮田が小学五年生で、弟の鴎が二年生だったころ、嫁入り祭の縁日で金魚すくいをした。彼女はあまり興味のある風ではなく、早々にポイを破いてしまいおまけでもらった赤い細身のものを一匹もらったが鴎は執心の様子で黒い出目金を狙いお祭り用にともらった三千円のお小遣いをすべて金魚すくい屋で使い果たしたけれど出目金は掬えなかった、結局四匹の緋鮒のような金魚が持ち帰られバケツに入れられていたが次の日にはすべて死んでいた。それ以来金魚にいい感情は抱いていなかったけれど、大きく育った川村の金魚、女は半ば這いずるような形で寝室の中央に移動して電気のおとされた水槽部屋をながめる。優雅に泳ぐ琉金と和金が水草の中を揺らめいている、大きく育ち(実際には買った当時から大きかったのだが)、簡単には死にそうにないきれいな生き物に目を奪われる。「あの、他にも水槽あるので見てていいですよ」無理矢理流していた涙は枯れ、忘れさられ水槽部屋の真中へ歩いてゆく。四五センチの水槽が二段に置かれ、彼女が最初に見つけた六〇センチの水槽はその向かいにある。どれにも金魚が泳ぎ、水槽や流木、陶製の小物などでアクセントがつけられているがほとんど同じ見た目をしている。「落ち着きました?」「金魚、きれいですね」うなるモーターと電灯、揺らめき泳ぐ魚、膝をおろし水槽に顔をつけるようにしてのぞき込む宮田の背中を川村が見ている。「全部金魚なんですね」「ああ、まあ……」「熱帯魚とか、飼わないんですか」「考えたこともなかったよ。最初から金魚を飼おうと思ってたから。落ち着いた?」「はい」金魚のほうは動かない目をからだごと女のほうへむけている、あんまり覗くと魚がストレスを感じるといいかけるけれどけちくさいしまた泣かれても仕方がないので男は黙っている。人を上げたことのない部屋の異物のような女を眺める、高校生となんて卒業してからまともに話したことがなかった、泣いている最中も、泣き止んでからもどんなことを話していいのかわからないまま柱にもたれている、泣き止んだし、金魚を眺めているあいだなら会話がなくてもそんなに気まずくなることもなく安心している。一時間もしたら満足したらしく、またきていいですかと訊かれる、下心を含めていいよと返事をすると女は出ていった。五〇六号室には男が残され、結局名前もどこの部屋に住んでいるのかも知ることはなかった。

3

 女が男の部屋にいるころ青木は三女と共用の小部屋にいる、学習机に座りノートパソコンに向かっている。女に文芸部に入ればといわれたことや、カラオケやマクドナルドに行ったことを思い出している、数人のグループがのこる教室を出て、階段に下駄箱、駐輪場などを反芻しているがその後ろでは夏紀が騒いでいる。交換したばかりのアドレスにメールを打っていると次女がノックをせずに入ってくる。「りりーノーパソ貸して」「今使ってるんだけど、ていうかノックしてよ」「いいじゃん貸してよ!」「リビングの使ってよ……」「いいじゃんりりはいつも使ってるんだからさぁ! 可愛い妹のあたしにさあ!」「可愛くてもあとでね」「あーあ。いつもりりばっかり」妹が出ていったあとも青木は画面に向かい合う、メモ帳が全画面で表示され、文字が並んでいる。彼女は小説を書く、ただし、文芸部に入ろうと思ったことは一度もない。女に入部を勧められたとき嬉しくない訳ではなかった、友達がいなくて、ときどき人と放課後をすごしたり休日にともに出かけてみたりといった生活を考え憧れることもあったけれど、今はそこまで友達が欲しい訳ではない。入学当初から夏休み前まではそうだった、ひとりですごすことに慣れていなくて寂しさが先に立った、友達をつくろうとしたけれどうまくいかず、初めて夏休みを家にこもってすごす、中学生のころの友達がいない訳ではないし、水浦市立第二高等学校に進学した者も何人かはいるけれどその彼女らと顔をあわせる、友達がいなくてみじめな自分を見せつけられることが嫌でほとんど遊ぶことはなかった。あとは女に話していた内容と同じだ、夏休みが終わるころには今の青木になっていて、秋の文化祭では小説や詩が載せられた文芸部の部誌も読んでみたけれどさほどおもしろく感じられなかったし、何より自分のほうがうまく書けるとうぬぼれていた。ああいう人たちってろくに書きもしないのに仲間内で褒め合ったりしていい気になってそう、なれ合ってばっかりじゃ何もできないとかそういう偏見を持っていたため女に勧められたときもいい反応をしなかった。