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120829(Wed) 12:42:50

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2章 金魚の尾

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 夢のような毎日があったろう、いつか時間により失われることだって女より歳を重ねた男は知っている。友人はおらず、実家のある紀伊半島を離れ小中学校や高校の友人と会うこともなくなった、神奈川の大学の近くへ寄りつくこともない。ただひとり暮らす男が偶然、もしくは導かれるように見つけた女だって、失われるものだと知っている。湿ったタイルをふみながらシャワーを浴び毒槽に浸かる、五十メートル八レーンのプールは水槽の比でないほど大きいが塩素が混じっているため魚は泳げないが、女の名前は鮎子といい、清流のなかにいる魚はいま塩素の水のなかにいる。全くの偶然で五月をすぎ蒸し暑くなったから泳ぎに来たというだけだった、市内在住の場合は三百円で入れる公民館に併設された市民プールは閑散としているというほどではないけれど、建設当時より人口が減り続け三列に並ぶ男子ロッカーの鍵はほとんどさされたままになっているし、体重などを気にして泳ぐのであったら商店街と反対の駅前にあるスイミングスクールへ行く者が多かった。スイミングスクールの建物自体も宮田が生まれる前からあり、上り電車に乗ると車窓から見ることができるが大分老朽化している。水浦市立河田小学校で水泳は人気の習い事で彼女も小学生のころ通っていたが高学年になるころには辞めていた。送り迎えは姉か母がしていて、母の場合は車で行き来をし、姉の場合は自転車だった。授業を終えたあと自販機のアイス(セブンティーン)を食べるのが好きだったけれど、辞めてからは食べることも少なくなっていた。女は二ヶ月に一度程度市民プールに来ることがあり、男は夏期、数度訪れることがある。一番奥のレーンではいずれも四十すぎと思われる女がウォーキングをしていて、手前のレーンのいくつかでは高校生と中学生のグループ、いずれも三人から四人が泳ぎ、時々上がる声が広く高い天井に反響している。女は手前から二番目のところでクロールをしている。また、消毒槽のあるプールの入り口からは見えないが左手には子供用のプールがあり、そこでも数人の小学生が遊んでいる。宮田はときどき男の金魚を見に行くことがあり、仲良くなる機会も多かった。青木も女の部屋を訪れ、川村と顔をあわせる機会も増える、彼女の人間関係はにわかに広がりを見せている。なので、男も女を見かけると近づいていった、ゴーグルをした顔が左右交互にあげられる、そのとき女の携帯には着信があったがロッカーのなかに入れられていて気づく訳もない、男の姿を認めると驚いたように足が止められる。百五十センチの深さで彼女は背伸びをしても頭の先しか出ないので立ち泳ぎで彼の顔をみている。「川村さんも泳ぎに来たんですか」「暇だったから」ふたりの声は多数の人間のいる開かれた場に大きく広がる。プールから上がった女の姿を男は見ている、セパレートの紺色の水着を着ていて、痩せた胴、太い脚をさらしている。「恥ずかしいのであまり見ないでくださいよ」「別に、いいじゃん」四ヶ月のあいだに男は女の裸体を何度も見たし、女も見た、そのことは五〇六号室の外にあふれることはなく、青木も知らないことだが彼女の小説には書かれている。透視者のいない公団のそとに住む青木だけが宮田と青木の関係を見透したようでいるのは全くの偶然かもしれないし、何らかの意図があるのかもしれない。「でも、ここは部屋の外ですし、それに、川村さんの部屋でも恥ずかしいものは恥ずかしいんですよ」そういいながらも女は男のからだを見ている、青い水泳着をきていて、白く痩せたからだがある。女はプールに飛び込み、監視員がそれを注意したが彼女は水のなかで聞こえることはない、水泡ののぼる音だけが聞こえている。
 夏至を目前にして六時前になっても日が暮れることはない、男は女を待ちながら市民プールの受付前にいる。元々は喫煙室だったらしいガラスで仕切られた小部屋は空調がきき、温水に熱を持ったからだが冷やされてゆく。窓の向こうには日光街道が走っていて自家用車やトラックが走っている。コカ・コーラの赤い木製のベンチにもたれてアクエリアスを飲んでいると女が現れた。「髪、濡れてるのってなんか恥ずかしいですね」「そうなの」「私だけかもしれないですけど……あっ、ここアイス売ってるんですね」女が通っていたスイミングスクールにおかれていたものと同じ自販機がある。「もう、レモン味のはないんですね。私、アイスってラクトアイスみたいのより氷っぽいのが好きなんですよ。川村さんもどうですか」「ああ、じゃあ食べようかな」日は未だ高い位置にあるが黄色っぽい光を部屋に投げかけている。疎らにプールから出てくる人たちはいるが、小さな休憩室に来るものはいない。年嵩の受付嬢以外に人のいないロビーは静かで、落ちてくるアイスの音が予想外に大きく響く、女は巨峰味を男はバニラソーダを選ぶ。「これって変な形ですよね。棒に穴が開いてるのも」「どうなんだろうね、どうやってつくってるか知らないけど、もうアイスになってるところに棒をさしてるのかな。そうだったら抵抗を少なくしてるんだと思うけど……穴あきの包丁みたいに」「へえ、そうなんですか……」並んで座るベンチのあいだにはふたりの荷物が置かれている、二台の自販機が低くうなり、ガラスで仕切られた休憩室を音でいっぱいにしている。「そういえば、川村さんってなんで金魚飼ってるんですか」「別に、たいした理由がある訳でもないけど。なんとなくだよ、なんとなく」「いつも、教えてくれないんですね」「公民館の前の道をずっといくとケイヨー(ホームセンター)があるでしょ、そこに行ったとき何となく飼いたいなって思ったんだよ」「他にも熱帯魚とかほら、なんでしたっけベタとかグッピーとか……あのディズニーの映画のやつとか、魚じゃなくても犬とか猫とか」「ペット禁止だし、グッピーってたしか熱帯魚じゃないし、熱帯魚はなんだろうあんまり馴染みがないっていうか……本当は大きい犬とかがよかったんだけどね」「魚にも大きいのいるじゃないですか、あれ、アロワナとか」「アロワナは、いいよ……」「えーおっきいじゃないですか」女と知りあってから四ヶ月がすぎた、男の生活は彼女の生活にいくらか重ねられるようになったけれど大きなところは変わっていない。六十センチの水槽がひとつ増え、同じように金魚がいれられた。ランチュウが泳ぎ、瘤のついた白と緋色の鱗と尾を他のどの金魚とも同じようになびかせている、水槽が増えても変わることがない。歳を重ねて、十年もたてば部屋は水槽でいっぱいになってしまうだろうか、それとも、もう金魚は飼っていないだろうか自分の夢の一部でも託すことのできるものを捨ててしまい、水槽を置いていた部屋はがらんとする。女もその頃には二十七だ、水浦市にはいないかも知れないし、男も、他の土地にいるかもしれない。未来のことは不確定で、考えてもきりがない、もしかしたらアロワナを飼っているような未来もあるけれどどちらにせよ、どんなに大きなものだっていつかは死ぬ、男は死んだアロワナを見ることになるのだ。同じように、女も男のところを離れてゆくのだろう。「大きくても、飼育が大変らしいし、そもそも水槽おけないかもしれないし」「へえ」「病気とか、かかりやすいんだって」男の動揺は抑えられていて、女が気づくことはない。そもそもこのふたりは互いに思いあっている訳でもない、関係をもてあそぶように、もしくは自分自身をもてあそぶようにしている。女は男のことが特段に好きな訳ではない、男のほうも好きではなく執着は少しあるがはなから手に入れられるものだとも思っていない。「そういえば、来週お祭りがあるんですよ」「ああ、市のやつだっけ」「そうですね、元々合併する前のなので区のかもしれないですけど。それで、私主役みたいなことするんですよ」「すごいね」「見に来てくださいね。市役所前の通りでやってるので」「ああ、たぶん行くよ」

 天気は崩れかけ、白と灰の雲が薄く空をおおっている、市役所前の通り(駅の反対に進むと公民館があり、さらにゆくと男が金魚を買うホームセンターがある)には人があふれ沿道には屋台が並んでいる。じゃがバター、たこ焼き、綿菓子、射的、焼きそば、フランクフルト、かき氷、闊歩する中学生や父に手を引かれる娘などがいる。車両は通行止めされ行き交う人々を背に男は金魚すくいをしている。青い一畳ほどの水槽に泳ぐ赤と白と黒の金魚にポイをのばすが紙は破れてしまう。的屋の男はもうやめたらというが男は何度でも金魚をすくおうとする。「あれ、川村さんじゃないですか」女の部屋に遊びに行くうち青木と川村も顔見知りになった。「金魚すくいしてるんですね。たくさんいるのに」「ああ、まあ……折角だからね。金魚すくいの金魚なんて本当に、すぐ死んじゃうんだけど」「へえ、そうなんですか。あっ、あとで宮ちゃんのお姉さんと弟もきますよ」「それが」「えーっ。川村さんって宮ちゃんと付きあってるんじゃないんですか。ご挨拶しましょうよー」青木の物語のなかではそうだ。「別に付きあってる訳じゃないって。部屋が近いから顔見知りになっただけで」やがて緋色の着物を着た女が現れる、道の遠くからお囃子を引き連れ柘植の簪を挿した頭をしている、白粉をぬられにきびや痘痕は隠されていてもあまり可愛いという風情ではなかった。隣には竹原が裃を着ている。「きれいですねー」鈴や鉦、太鼓を鳴らし髪を結い上げた姿がほんの少しのあいだ金魚すくいの前の川村と青木を見る。列はゆっくりと進んでゆく、追いかける人があつまり、中には県のテレビ局のカメラもいる。人に囲まれたなかに入っていく気はないのか青木は後ろのほうを歩き、川村も金魚の泳ぐ袋をいくつも片手に提げながらついて行く。簪の黒髪は生成っぽい色の和傘に半分隠され、緋色の首元と半分が覗いている。絢爛だけれどたいした感慨もなかったが、青木のほうはいたく感動したらしく、宮ちゃんすごいきれー、竹原先輩かっこいいですねーとしきりに、川村にむける訳でもなくいっている。列が市役所の広場に着き壇に登ると雨が降り始める。壇には屋根がついているが、雨ざらしの広場からは人がひき始め、通りの人影も少なくなる。「ああー降ってきちゃいましたねえ。どうします、りりはまだ見ていきますけど。一応折りたたみ傘あるんですけど、二人はいるとふたりとも濡れちゃいますね。どうしましょう」「一応見たしもう帰ろうかな。宮田もきたってわかってるみたいだし。それじゃあ」男が家に戻っていったあとも雨は降り続ける、早足にイベントは進んでゆき予定より早く終わる、宮田は庁舎の控え室に傘をさされながら戻ってゆき、青木は受付のところで待っている。祭の打ち上げが夕方頃からあるが宮田も竹原も辞退して三人で遊ぶことになっている。白粉をおとされた宮田と竹原が戻ってくると青木の隣に座っていた男女が立ち上がりふたりのほうへ歩いていった。会話の内容から女のきょうだいであることが青木にうかがい知れるけれど会話の輪には入りづらく、何となく待ちぼうけながらメールを打っている。「ごめん、待たせたね」姉の葉子と弟の鴎は青木に会釈をして庁舎を出てゆく。「なんか、邪魔しちゃったみたいだね」「いいよ。もともとそんなに仲がいい訳でもないし」「お姉さんだったら妹とか可愛いだろうし、弟だったらくっつきたがるものだと思うけどなー」「まあ、りりの家はそうでもうちは違うかな」「竹原先輩ってきょうだいとかいないんですか」「俺は一人っ子だよ」「へええー。なんか、寂しくないですか」「いたことがないからわからないって」ほとんど夏至で、雲に覆われていてもあたりはまだ暗くならない、沿道に並んでいた屋台は店じまいを始めていて、庁舎前の駐車場では市内の和太鼓サークルが演奏をしている。「太鼓の音って花火みたいですよね、こう、音がぶつかってくるっていうか」「雨降ってるね……、りりは傘あるんだっけ。竹原さんは、もってないですよね」雨脚は強くなることも弱くなることもなく、小雨がぱらつき走ってゆけばずぶ濡れになることもない。ひとり暮らしということで宮田の家で小規模な打ち上げがされることになっている、女も、竹原も押しつけられた役で祭の宴会に行く気にはなれなかった。かすかに汗ばみながら三人の影が市役所脇の小道に消えてゆく、「りり、傘あるからコンビニ行って適当に買ってくるね」「うん、じゃあ、先行ってるから。竹原さん、何か欲しいものってあります」「特に、ないかな。ああ、でも、炭酸飲めないからお茶か何か買っておいてくれると嬉しいな」「へえ、意外なんですね。りりもだめなんですよ。でもお茶もあんまり好きじゃなくって……ほとんど水かコーヒーかくらいしか飲めないんです」女と竹原は左に折れ、青木は右の商店街のほうへゆく。途中には市立図書館があり、何人かの傘をさしたひとが行き交う、青木の後ろを宮田と竹原が手をつないで駆けてゆく。
 打ち上げも遅くならないうちに終わり、電車で来た青木は歩きで帰ってゆく。コンビニ袋を下げた男とすれ違う。「あら川村さん」「打ち上げは終わったの」「もう終わりましたけど。でも、まだ竹原先輩がのこってますよ。宮ちゃんちいくならもう少し後のほうがいいかもしれません。ああでも、竹原先輩泊まっていくかもしれませんね」「別に行かないよ」「そうなんですか。残念」「残念って」「残念っていうか、宮ちゃんと付きあってると思ってたのに」「昼もいってたけど違うってば」「川村さんのしゃべり方ってなんかりりたちみたいですね、若いっていうか」「あんまり大人っぽいとは思わないけど」「だから、宮ちゃんと付きあったらいいのになーって思うんです。なんか、漫画みたいじゃないですか、うだつの上がらない二十代の社会人のひとと近くに住んでる高校生くらいの子が付きあってるって。りりにもそういう人がいたらいいのになーって思うんですけどねえ、いないんですもん。それにそんな度胸もないですし、宮ちゃんのほうがそうかな、りりってぇ、高校はいってから宮ちゃんくらいしか友達がいなくて、どういう風に人と接したらいいのかわかんないんですよ。川村さんとかはりりと同じような感じなのかなって思うけど、でも男の人ってなんか少し苦手ですし、だから、そういう人たちがいるっていうのが身近にあって眺められたら楽しいかなーとか思うんです」「それは青木さんの勝手でしょう。歳だって十とはいわないけど離れてるし、それにそんな気起きないよ」「へえ……宮ちゃんがあんまり可愛くないからですか」「そういうのじゃなくって、ただ何となく付きあうとか付きあわないとかよくわからないし」「ふーん、そうなんですか……まありりもあんまりはわからないですけど。本当は高校生になったらもっと友達と遊んだりとか付きあったりーとか恋愛とかあると思ってたんですけど、ああ、ちゃんと友達がいたら人が怖いとかならなかったのかなあ」「友達いないんだ……」「そうですよお、宮ちゃんと、ときどき竹原先輩と。それくらいですよ。本当に、去年くらい、去年度? までは華のJKとかいってたんですけど、やっぱり無理ですよ。やっぱりというか、無理になっちゃって……人と喋らなくなるとしゃべりかたがわからなくなっちゃうんですね。でも、宮ちゃん学校辞めちゃいそうなんですよね」「えっ……そうなの」「白々しいですよお。だって、学校行ってないの知ってるじゃないですか」「知らないって」「生活音とかわからないんですか」「宮田、ほとんど音立てないから気がつかないよ」「そんなもんなんですか」「青木さんは一軒家なの」「マンションですよ」「じゃあ、わかるでしょ」「うーん、公団よりは壁も床も厚いので。なんか、りり失礼なことばっかりいってるような気がしますね」「まあ、失礼だよね青木さんは」「でも、宮ちゃんいなくなったらりりも学校行けなくなっちゃいますよ」「はいはい。じゃあ適当にいっておくから。もう帰りな」「お願いします。あっ、やっぱり宮ちゃんちいくんですね」「そういわれたら行くでしょ、普通」「うーん、やっぱり宮ちゃんと付きあったらいいのに」「何でそんなこと思うんだか……」「ほら、そういう人が身近にいるって思うと希望があるっていうか、何でしょう、希望というか……ヒモになりたいっていうか。ヒモっていうと違いますね、養われたい願望?」「養わないよ。金魚飼ってるだけで十分」「鮎子ちゃんだっていいのに……でも、りりも学校辞めちゃうかもしれないですし。なんか、りりみたいのが? 宮ちゃんと仲良くしてちゃいけないっていうか……いいづらいんですが端的にいうといじめられてるというか……いじめられてます。親とかにはいえないですし、川村さんにしかいえませんが。そうですね、後ろ盾が欲しいです。同じ建物の中に住んでる冴えない仲のいい年上の男の人がいて、頼ってみたり甘えてみたりっていうか。学校辞めても受け入れてくれる場所があってくれるような希望が欲しいんです」「あと一年半だよ」「十分ながいですって」「僕だってそんなこといわれても困るよ。できることなんてないですし」「宮ちゃんと付きあってくれればいいんですって、竹原先輩じゃなくって、高校生じゃない大人の人と。ほんと、帰りますね。じゃあ」男をおいて青木は帰ってゆく。放言の連続に男はぐったりとした気分で公園のベンチにもたれて煙草に火をつける。付きあっている訳ではないし、深く知りあっている訳でもない、古い建物といっても階下の物音がいつでも聞こえてくる訳でもない、セックスしたこともあるけれど深く知りあっている訳でもない。宮田の部屋にはまだ竹原君がいるだろうと思い、帰る気も起きないでいる。男にとって女がどんなものであるかは定まっておらず、未だ階段の隅で淫事にふけるようなやつで金魚を見に来るよくわからないやつくらいにしか思っていない、何度目かに金魚を見に来た日、座椅子でテレビを見ていたら押し倒された日のことを思い出している。知りあった最初がそうであったし、男のひとり暮らしの部屋に上がってくることから了解も期待もしていた。一緒にいるあいだも積極的に喋る訳でもなく、話す内容は魚のことや、学校のこともあるけれどそれは青木と竹原を中心に断片的に語られるだけで、ろくに知りもしなかった、余計なことをきかされてしまったと思っている。三本も火をつけると竹原が公園の前を通りすぎてゆく、男は部屋に逃げ帰り受けた相談のことも忘れて眠るだろうが、それでも明日には、明後日には顔をあわせてその話をすることになるかもしれない。宮田は男にあまり生活的な面を話さないし、男のほうでも同じだ。友達がいなさそうなことは知っていたけれど、いじめられていることなんて知りもしなかった、おそらく眠るまえだってそうだしそのうち罪悪感に耐えきれなくなって訊き出すのだろう。男はけれど、どうやって訊くのか、最近どうしてるの学校でいじめられたりなんてしてない、なんて白々しいことをいうくらいなら目をつむっているほうがましだと思っている。