白い画面に並ぶ文字は帰宅してシャワーを浴び夕飯を食べ、書き始めたのは青木と村田の物語だ。「りりーゲームしようよー」「んーもうちょっと待って」三学期の席替えの前から女に注目していた、友達もつくらず(つくれず?)ひとりでいる、噂によると家は金持ちだけれどひとりで暮らしている、弁当も自分でつくり、質素に暮らしている。そういう生活をする彼女はどういった人なのかというところに興味を持っていた、興味本位で面白全部だったけれど、可愛くなくただひとりで生活しようとしている彼女は何者なのか、辛い家庭環境があるのだろうか、可愛くなく毎日を辛そうに暮らしていて売春などに走っていないだろうかと物語の類型にあてはめ理解しようとしている、二千字程度が書かれた青木の小説は今日の朝の場面から始まっている、どのように目を覚まし朝食はとるのだろうか、とらないのだろうか、自転車に乗っていたから、水浦駅が最寄り駅だといっていたからきっと四、五十分くらいをかけて学校へ来るのだろう、公団に住んでいるといっていた、隣の人はどんな人だろう、自分もマンションに住んでいるけれど隣の人がどんな人なのかはあまり知らないし宮ちゃんもきっとそうだろう、帰ったあとは何をしているのか、テレビを見ているのだろうかそれとももう眠っているだろうか、りりの知らない友達と遊んでいるのだろうかと想像して、すべて想像で書かれた物語は書き足され、尾ひれをつけられ、着地するところもないまま散漫に連ねられるけれど同様のテキストファイルはいくつも保存されていてそれらはどれも完結していないし、どこにも公開されていない。青木は宮田を想像のなかで辱める、公団の、彼女も生まれたときから水浦市に住んでいて小学校の生活の教科書には水浦団地の説明と写真のページもあった、白く塗られたコンクリートの建物で、五階建てのものが五棟ある公団、その階段で宮田が自慰をする場面を書く、わずかに知っている物事から想像の翼を広げてゆく、祭の花婿役に選ばれた顔も知らない竹原という男のことを想像し、いつ人に見られるかわからないような場所で淫蕩にふける宮田のことを、青木は、真実味をもった想像で書いてゆく、冷えた踏み板に腰掛け、コートとスカートに覆われた大腿の付け根に手を当てる女ことを考え、その物語の中に自分を当てはめてゆく、人間を擬人化するように同一化してゆく。「おねーちゃんまだー」「もうちょっとだから、もうちょっと待ってね」「えー」「すぐ終わるから」ひとつの脳に同居させるようにつくった仮想の宮田の思考が流れてくるような気がしていて、末妹と何気ない会話をしながらそのようなことを考える背徳を覚えている。途中まで書かれて放置されたどの小説も宮田の淫事が書かれ、そこで途切れている。
 次の日も学校へ行き顔をあわせる。仲良くなった気でいる彼女に声をかけ昨日何をしていたのかを訊く、物語とどれほど離れているか答えあわせをする。昨日は帰ってご飯をつくって食べたらそのまま寝ちゃったよ、えーマック食べたのにそのあともご飯つくったの−、青木さんは食べなかったんですか、少しだけ食べたよぉ、窓際のふたつの席は教室のその他の喧噪と離れたようにしてある。男の部屋に行ったこと、金魚を見たことは秘密にしている、きっと変な目で見られるとわかっているからだ。ひとつ上の階に住む男の生活の音を聞いて眠った、かすかな足音が実際聞こえているかどうかにかかわらず聞こえるような気がしていた、金魚の世話をしているだろう、あたらしい弁当の箱が台所に積まれているだろう、想像もつかないようなことをしているかもしれないと思い耳を澄ましていた。男は今朝目を覚ましたとき風邪をひいていることに気がついたので今日は休んでいる、女は部屋を出るときすでに出ているものだと思ったので物音に耳を澄ませていなかった、彼女が青木と話しているときにも男は眠り、起きだし金魚の餌をやる。青木は女に嘘をつかれていることを知らない、想像もしないでそんなに食べて太らないだろうかと想像している、スカートからはみ出す白い脚はむくんだように膨らんでいるが、カーディガンとベスト、ブラウスに隠された胴が脚から想像しにくい痩せかたをしていることに気づくことはない。宮ちゃん今日も暇? 別に今日じゃなくてもいいんだけどさー、昨日のこと覚えてる、宮ちゃんち遊びに行ってみたい、迷惑かなぁ。ごめんねえ、うーん私はいつも暇だからいいけど、本当にうちにきても何もないよ。小説を書く、宮田の生活にさらに迫るものを探している、女のことを理解したいのかどうかもわからないままただ彼女の物語をつくっている。