 五階までの集合住宅にエレベータの設置義務はなく、階段を上る。内覧にきたときはすぐに慣れるだろうと思ったけれどなかなか慣れることはなかった。コンビニへ行く程度なら鍵をしめることもない。部屋に入ると風呂場のバケツの金魚をのぞき込んでいる宮田もいる。「おかえりなさい」「勝手に上がらないでよ」「すみません……金魚すくいの金魚ですか」「そうだよ」「見に来てくれてありがとうございます。本番になったら度胸とかでるとおもってたんですけど、だめですね、人前に立つのとか怖いですし私って可愛くないですし、それなのにこんなことさせられちゃって、でも川村さんが見に来てくれて嬉しかったんです、怖いのとかもなくなって」「なにそれ」「うーん、そういうことをいってみたかっただけです。本当はぜんぜんだめでした。竹原さんもいましたけど、やっぱり、だめですね。そういえば、先週のアロワナ。どうでしょうか、なかなかいいアイデアだと思うんですけど。ネットで写真とか見てたら鱗とか大きくってなんか可愛いですよね、細長いですし」「細長いのが可愛いってこと」「そうじゃなくって、うーんでもなんか不気味可愛いっていうか」「というか、そこ見づらくないの」台所の電気はついておらず、男の立っている場所からは居間の明かりが反射してバケツの中は見えない。「明日も、仕事ですか」「そりゃあ……月曜日だから」「今日、泊まっていってもいいですか」「そんな……すぐ下の階なんだから帰れるでしょう」「そういう気分じゃないんです、時々、あるじゃないですか。無性に人と居たいってなったりとか」「あんまり、ないかな」「嘘ですよ、そんなの」
 おそらくこの公団のどの部屋部屋でも、また他の団地でも家々でも繰り返されている。宮田と川村の関係だってありふれている訳ではないけれど少ない訳でもない、意志の弱く流されやすい男と、同じように流されやすい女がいて、近くに住んでいてきっかけがあったから仲良くなったというだけの話で、彼が年上で、彼女が未だ女子高校生だからといって特別なんてものはない。女は泣き出して男に手を引かれる。可愛くない、十人並みにもならない醜女が泣き慰められる。可愛くなくても、近づき触れていると愛着のようなものが湧き慰めるけれどそのうちに性欲もついてくる、いやらしいと思いつつも流されやすく髪を撫でていた手が頬へ、耳へと彷徨し唇に触れる。宮田はこういったとき悔しさを覚える、可愛くないことを自覚し、それなのに可愛がられていることがたまらなく嫌なのだ。指は小鼻からすべりおり上唇の輪郭を撫でる、薄い口の中へ差し出され、諦めたように舌を絡めている。男だって後悔にかわることを知っているし女だってわかっている、なし崩しの関係だけがあり、愛はあるかもしれないけれど恋はなく、互助的な関係にある。男の不能や女の生活の困難はたいしたものでなく、同じようにありふれたものだけれど当人たちにとっては耐えがたく、癒やせる相手がいることに安堵している。女は今日彼の家に泊まっていくだろう、祭の衣装の華々しさもなくなり、ジーパンにシャツの日常の姿があり、部屋から一歩でたら全くの匿名の姿だけれど、この部屋のなかでだけは男に認められ、安心を得ることができる。十二行かける五列が五棟、三百の個室のうち電気のともっている家は少ない、また明かりが消え、匿名の手が女のからだを覆う。「ねえ川村さん、来年の冬もまだ、ここにいますか」蛇足の言葉は消されてしまう、彼彼女が街灯の明かりしかない部屋にいるころ、青木は明かりの煌々とたかれた部屋にいる。妹は自分用のパソコンを買い与えられ、ひとり部屋にこもっている。青木も妹が寝たあとでひとりラップトップに向かっている。書きかけで放置されたファイルは増え続け、しかし着実に物語の終わりに向けて漸近している。多くの情報を与えられ、豊かになる物語がある。重さを増し、身動きが取りづらくなり、可能性は収束、形は定まりつつある。宮田と川村の素性について知ったことが多くある、ふたりの行動は制限され、ひとつの可能性を選択する。そこに青木の意思はなくなりつつある。

2

 天使の羽がひと振りされ地上に祝福が施されるように緑色の水槽では金魚の尾が揺れている。畳敷きの部屋の隅は重さにたわみ茶色い藺草のうえには人間がふたり寝転がっている。乱れた服はそのままに、夏を目前にした気温のなかでまどろんでいる、夜明けを少しすぎたところで輪郭のぼけた日差しは奥の、ベランダに接続する部屋では窓際にわだかまり、南東を向いた水槽の部屋の窓からはふたりの眠る姿に差しこんでいる。目を覚ますのは男で、女を揺り起こす。朝の光景があり、調理のできない部屋を抜け出しふたりはひとつ下の部屋に移動する。学校へ行く時間になっても女は支度をしない、男は朝食をとると仕事へでる。夜半、眠るまえにいくつもの話をした、そこには女の生活のすべてがなく、話題の中心は魚のことやその他の動物のこと、もしくは人間ではないもののことだった。アロワナの話やアイベックスの話、公団やビル群の話だった。有蹄類の蹄や角、毛皮のある人間の話で、そのような生き物に女がかわってしまったらどうするのかというとりとめのない話だった。毛皮を着ていても服を着るのだろうか、着たら暑いだろう、靴はどうするのか、蹄の手ではものがつかめない、そうしたら生きていくこともできないだろう。人間の社会は人間用に設計されていて、人間でない生物が人間のように生きるものは提供されていない。靴がなければ硬い舗道を歩けず、発達する指がなければペンを握ることもキーボードを叩くことも、箸やスプーンを握ることもできない。あらゆる生活の些事ができなくなり社会の中に入ってゆくことができなくなるという話だった。そうしたとき、川村さんは助けてくれますかと訊かれ、男は言葉の端に青木からきいたことを重ね合わせていた。男は年嵩で金もあり女の手の届かない遠いところまでゆくことができる、女には未だ学校が生活のほとんどを占めていて、そこからいなくなってしまえば受け入れてもらえるところはない、けれど男は金を持っている限りどこへでもゆくことができる。そのことを女は知らない、いつまでたっても学校があり続け、そこの生活が続いていくような気が、そんなことはないとわかっていても、している。だから、人間のようなものでも受け入れてもらえるところへいくといいよといったのだけれど女には理解しなかった。元々そんな深いつきあいがある訳ではないといい聞かせているのと、彼のほうも学校があまり好きでなかったことから彼女が学校へ行く素振りを見せないことに口を出すことはない。知りたくなかったこととはいえ宮田のことは気がかりであり、口を出そうかと思いつつも部屋を出て駅へ向かう。小雨が降りだし傘をさす。夏は近づき続け、夏が終われば台風の季節がくるだろう。空気が熱をもち膨張する、体温の奪われたからだが街を彷徨する季節がくる。今日は気温が上がり、雨もあいまって湿度も上がる、女は備え付けのききの悪い冷房をつけて室内にいる。男に触れたからだを入念にシャワーで洗い、何も身につけていない姿で戻ってくる、温水に上げられた体温がわずかに汗を吹かせている。十時をすぎて、メールの着信がある。青木からで今日はさぼってごめんねとのことだった、私も休んでいるからいいよと短いリプライをして二つ折りの緑色の携帯はとじられる、素肌に灰色のパーカーを羽織り洗濯物を干す、制服のブラウスや体操着、寝間着や数少ない普段着、下着類が鴨居に掛けられ、銀色に光る空では雲が渦を巻いている。風にあおられる雨粒が網戸で周期的なかすかな音を立てている、シーツの掛けられていない布団に寝転がったからだが空ろに携帯をいじっている、いくところもなく、やることもない。青木や竹原は友人かもしれないけれど、川村以外に接することのできる人間はいないと女は思っている。醜い容姿や心根、きちんと学校へ行くことのできない精神が奇形の有蹄類のように社会のソケットにはまることができないと思わせている。学校の最寄り駅のマクドナルドに青木はいるらしい、きっと制服を着ていて、同じように学校へ行く気の起きないひとりぽっちの少年少女のようにうなだれながらSサイズのコーヒーや炭酸を飲んでいるのだろうと想像している。断続的にメールのやりとりが続く、未だ友達のようなものと思っている彼女であってもすがろうとしている、友達でなければ互助的な関係であるふたりはやはり学校に溶け込めず、かといってそのほかの場所があることに気づかない。長くもどかしい時間を待ち続け、小雨のなか自転車にまたがった青木がゆっくりとしたスピードで水浦公団を目指す。退屈があり、寝転がる姿は着るものがないためパーカー一枚から制服姿にかわっている、まどろむような時間で、何度も携帯を開く。やがてインターホンが鳴らされる。
「どうしたの制服なんて着て」
「うん……着るものがなかったから。りりはずぶ濡れだね」
「あはは。見た感じだけだよ。髪とか制服とか、濡れてるけど中まではそんなにだし」
 赤い髪の毛を白くて丸い頬に張り付かせて笑っている。伝う雨水がととのえられた眉から睫毛へ、瞬きする。「入ってよ」雨は少しずつ強さを増し白かった雲に灰と黒が混じり銀色のまだらになる、小さな雨粒で降り続け、公団は水底に沈んでしまいそうな気がする。夏の夕立や初秋の台風のようではなく、窒息しそうな雨が続きそうで、空の端まで続くながい雲が霖雨になり湿った空気を肺いっぱいにしそうな気がしてならない。街が水没したら金魚らは水槽を離れて公団じゅうを泳ぐ、灰色の棟とみすぼらしい芝や植木のなかを赤に白、黒に金の魚が尾を揺らして泳ぐ。そういうところを想像するけれど青木が部屋に入り、鉄扉がとじられると何も見えなくなって妄想はおわりになる。「タオル、もってくるね」浴室に窓はないし、脱衣所を兼ねた洗面所にもない、電気もつけず暗くて、だけどどこに何がおいてあるかはわかっているから洗濯機のとなりの棚に積んだタオルをとって青木に渡す。濡れた顔や髪をぬぐいながら脱いだジャケットをハンガーに掛けている。スカートの前面は濡れて黒くなっているけれど、後ろから見ると乾燥している。靴下も脱いで、一緒にかけてある。
「なんか、意外と濡れちゃってた」
「そうだね……何か着る? ろくなのないけど」
「ううん。いいよ。というか、宮ちゃんのたぶん入らないし」女の身長は一四四センチしかなく、青木のほうは一六八センチある。
「大きくなりたいね」
「宮ちゃんはそのままでいいんだよお」
 間延びした会話がある、ふたりとも休んだ理由は知っているので尋ねることはしない。
「あーあ。鞄の中濡れてないかな」紺色のスクールバッグの片側は雨ざらしになり制服と同じように黒くなっている。開けられた鞄の中身は少なく、二冊のノートと手帳、筆いれ、iPod、読みさしの近所の書店のカバーの掛けられた文庫、体操着が入っている。教科書はすべて学校のロッカーで、定期試験のときにしか持ち帰られない。「あー、ノートちょっと濡れちゃった」「学校の?」「ううん。メモ帳みたいなやつ」「ふーん」「まえ、っていうかかなり前だけど文芸部にはいったらっていってくれたじゃん」「うん」「それで、はいらなかったけどなんとなく小説とか書いてみようかなーっておもってちょっとずつ書いてるの。書くのは家のパソコンだけど、外にいるときメモつけたり、思いついたのとかを書いてみたりして」「へえ……どんなの書いてるの」「えっ、うーん。秘密っ」生成色の地に明度違いでひかれた花の飾り罫が刷られたリングノートは鞄にしまわれる。「濡れちゃうよ」「恥ずかしいからいいの」「ドライヤーもってくるから鞄乾かしなよ」「ありがとー」公団と学校のあいだにあるドンキホーテで買ったドライヤーは安物なりによくもっているけれど壊れかけでときどき青白い放電を瞬かせたりする。居間に戻ると青木は制服を脱ぎかけていた。「ああごめん。体操着あったから着替えようと思って」「いいけど……」女が背を向け、寝室のほうを見ながら会話は続く。「本当は今日学校行くつもりだったんだけどね。体操着なんかもってるし」窓の向こうではまだずっと雨が降り続け、きっと明日もこの調子で降り続けるだろうと想像している。雨が降る日は自転車ではなく、電車とバスで通うことにしている。同じようにしている人は多く、混雑して濡れた制服や髪から蒸発した湿気が狭いバスに充満して息苦しくなる。「でもなんか、いきたくなくなっちゃったんだ。ほらなんていうか、あるでしょ、学校に近づくと気が重くなるっていうか胃が痛くなるっていうか……で、なんかサボってたんだけど、ごめんね」「えっ、なにが」「いや、宮ちゃんひとりで教室にいたら嫌だろうなあってマックにいるときずっと思ってて」「うん……私も」「いいよ。結局りりも宮ちゃんも休んじゃってたんだし」「明日は、いくの」「うーん。どうしようかな。宮ちゃんいかないならいかないし、いくならいくけど……行きたくはないなあ……」「うん……」青木は体操着に着替えている。素足がフローリングに重たく投げ出されている。「あーあ、りりたち何も悪いことしてないのになんでこんなんなっちゃったんだろ。だってえ、別に、ねえ。煙草とかすってる訳じゃないし、お酒ものまないし、夜中遊んだりもしてないし、普通なのに」「なんでだろうね、本当」「いまから不良になっちゃおうかな」「やめなよ」「そうだねえ……」十一時すぎで、学校に行っていたら今頃三限の授業をやっているころだろう、体育の授業で、雨の日なのでバトミントンか卓球をやるのだろう。「宮ちゃん、家なのに、学校行ってないのに制服着てて変」「りりのほうが変でしょ、家なのに体操着着て」「うーん。そうかも」雨はやまないけれど窓に阻まれて音は聞こえてこない。「宮ちゃんは優しいねえ」「今更、蒸し返さないでよ」「うーん、でも、あんなことしたのに一緒にいてくれて」「だって……、他に一緒にいてくれる人なんていないから」「ひどぉい」女は電灯の明かりが苦手で、夜に本を読んだり手元で何かをしたりするときにしかつけない。窓を背に退屈そうにしている青木や向きあった宮田は朝、陽が昇るまえの、物に色のついてない時間のような薄暗さのなかにある。「ねえ不良ごっこしようよ。お酒のんだりとか」「するならりり行ってきてよ。私、制服しかいま服ないから」「えーひとりだと行きづらいし。っていうかりりも体操着しかないし」「じゃあやめとこうよ」「残念……そういえばさ、川村さんと付きあってるの」「えっ、そんな訳ないじゃん」「川村さんもそういってた。昨日、帰るときすれ違ったんんだ」「変なこといってないよね」「変なことって」「変なことは変なことだよ」「たとえば?」「私のこととか、学校のこととか」「あんまりいってないよ」「あんまりって……なにいったの」「えっ、うーん……なんだっけ、もう忘れちゃった」「そんなことより宮ちゃんは川村さんと変なことしてないの」「だから、してないってば。やめてよ……」女も青木も嘘ばかり重ねる。「りりにはそういう人いないの。ほら、竹原さんとか」「えー……だって、高校生だよ。だめだよそんなの。もっと大人な人がいい」「川村さんだって大人って感じじゃないと思うけど」「うーん、でも、年上じゃん。年上のほうがいいよ」「ふーん。なんで」「えっ、だって、男のひとっていうか男の子ってばかだし乱暴だし、高校生なんてそんなもんじゃん。もっと分別ある大人のひと、っていうのがいいな。」「へえ……経験あるんだ」「一般論だよ。一般論。まあ、中学生のときはそうだったけど」「大人だね」「宮ちゃんはないの、そういう話」「えっ、だって。私って可愛くないし、それなのに男のひとと付きあうとかおこがましいっていうか、もう、そういうのはいいよ。怖いし、向いてないと思うし……」「宮ちゃんって卑屈」「だって……」「いいじゃん、宮ちゃんは宮ちゃんなんだからさあ、別に男のひとのために可愛くなる訳じゃないんだし、それに可愛くない可愛くないっていってたら本当に可愛くなくなっちゃうよ」「でも、本当のことだし」「宮ちゃんは、可愛いよ。可愛くなかったらあんなことしないし」「嘘、だよ」「嘘だと思うなら、またしてみる」「ううん……」「怖い?」「うん。怖い」仕切られた小部屋のなかは透視者でもない限りやっぱり覗かれることはない、宮田の部屋を訪れる青木のように、許された者しか内側を見ることはできない。「りりも怖いかも」「じゃあ、やめようよ」身を乗り出した女の肩に青木の手がのせられる。「ねえ、なにこれ。こんなのやめようってば」「不良ごっこだよ。不純同性交遊」澱をためていくようだと女は思う、川村や青木に触れられいいようにされてゆく、そのことは誰にも知らせることはできなくて、川村との関係を青木に、青木のと関係を川村に伝えることはできない。誰にもいうことのできないことが溜まり、このままではいつか沈んでしまいそうだ。「ごっこじゃないし、抵抗とか、できないし、やめてよ」「どうして」「なんか、しちゃいけないような気がするから。でも、本当は怖いんだよ。