放課後になり自転車がふたつ並ぶ、女の鞄の中には空になった弁当箱が入っている。公団の入り口の公園には小学生が何人かいるけれど、近隣の水浦市立太田小学校の児童は城址公園で遊ぶことが多い、公団の公園を使うのは公団の子供たちばかりだ、学年もばらばらで、彼らの中で頭ひとつ分大きい男子児童のもと低学年らしい子供たちが遊んでいる、ベンチには六つのランドセルが放られている。自転車は五棟の駐輪所にとめられる、彼女らが出て行くときにもほとんど離れていないにもかかわらず自転車で通う商業高校の女子生徒が自転車を押しながら入ってくる。青木がこれらの場面を逐次的に記憶し、エディタに打ち込まれてゆくことを女は知らない。入り口側の階段を上り四〇六号室の前に立つ、青木は女の握った鍵を羨望の目で見ている、これが宮田の、ひとりで暮らす部屋とその他の場所を分けている鍵だと意識している、昼間の、他のどの時間と同じようにドアの開け閉めする音が聞こえてくる、ひとつは真上の部屋で、寝間着にコートを羽織った男がコンビニへ行くために開けた戸だ、女が青木を部屋に招き入れるとき、男は階段の踊り場からふたりの姿を目撃し、目もあった。「あの人、知ってる人」「うん、上の階の人。引っ越してきたとき挨拶にいったんだ」彼と初めてあったのは一昨日のことで、おそらく何度も公団内で意識してきたけれど認識し始めたのはそれからだった。男は女の部屋を知り、コンビニから帰ってきたあとに表札を見る、宮田という名字をしていて、魚の名前がついていることを知り、淡水魚の名前を冠した女を飼うことを想像しているけれど彼の部屋の六〇センチの水槽ではかなわないだろうと感じる。所詮アロワナを飼うことができずに金魚を選んだ男が彼女を小さな水槽に閉じこめることは能わないと知っている。西南に面したベランダの前に立ち青木は広いんだねというが、女はがらんとして広い公団の一室は、両親に与えられたもので自分のものでない、分不相応なものだと感じているので恥じ入る。階段でのことは時々しかおこなわれないためその痕跡は部屋のどこにも残されていない、階段にものこることはなく完全に隠滅され、女の記憶にしかない。青木は想像の階段の痕跡を探すけれど見つけられず、不当な想像に彼女を落としこめたことを悟るけれど、錯誤でしかないが完全に隠滅されたそれは、見つけられないためなかったことにされてしまったのだろうか。女は茶を沸かす、湯呑みとマグカップがひとつずつあり、マグカップの飲み口は欠けている。「うち、本当に何もないでしょ」「えーそんなことないよ」青木は何もない寂しい部屋だと感じたけれど口に出すことはなく、否定の言葉も嘘っぽくなってしまうのは長い間友達と話すことがなかったため人との話しかたを忘れてしまっているのだと思った。興味は竹原から上の階の男に移り、想像の品を変える。昨日、どのようにしてあれだけ長い間会話をしていたのか思い出せず、女はテレビの電源を入れる。水戸黄門が流れているけれど彼女らは見ることがない。八畳の居間にはテレビとローテーブル、座椅子と座布団がある、壁には制服を掛けられるようになっているけれど今はコートしか掛けられていない。普段はつけないエアコンがついている。「そういえばさあ、お祭りの役本当にやるの」「選ばれちゃったからやるしかないよ」「あんまりやりたくないんだよね」「青木さん、やる」「りりはいいよぉ」今日の青木の髪は昨日のように巻かれていない。記述が続けられる、青木は立ち上がり窓際に立つ、城址公園が見える、冬休みまで一ヶ月ほどを残し、木々は裸でいる、茶色い芝生にフリスビーをしたり自転車でかけまわる小学生や、犬の散歩をする小学生の姿が見える。洗濯物は干されていない、昨日のうちに洗濯されてしまい、一昨日の痕跡はもう残っていない。後ろを向いた女と向き合い、今日は風が強い、枯葉の舞上げられた、日の暮れかけた空を背にして話が続けられる。物語の力学に沿わないようにして急に切々とした口調で話が始まる。まったく関係のないところでの色彩の爆発、黄色や赤、緑のアクリル絵具のような色がぶちまけられるけれどこれは話に関係がない、紺色の地味な制服が揺れるのは窓が開けられたからだ、春一番を前にした強風が青木の赤毛をあおり、枯葉が一枚はいってくる。ベランダでわだかまる風鳴りが部屋にあふれてくる。「青木さん」長大な助走になる記述が連ねられたあとのような声で女は青木を呼ぶ。「宮ちゃんどうしたの」女の髪までもが風に揺れ始め、手が制服の襟元に添えられる、といった場面があった。