こういうの、やだよ」「怖いって、どんなことが」「だって、抵抗したら嫌われちゃいそうな気がするし、そうじゃなくっても、私のもってるものってからだだけしかないんだよ。ほら、みてよ、部屋とか空っぽだし、りりが思っている以上に私のなかは荒涼としているんだ。何もない空っぽの可愛くないからだだけがあって、それもあげられなかったら、私って何の価値もないよ」「いいんだよ。りりは宮ちゃんだからいいと思うんだし」「それって、私しかいないからじゃないの。ねえ、痛いよ」押し倒された痩せぎすのからだが床に転がされる。見おろす青木の赤毛が垂れ下がる。「それでも、いいじゃん。それに、宮ちゃんだってあげられるものはあるよ。空っぽだったとしても、宮ちゃんがいるっていうのがあるんだから、宮ちゃんとりりがいて、中は空っぽでも関係、みたいのがあるじゃない」「そんなの、本当じゃないよ。私じゃなくてもいいなんて、私と他の人を取り替えてもいいなら、関係だって本当じゃない」「本当だよ」ブラウスとベストのボタンがはずされてゆく、うつむいた顔の前髪の合間に二重のまぶただとか長い睫毛だとかが見えている。ひんやりとした床に横たわり、言葉を交わしているうちに温まり、生ぬるい温度に手のひらが触れている。「本当に抵抗しないんだね。りりがいなくなっても、宮ちゃんには、川村さんがいるでしょう」「だから、違うって」「別に、いいけど。でも、りりよりは川村さんのほうがいいでしょう。りりは女で川村さんは男で、男のひとのほうが普通だし」「普通とか普通とかじゃなくって、くすぐったいってば」宮田の腹に頬ずりをして舌を這わせる青木がいる、「あーあ、学校だったらおもしろかったかもね。なんか、青春っぽいっていうか」「何が」「ほら、制服と体操着で。りり、見たことあるよ。そういうことしてる人。放課後とか、一度だけだけど、怖くてすぐ逃げちゃったけど」「怖いなら、やめようよ」「今からやめちゃうの」「うん……」「夢みたいだよね」「何が」「こういうことって。なんか、夢みたいっていうか、ふわふわしてる」雨は強さを増して窓に水あとをつけている。女は水滴が重力に引きずられてゆく様を眺める、いくつもの水滴がぶつかりひとつになり重たく伝う。「宮ちゃんはこういうこと考えないの」「どういうことよ」「こういう、いやらしいこととか」「時々は、考えない訳じゃないけど」「そういうときってどうしてるの」「それって答えなくちゃいけないの」「ううん。ただ、訊いてるだけだから。なんか、最近宮ちゃんのことよくわからないんだ。最初のころはたくさんいろいろなことを知って想像できるような気がしたんだけど、いつの間にか知らないことのほうがまた増えてきたんだ」「そんなの知ってどうするの」「どうって、好きだからただ知りたいだけだよ」「だけど、教えられないよ。そんなの、恥ずかしいし」「りりのこと嫌い」「嫌いじゃないけど、こういうことする好きじゃない」「嫌われちゃうかな」「わかんないよ……終わってしばらくしないと、整理したあとじゃないと」行為はすすまず、距離や大きさ、色合いを量るように会話がされる。「そっか、りりはそういうこと考えるよ。うん……宮ちゃんのこととか考えてみたりして」「そんなこと思ってもいわないでよ。怖いってば……」「でも、知って欲しいし、知りたいんだ。それに、宮ちゃんってば抵抗しないから、どこまでがいいのかわからないんだ。ねえ、りりのことどこまで受け入れてくれるの、りり、自分じゃそんなのわからないよ。考えて自分で線をひいても、いつの間にか宮ちゃんの触れられたくないところに身を乗り出してるような気がして怖いんだ」「そんなの、自分で考えて。私に訊いても意味ないよ……」「でも、怖いの。川村さんのこととか訊くとき、本当に訊いていいのかわからないし、もし、付きあってたらどうしようって思うんだ。もし、りりがわかってないだけで宮ちゃんのいうとおり、りりには宮ちゃんしかいないから好きになったとしても、それでも好きなんだ。好きで、どうしたらいいかわからないし、嫌われるのは怖いのにしたいことがあってやめられない」「したいことってこういうことなの」「こういうのもあるけど、他にもあるんだよ。ただ何となくお話ししてるのも、授業さぼって体育館の裏で時間潰したりとか、指と指を重ねてるところを見るのとか、階段を上る後ろ姿とか」「そんなの、わかんないよ。だって、変なことするだけじゃないの、こういう付きあってるみたいな関係って」「ほかにもたぶん、たくさんあるよ」いつの間にか手はとまり、横たわる女の腹に頬をつけ寝ている。「そんな簡単じゃないなら、私わからない。りりが何をしたいのか、川村さんが私のことどうしたいのとか、全部、わかんない」「やっぱり、川村さんとそうなんだ」「……うん。でも、ほんの時々だけだよ。川村さん、金魚飼ってるんだ」「知ってるよ」「それで、時々みせてもらいにいって、そのまた時々にそういうことはするけど、わかんないよ」「ふうん……どうしてそんなことするの」「わかんないけど、りりと同じだよたぶん。そういうことしたくなって、考えたりして、本当にしたいのかよくわからないけど川村さんの家にいって、そういう感じになったらするし、ならなかったらしないし……自分でどうしたらいいのかわからないから決めてもらってるの。川村さんがその気になったら私もしたいときだって」「そんなの、ききたくなかった。ひどい……」「えっ、ちょっと。泣かないでよ」「宮ちゃんって本当いじわるだし、性格悪い」「うん……」「そんなの、ききたくないっていったのにいっちゃうし、自分で決められないからってひとに決めてもらったりして、そんなのだめだよ」「わかってるけど、どうしたらいいのかわかんないし……」「ねえ、川村さんと知りあうまえってどうしてたの。そういう気分のとき」「それ、ききたいの」「ききたくない」「えっと……そういうときって大抵いやなことがあったときだから、いやなことのあったときの帰りに、家のなかだとしたくないから、階段とかでしてたんだ……えっと、なるべく人に見られないところで、家のなかですると、そういうことをした場所って思っちゃいそうで。五階の、川村さんの部屋に行くときに使う階段なんだけど、だから、階段のぼってるとときどきそういうこと思うし……それで、りりとちゃんと知りあうまえに、川村さんに見つかっちゃって、それで、知り合いになって……それからはあんまりひとりでしたこととかないし、考えることもあんまり具体的じゃないしぼんやりそういう気分なのかもって思うだけっていうか」見えない手が雰囲気を決定しているかのように女の口から言葉がこぼれる。「そんなの、ききたくないっていったじゃん……」「うん、でも。りり、なんとなく傷つけてもらいたそうだったから」「だからって、ほっといてよ……ねえ、ずっとそうなの。冬ぐらいからだよね。ずっと、嘘だったの」「だって、りりに嫌われちゃうかもって思ったから」「じゃあ、ずっと秘密にしたままでいてよ」「だって、私だってつらかったんだもん。川村さんのこととか、だれにもいえなくて、ずっと飲みこんだままでいてひとにはなしたら楽になるかもって」「もう、いいよぉ……」「ねえ、川村さんの話していい」

 雨は未だ降り、夕方になってもかわらない。雨雲に隠された太陽は弱々しく光を伝え、晴れていたらまだ明るい時間であっても部屋は暗く沈んでいる。青木も泣きやみ、女は適当な昼食をつくり、ふたりで食べた。学校にいっていることになっている青木は帰ることもできず、学校が終わる時間までを女の家で潰していたけれど、なかなか帰ろうとせず夕方になっている。川村のこと、金魚を飼っていてどういう生活をしている、他の魚は飼わないのかという会話をしたり、アロワナを飼うことを提案すると露骨に嫌な顔をするなどの話を聞かされると彼女はまた泣き出しそうになるけれどその度女はなおざりに頭を撫でたり手を握ったりして泣きやませる。その度青木は宮田の気持ちがどこへ向いているのか、自分のことを好いていてくれているのか、それとも本当に川村と付きあっているのか困惑する。また、宮田と川村が付きあっていたらよかった、それは自作の小説のなかでも、川村に話したことでも思っていたはずなのに、向きあってみれば自分は彼女のことが好きで、どうしたかったのか、本当は好きだったけれど自分は女だからという気後れがあり当てつけのように付きあったらいいといっていたのかと混乱している。
「夕ご飯食べていくの」
「つくってくれるなら」
「じゃあ、つくるね」
「宮ちゃんはやさしいね。やさしいけどひどいよ」
「うん。性格悪いから」
「わかってても直す気なんてないんでしょ。自分で性格悪いっていって、許してもらおうと思ってるんだ」
「そうかも」
「そういえば、家でご飯用意されてないの」
「たぶん、されてるけど」
「じゃあ、帰ったほうがいいよ」
「二回食べるからいい」
 台所に向かう女、居間でテレビを見ながら背中を追っている青木がいる。鞄からノートを取りだし読みもしないでめくってゆく。書き連ねられた物語が本当のことになってしまったようで気持ち悪さを覚える、ただの遊びで、だけれど、昨日川村にいったことは本当だった。あと一年と半分以上がのこっていて、それなのに学校に通い続けるなんて到底無理なような気がしてならない、自分もそうで、きっと、宮ちゃんもそうだろうと思っている。そうして、辞めてしまって、そうしたらどうするのか。りりが辞めたら宮ちゃんもやめるだろう、宮ちゃんが辞めたら、りりも辞めると思っている。茫漠とした時間があって、再来年の四月まで、なんて無理だ。そうしたとき、生きていける人がいる、宮ちゃんみたいに川村さんのようなひとがいて、生活をしていくことができる。そういう生活があることだけが希望で、もし、自分も辞めてしまったらどうするのだろう、両親と妹の住む家で何もしないで一日を過ごして、きっと怒られたり働けといわれることもあるだろうし、もしかしたら学校を辞めさせてもらえないかもしれない。宮乃にはきっと白い目で見られる、夏紀は優しいからやさしくしてくれるかもしれない、宮乃だって本当に嫌っている訳じゃないから時々はやさしくしてくれるかもしれないけれど、その先は、宮ちゃんだっていつかは同じだけれど、いつかは自分でどうにかしなくてはいけない。それまでの数年の猶予を、楽しげな生活を送ってすごすこと、自分がそうでなくてもそういうものがあるってことが何よりも癒やしで、そう思っていうことだけは本当だ。そのためには自分が手を引かないといけない、けれど、どうして宮ちゃんが好きなのかというとやっぱり、距離が近いから友達だと思っていたものがいつの間にか変質してしまったんだって思う、どうしていいのかわからず、本当だとはいったけれどもしかしたら嘘かもしれない気持ちを抱えている。
「ねえ宮ちゃん」
「なに」
「別に、何でもないけど。川村さんのこと好きなの」
「どうだろ。わかんない。何となくそうなっちゃっただけだし。そういう風になったのも、出会いかたがそうだったからでそうじゃなかったらそうならなかったかもしれないし。もしかしたら時間がすぎてくうちにそうなったかもしれないけど」
「そう、とかぼかしたいいかたするんだね」
「うん……だって、いいづらいし。こんなことになるはずじゃなかったんだけどね。やっぱり、男のひとって怖いし、やだなって思う」
「ふぅん。嫌なんだ……女でも同じなの」
「男のひとよりはいいかなってぐらいだよ」
「じゃあ、りりのこと好き?」
「りりって、ときどきそういうこというよね。なんていうか、かまってほしがりっていうか」
「うん。だって、人間ってひとのあいだって書くじゃん。関係みたいのって大事だと思うし、かまってもらって認めてもらったり、りりが宮ちゃんのこと知りたいって思うのも、知って欲しいって思うのもそうだからだと思うけど」
「意外といろいろ考えてるんだね」
「意外とじゃないよ。人の考えてることなんてわかんない。小部屋みたいななかに閉じ込められて、小さい口から一語ずつしか頭の中のことなんて見せられないもん。だから、知って欲しいし知りたいのかもしれないけど」
「うーん、でも、私はあんまり知りたいとか知って欲しいとかないかな。できたらひとと関わらないでずっとここで暮らしてたい。毎日何も起きないで、ただ生活するだけで何もかわらないで、ずっと安定してるような感じがいいな」
「そんなの退屈だよ」
「私は、って話。もしかしたらそのなかに他のひとが入ってきたり関わってくるかもしれないけど。りりとか川村さんみたいに」
「なんか、ふわふわしてる。定まらなくって、流されてるっていうか」
「それでいいんだよ。ねえ、お皿とって。ああ、どうしようかな。お茶碗いっこしかないや」
「平たいお皿に盛ったらなんかレストランっぽいしいいんじゃない。ほら、なんていうんだろ、あのパセリっぽいのふってみたりして」
「それでいいならいいけど」
 日は沈んで、台所だけつけられていた電灯が居間にもつけられる。
「いつもってご飯のときも電気つけないの」
「つけるときもあるし、つけないときもあるよ」
「こぼしたりしないの」
「もう慣れた」
「ねえ、明日もきていい」
「明日、土曜日だよ」
「学校なくてもいいじゃん。学校きたくないからきてる訳じゃないし」
「別に、いいけど」

3

 翌日は雨はやんだけれど空は曇ったままでいる。風の強い日で、銀色の雲が渦をまいている。学校がない日なので青木は電車で水浦公団を訪れる。もう夏みたいで薄着をしたひとが疎らに商店街を歩いている。商店街の端にはミニストップがあり、お茶とお菓子でも買っていこうかと寄ると川村と出くわす。「よく会いますね」「ああ、一昨日にもそうだっけ」「団地のほうでしたけど。いつもコンビニなんですか」「ああうん。外食のときもあるけど、自炊はしないね」「へえ、野菜とってますか」「ときどきは」「健康じゃなくなっちゃいますよ」くたびれたジーパンにオレンジ色をした同じくらいくたびれたシャツをきた姿を上から下まで眺める、髪は伸びかけ、休日だからかひげはあたっておらず少し伸びている。「不健康そうですね」「まあ、まだ若いから」「若いからっていって無茶してるひとが病気になるんですよお」「あはは。そうだね」空調の効いたコンビニは朝食と昼食のあいだの時間でひとはあまりいない、大通りから離れた住宅街の真ん中の店舗で店員も近所に住んでいるのだろう、五十代の女が揚げ物の準備をしている。「りり、これから宮ちゃんちいくんですけど一緒に来ます」「なにそれ」「えー、川村さん暇そうじゃないですか。一緒に遊びましょうよお」「青木さんって本当に失礼な子だね。そんな、若い子のなかになんて入っていけないよ。僕、女子高生がどんな話してるのかなんて知らないし」「えーじゃあ宮ちゃんといつもどんな話てるんですか」「どんなって……どうでもいいことばっかりだよ。金魚のこととか街のこととか」「りりたちもそんなことしか話してないですよ、ほら、いきましょうよおー」
 女は青木のメールを受け取って、訪ねてくるまでの時間をもてあましている、弟からのメールもきていて遊びにいっていいかとの内容だったが今日は友達が来るから今度ということになった。図書館の本を返しにいって、ついでにあたらしいのを借りる時間はないけど、そうしたらいい時間になっているか、それとも、すれ違ってしまっても電話をかけてくるだろうからいいかと思い家を出る。雨が降りだしそうで、傘を持っていこうかと悩むけれど、どうせ走ればすぐの距離だと財布と携帯をポケットに入れ、出かける。突っかけを履いて、七分丈のジーンズと端に少しフリルのついたシャツを着て一応薄手のカーディガンを着ている、先月、夏が近づいてきたということで青木と学校最寄り駅ちかくの服屋をまわったときのものだった。彼女も友達が少なくなったから久しぶりにこうやって買い物をしたといっていた。そのときはまだ、好きだといわれたことはなく、けれど冬の出来事を覚えているときのことで彼女がどういうことを思っているのか量ったり、知らない振りをしたりしていたときのことだった。昨日は、やさしくしすぎたのではないかと不安になり、もしそうだとしたら余計な期待を抱かせたりしていないだろうかと心配するのも彼女のいうやさしさなのではないかと勘ぐっている。
 コンビニから強引に連れ出された川村が手を引かれて公団へ帰って行く。「商店街わきの道よりこっちの方が近いよ」といつの間にか手を引くほうがかわり道を進んでゆく。途中には昔の藩校の資料館がある。「こういう資料館みたいのってあるんですね」「ああ、あと、市の資料館もあるね。公民館前の通りを行ったところにあるらしいけど」「へえー。宮ちゃんとかいったことあるんですかね。ずっと水浦に住んでるっていってましたし」「どうなんだろうね。青木さんも水浦に住んでるんじゃないの。引っ越してきたの」「ずっと水浦ですけど、でも合併するまえは別の市だったので。宮ちゃんはもとの水浦市みたいですけど」「へえ」「あっ、宮ちゃんだ」資料館と図書館は同じ通りにあり、返却ポストに本を返した女を青木はみつける。「川村さんも、どうしたんですか」「ああうん……さっきコンビニのところで捕まっちゃって」つながれた手を見る。「ああ……りりがご迷惑をおかけしまして」「えー、りりのせい」「青木さんが引っ張ってきたんでしょ」「だって、逃げられちゃいそうな気がしたので」「逃げるって、どこに」「家とか」「りり、川村さんよんでどうするの」「一緒に遊ぼうかなっておもって」「ああ、ご迷惑をおかけして」「いいんだけどさ……」「そうだ、どこか遊びに行きましょうよお」「どこかって」「うーん。海とか? ほら、天気いいですし」「曇ってるじゃん」「曇ってるほうがいいよお。日が照ってるとあっついし」「海って、どこの」「うーん。どこが海かな。神奈川とか千葉とか? 鎌倉とか銚子みたいな」「どっちも遠いでしょ。鎌倉、京浜東北伝いにいったら三時間くらいかからなかったっけ、銚子ももっと遠いし」「湘南新宿とか使えばもっと早いよ。そうだ、グリーン車乗ってみたいかも。乗ったことないんだ」「そんなお金ないでしょ」はしゃぐ青木を男はみている。本当に逃げると思われているのか、手はつながられたままでいる。「もっと近いところでいいじゃん。東京にも海あるし。なんだっけ、葛西臨海公園とか、海あるし、水族館もあるし」「東京の海ってきたなさそう……でも、水族館はいいかも」「今日行くの?」「思い立ったら、だよ。また今度っていったらずっといかないしい」「まあ、いいけど」「じゃあ宮ちゃん、川村さん、いきましょう」もう片方の手に女の手をつなぎ、きた道を引き返す。「まって、今から行くの」「いまからだよー」「そっちからいくより図書館の裏とおったほうが早いよ」「えー、ここらへんの道って難しい!」