 青木は夜にならないうちに帰ってゆく、残照が窓際にわだかまっているあいだのことで、女が公団の入り口まで送っていったあとにもまだ照らしていた。男や青木と目があったとき不当に感情を昂ぶらせられているような気がして、意思に反する感情に当惑した。青木のことは最近できた友達のようなものとしか思っていないし、男のことも上の階に住むほとんど知らない人間としか思っていなかった。思考の手綱が自分の手から離れ、そこにいない何者かに握られているような気がする。青木の背中が商店街のほうへと消えてゆくのを見送り、部屋へ戻ってゆく。公園の小学生はいなくなっている、横切り、奥の階段を上ってゆく。これは自分の意思で、他の何者によるものではないことは意識できる。部屋は私ひとりの空間で、脳の延長のように思っている、完全に私的な空間で姉と弟以外の何者も入ったことのないところへ青木は入ってきた。まるで他の意思が流れこんできているからあのような行動に走ったのだろうと感じる、ドア脇の湯沸かし器の銀色の筐体に向きあい前髪をととのえるけれど顔は変わらずにきびができている。チャイムを押すとまもなく男が出てくる。
「今日、お仕事休みなんですか」
「ああ、まあ……今日はどうしたの」
「昨日いったとおり、金魚を見たかったので」
 交合のこともあるが、ひとつ下の階に住む先日まで見知らぬ年下の女に優しくされることを期待している。「いや、」と出かけた声を飲みこみ女を招き入れる。「友達がきているんじゃなかったの」「もう帰りましたよ」部屋は電気がついておらず残照も消え真っ暗になっている。「寝てたんですか」「いや、風邪をひいたみたいで寝てたんだ」「すみません起こしてしまいましたね」「昼間寝すぎてもう眠れないからいいよ」女は部屋着姿の男をみている。「やっぱり、帰りますね。顔赤いですし、寝てたほうがいいですよ」台所の電気がつけられ、隠されていた部屋が照らされる、昨日と同じ雑然とした台所や捨てられていないゴミ袋、備え付けのほとんど空の食器棚など、ままならない生活のすべてが明るみにさらされている。「まあ……」「熱、結構あるんですか」女は男ほど期待を抱いていないが、冴えない見た目の年上の友人ができる、また性交やその他数々の出来事があること、また、一昨日は不用意に隠していた面が暴かれてしまったけれどそのことを含めて男にかすかな好感を抱いている。「そこまではないよ。三十七度何分か、さっきは六分くらいだったけど」「うーん、やっぱり帰りますね。悪くなったらいけないですし」「いや、金魚を見ていくくらいはいいよ」すべて下心からの言葉で、唇から放られた後にうつしてしまうかもしれないということに思い至る。女は水槽の部屋にいて、男はしばらくその後ろ姿を眺めていたけれどやがてベッドに戻る。電気がついているのは台所だけで、ポンプの音だけがある。時々男が咳をするけれどその音も消えてしまう。氷嚢でも買ってきたほうがいいだろうかと思うけれど、声をかけづらくただ泳ぐ金魚を見ている。緑の水のなかを眠たげに漂っている。
 入居者は減り続けるが一階あたり十二部屋、五階建て五棟の部屋部屋の集積には多くの人間が住んでいる。蝟集する世帯同士は互いを知らないが、低学年の男子を従わせる年長の男児や、老人、独身女、近所の商業高校に通う子供を持つ家族、様々な人間が引っ越すか死ぬまでそこで暮らし続ける。個人間で知り合っているものはいるが、全員が知り合っている訳ではない、公園や階段、廊下、開かれた公団の塀の内側のすべての場所と閉じ込められた部屋は透視者がいる訳でもないので中で何がおこなわれているかを知れない。金魚を飼う男の欲望も、女の意地の悪さも、パブリックな場でおこなわれる個人的な営為のことも、すべて、知れ渡ることはない。疎の状態を保たれた集積は互いの責任を知ることはない。
 女がそうしているころ青木は家に帰り着きラップトップを開く、次女はまだ帰宅しておらず、三女はリビングにいる。女の家に行ったことなどはすでに書かれていた、昨日まで淫事が書かたあと続けられることのなかった小説が書き足される。女の部屋に入るまえに見かけた男、名前は川村というらしい、彼女は一度挨拶をしたことがあるだけだといっていた長身の痩せた男と小さな醜女の話新たに付け足されてゆくが、それがどこまで実際に起きたことなのか、青木は知る術をもたない。女は男とのことを一切、語ることはないだろう。すべての出来事は隠滅され、暴かれないままでいるだろう。