 私鉄の上りに乗り、京浜東北線に乗り換える、東京駅の地下深くにすすみ京葉線へ乗り換える。「休みの日しか葛西臨海公園とまらないんだね」「あっ、近くに植物園もあるんだって」青木以外鞄も持たず携帯と財布しか持っていない三人は電車に揺られるままに葛西臨海公園駅のホームに下りる。休みの日だからか人は多く、駅前の噴水では親子連れが遊んでいる。ジョギングをする男女やカメラをもってうろつくひと、観覧車がありその前の通りをおもちゃの列車が走っている、水族館前の広場には大道芸をする芸人もて、どうやって乗るのかわからないような背の高い一輪車に乗っている。「見ていく?」「いいよ」「なんか、もうちょっとましな格好したかったんだけど」「大丈夫ですよ川村さん、似合ってますって」「これ似合ってるっていわれてもなあ……」駅前からまっすぐ進むとがらす張りの建物がある、「あれ、なんなんですかね」「さあ……、休憩所とか?」「なんか、宇宙っぽくてかっこいいですね」「あっ、あっちのがらすの鳥かごみたいのって水族館ですか」「きたことないから知らないよ」「あっ、海ですよ」がらす張りの建物の中を通ると芝の斜面にでる、そこをすすんで橋を渡ると海がある。「おー、海ですよ海」小さな浜には走り込みをするおそらく近くの高校か大学の運動部がいる。「こっちのひとってこういうところで練習するんですね」「まあ、埼玉海ないし」「川村さんの実家って海あったんですか」「三重だから海はあるけど、うちからはあんまり近くはないかな」「へええー、海が近くにある生活ってあんまり想像できないですね。泳ぎに行ったりするんですかね」「そうなんじゃないのたぶん」
 公団から遠く離れた場所にきて、女はどうしてこんなことになっているのかと思っている。「川村さんって魚好きなんですか」「まあ、好きといえば好きだけど、金魚飼ってるのも特に理由がある訳でもないし」「水族館好きですか」「別に嫌いじゃないよ。なんか、すごい漠然とした質問だね」「いいじゃないですか、普通の会話ですよ」先陣をきる青木に手を引かれ、端から見たら結構変な感じかもしれない、若い女に手を引かれる年上の男と、同じくらいだけれど歳の雰囲気の違う自分、海にきた以外にもどうして知り合いになったのか、男には変なところをみられてそのままなし崩しに、青木にも同じようにクラスが同じだったとか席が近かったとかたいした理由もなしに、だった。おかしな気がして、だけれど深く考えることもなく青木と川村の会話を聞いている。昨日のことはなんだかなくなってしまったみたいだと思う、私はこのふたりのどちらかを好きなのだろうか、別に近しいからといって好きにならなくてはいけないなんてことはないのだけどと考えることはふたりには、口に出さないので知られない。元々、団地のなか、四〇六号室と五〇六号室のなかに隠されていた関係だったはずなのに今ではこうして屋根のないもとにさらされている。それとも、青木が三人で出かけようといいだしたのは何かの計画ではないかと勘ぐってしまう。「あっ、あっちのほう、ディズニーランド見えますよ。ほらシンデレラ城とか」「結構近いんだね」「宮ちゃんどうしたの」「ううん、どうもしないよ。海、意外ときれいだね。一応、底みえるし」「でも泳ぐのはちょっとやだね」波が寄せてかえし音をたてている、浜辺には売店があり凧やプラスチックのバット、バトミントン、フランクフルト、唐揚げなどが売られている。流行歌が防災無線のようなスピーカーからひび割れながら流れている、いくらかの親子連れや若い男女ら、野鳥の会がいて、宮田と川村、青木もそれらに紛れている。楕円の三日月のような小島の端は岩場になっていて、岩のうえには等間隔に人が座っている。海水に浸かった岩には牡蠣のような貝がびっしりとついていた。時間をかけてきた割には何もないところで、しばらく見て回ると島を出てゆく。「海、何もなかったですね」「まあ、もう夏じゃないしね。夏でも泳げるか知らないけど」「海って普通何もないんじゃないの」「えー、なんか磯とかあって蟹とかいると思ってた」「水族館いけばいるよ」
 当然だけれど水族館には多種多様な水棲生物がいる。イルカやペンギン、タツノオトシゴのような目立ちやすいものも鰯や鰤などの食卓に供されるものも蟹もクリオネも、熱帯の魚もいる。「金魚もいるんですかね」「たぶん、どこかにいると思うけど」「あっ、アロワナですよ」

 特に何事もなく戻ってくると夕方ごろになっている。青木とは途中の駅で別れ、水浦駅で降りるのは宮田と川村のふたりだった。「結構疲れましたね」「意外と歩き回ったしね」「今日、どうしましょうか。夕ご飯とかつくります」「いや、疲れてるだろうしいいよ。僕はそこで食べていくけど宮田はどうする」「そうですね。ご一緒させてください」駅舎にあるラーメン屋はカウンター席しかなく、時間のせいなのか宮田たち以外の客はいなかった。「梅しそラーメンですって」「鶏トマトとかもあるんだ……変なの」壁には水浦城周辺の古地図の複製が掛けられている。「お城って城址公園のところに建ってたんじゃないんですってね」「へえ……そうなんだ」「堀とかはあそこらへんにあったみたいなんですけど、本丸は駅の反対のほうにあったとか」「城ってもうないんだよね。あんまり見たことないけど姫路城とかみたいに大きかったのかな」「どうなんでしょう。あそこに堀があって、本丸まで数キロありますしそこそこ大きいような感じだとは思いますが」「公団のところ、高台になってるからずっとあそこらへんに建ってると思ったよ。城がなくなって、その上に公団が建って、もうない城の上に住んでるのだと」「そうだったら少しおもしろいですね。お城じゃないですけど、大きい建物がまた建てられてそこで生活してるって」宮田は梅しそラーメンを、川村は鶏トマトラーメンを頼んだ。無言で食べて店を出る。「なんか、ミネストローネに麺をいれたみたいな感じだった」「おいしかったんですか」「うーん、普通かな。梅はどうだったの」「まずくはないですしそんなにおいしくもないみたいな感じでした。あっ、私スーパー寄ってから帰りますね」「ああ、僕もお茶とか買いたいから寄ってくよ」スーパーは駅前に二軒あり女も男も公団に近いイオンの地下にあるほうをよく利用している。並んでかごを持ち、日々の食材や飲料を補充してゆく。七時すぎで、いくらか混雑はひいているがレジの前にはまだ長い行列がある。「川村さんは、今日どうしてついてきてくれたんですか」「たいした理由はないけど暇だったし」「それだけ、なんですね」「ああ……そんなたいしたことはないよ。明日も休みだから遠出をしてもいい気分だったし、そんな……」麦茶の紙パックが三本はいった袋をもつ男と、キャベツひと玉、もやし、シメジ、大葉、鶏モモ、牛乳、冷凍の唐揚げなどたくさんのものが詰まった袋をふたつ提げた女が公団への道をゆく。麦茶はこだわりがある訳ではないし、ウーロン茶でも緑茶でもよかった。同じようなものはそこらじゅうのスーパーやコンビニに売られている。ようやく日が落ち、残照が水浦より遠くから差す、人通りも疎らな商店街を抜け、図書館前の小道をすすむ。女はそのとき男に、青木のことやその他のことを訊いてみようという気持ちが少なからずあったが口にすることはなかった。本当は解決なんて求めていなくて、ただ愚痴のように学校であったこと、自分のことではなく昨日の青木のことなどを話してみたいと思っていて、そういった欲求はしばしばあるものの実際に話題の中心にのぼることはない。ふわふわとした感情を話しても何も解決しないような、ただ時間を間延びさせて自然と解決するか無効になるのを待っているような気にさせられるからだった。男のほうはそういったことを悩んでいるのではないかと想像し、けれど話されてもいないことを詮索するのは、自分は彼女の何者でもない少し仲のいい上の階の他人だと感じているため訊くことはない。やがて決定的な、宮田や川村、青木にとってだけドラマチックな出来事、たとえば退学や世をはかなんで自殺をしてみたりするようなことが起きるのを待っているのだ。軌道上でかすかな摩擦の音もたてずに続いていくような日々、一日を公団ですごし、朝は決まった時間に起きるし朝食は二、三のパターンから選んでつくり、昼食は素麺かスパゲッティ、袋ラーメンなどの麺類、夕食は十種類のメニューをローテーションさせる、眠る時間になったら眠る、スーパーに行くのは週に二度もしくは三度といった、来週でも半年後でも、十年以上先の未来でも同じ生活があり続ける、があることを想像しそれを生きられたらと思うけれど、そういった未来があることを信じられず、現在の生活を放棄、生活の主たる場の学校を辞め、獲得することを想像している。そういったことを夢想するあいだにも脚は動かされ続け、公団に帰り着く。門側の階段を上り男と別れる、部屋の前には別の男が座っている。「鴎、どうしたの」女の弟である宮田鴎で、学生服姿であるけれど鞄は持っていなかった。「メールしたんだけど」「ああごめん。見てなかった」「いいけど……鮎、いつも返信遅いから」「それで、どうかしたの」「葉とけんかした」「あっ、そう……それで、ずっとまってたの」「二時間くらい」「ああ……二時間前だったらまだ電車乗ってたよ。海いってたんだ、今朝の友達と。とりあえず中はいろうか」「なんか、鮎なのにお姉ちゃんみたい」「そりゃあ、先に生まれたんだし」実家でと同じくらい乱暴に脱がれた革靴をちらりと見て、そういえば鴎の他には川村さんしか男のひとを上げたことがなかったのだと思いだしたような気持ちになる。「別に、葉とけんかしたのはいいんだけど、うちきてどうするの」「泊めて」「学校は」「明日休みだし」「明日休みだからってうち泊まっても帰りにくくなるだけだと思うけど」明日が休みでもその次は月曜日で、けれど女は鴎のことは叱れない。「いいんだ」「いいならいいけど。鴎と葉が仲違いしても私には関係ないし。あああと、ご飯食べてきちゃったから食べたかったら勝手につくってね」脱ぎ捨てられたカーディガンは座椅子の周りに溜まる、露悪的であるような気分でわざとらしく生活の汚い側面を見せつけている、家具をほとんどいれられていない台所は椅子もテーブルもなく弟はシンクに半分尻を乗せた格好で湯が沸くのを待っていたが手持ちぶさたなのか、備え付けの靴箱におかれたままのスーパーの袋が開けられ、冷蔵庫へしまわれてゆく。水浦公団四〇六号室のあらゆる収納は女の生活に最適化され彼女の脳の拡張ようであったが侵入する親近者はそれを慮ることなく実家でそうするように生活をととのえてゆく様を女は見ている。未処理の生活を保持するキューにはいま片付けられたスーパーの品々の他に脱ぎ捨てられた服、まだ洗濯されていない籠の中身、読みかけの図書館の本などがあるがそれらは手をつけられることなくある。「おまえって家じゃ家事してるの」「鮎がいないし葉もしないんだからするしかないじゃん」「別に、しなくたっていいでしょ」「何それ」「食事なんて外ですればいいし、服がないんだったらそういう代わりに洗濯してくれるようなサービスがあるのになって思っただけだよ。掃除だってしなくったって、汚くたって生活できるしそれに……ダスキンのあれだってあるじゃん」「鮎ってそんな話しかたしてたっけ」「今日はちょっと疲れたから乱暴な気分なの。そういえば学校行ってたの」「ああ、うん……部活だって。でも、かえってすぐ飛び出してきたから」「制服、似合ってるじゃん」「別に……見たことあるでしょ」「まあ、そうだけどさ……うち、ブレザーだから」黒い詰襟姿が彼女の脳の拡張にやってきたものだ。夕暮れの散乱が台所の窓から差し短髪や毛羽だった黒い布地に反射している。「というか、鮎だってそんな風に生活してないじゃん。部屋、片付いてるし」「ただものがないだけだよ」「それとも誰か、そういうひとの家に行ったりしたことがあるの」「何それ」階上の男は部屋にいる、今日のことを回想しながら水槽を眺めている。軌道に乗った生活にないものが混入してきたような気を青木にたいして抱いている、あまり触れたことのない類で、女とは違い美しい女だと思っている。宮田と初めてあったときもそうだった、入居率の低い公団の人目につかない階段で私的な営みをおこなう醜女であり気がつけば互いの部屋を行き来していた。数ヶ月のうちに惰性のマクロファージのようなものが彼女を消化し問題のない異物へしてゆく。同一化してしまったような気がしていて、携帯や馴染んだ靴のように形を寄り添わせている、また拡張のように自己の一部のように扱っていた。そのような例があったせいか青木のこともそう捉えがちになる、いつか女のような関係になるのではないかという期待や恐怖がある。なし崩しにされる性交渉や睡眠、食事などの生活の些事がともにあることを想像している。ただの賃金労働者である自分が軌道を逸脱したような生活へ向かっている、未知へ飛び出してゆく恐怖のようなものではないかと推測している。そうしたとき自分もその未知の形質へかわり対応するレセプタを失ってしまうのではないかという恐怖だ。一昨日話した有蹄類の手足の話を思い出す、箸やスプーンを握ることも靴を履くこともできない、あらゆるものが人間用につくられていて明確な指をもたなければ生活はままならず、そもそも数センチの大きさや高さが違ってしまえば感覚はすべて覆されてしまうようななかにいるのだ、受容体を失った生活がどこへ向かうのか、未知の大陸やその他神秘性を帯びた場所、空洞の地球の中心や宇宙の果て、SF的世界がもつ乱暴な余地がなければ生活を失ってしまうのではないかという恐怖がある。そうしたとき、彼は女を抱くことがあり、そうした感覚を泳いでいる。優雅な尾はなくてもその中にあることに安心を覚えるのだけれど、それは惰性で、未知の恐怖を服従させる、幻想を抱かせる惰性の大食細胞が不安を飲みこんでくれると期待しているのだ。魚は表情を動かすこと(表情筋もなく、目を動かすかすかな姿に男は気づくこともない)もなく泳ぎ、手のひらでも握りつぶすことのできる頭蓋骨と脳のなかで何を考えているのかは知れないし、そもそも男のようなことを考えている訳でもないのかも知れない。彼はありがちな共感を求めている、思考を繰り返し、受け入れてくれる乱暴な空隙に、自身の受容体があるのではいかと想像を巡らせている。魚の思考はどのようにできていて、思考のうちに言葉があるのか、高度に抽象を操作する能があるのか想像している。耐えかね立ち上がり、階下の部屋へ向かう。「鴎って学校いってるの」「いってるよ、そりゃあ」「毎日?」「毎日ではないけど」「ほらぁ」「鮎もいってないの」「うん……なんか、学校って大変。っていうか、学校っていうかね、毎日が大変だよ。毎日毎日決まった時間に決まった場所へ行かなきゃって思うとしんどくなっちゃうし、そう、うちの国語の先生にそういうこといったら君は自分でこの学校へ行くことを選んできたんでしょうってね。いうんだよ。そんなのただの惰性なのに」「ふうん……」「中学生はどうなの。義務教育って」「別に、勉強したくないなあとかは思うけど、サボっても呼び出されるだけだから」「ちゃんと学校へは行かなきゃだめだよ。義務教育って学習の義務じゃなくて通学の義務なんだから」「なにそれ」「毎日学校へ行かなきゃいけないってこと。あーあ、でも何で鴎みたいのがきょうだいにいるのに私はこんな風な見た目になっちゃったのかな。ごわごわした髪じゃないしきれいに痩せてて肉がついてなくて、顔とか、なんかうまくいえないけど整ってるし」「運でしょ。それに、そういったら通学の義務だって惰性じゃないの。それに、だって、実際いかなくたってどうでもいいんでしょ」「そうはいってもねえ、社会っていうのがあるんだよ」「そんなのなくったって生きていけるでしょ」「そうはいかないって、歳をとればわかるよ」「鮎、まえはそんなこといわなかったのに」「だって、社会がなかったら生きていけないもん」ノックの音があり女は弟を見る、鍵が開いていることは知っていて男が入ってくる。詰襟の幼い男を見た、今朝と同じ適当な格好の男が身じろぎする。「誰」「ああ……川村といいます……」生活は継ぎ目なく進行する。「鮎、誰」「上の階の川村さん」「へえ……何でくるの」「いろいろあったの」「ああ、邪魔したね。出直すよ」「いや、いていいですよ」「何で帰るんですか」豊かな尾がまた一振りされ地上のあらゆるものが祝福されてゆく、傾きかけているけれど確かな家に住む鴎にも、自力で生活を営む男にも、今にも倒れてしまいそうな女にもだ。「お湯、湧いたからコーヒー入れるね」サンダルを脱ぎそろえ、男が居間に座る。薄いシャツしか身につけていない女のからだが彼の視界にあり、意識しているのとしていない状態のあいだだ。インスタントコーヒーの瓶にスプーンのあたる音やカップをステンレスの調理台におく音が聞こえてくる。「電気ケトルとか買わないの」「毎回お湯を沸かせばいいだけだよ。それに、便利そうでやだし。便利なものって手放せなくなりそうだし、そうなると生活にいろいろ膠着するものができちゃって重くなっちゃうよ」「あの子って誰」「ああ、弟ですよ。鴎です」「帰っていい」「いつも、きてるじゃないですか」「いや、兄弟水入らずで」「そういうんじゃないですよ、彼、家出ですし」「彼っていうの」「……実家、しばらく帰ってないですしね、精神的な距離が遠くなっちゃったのかもしれません」「カップ一個足りないよ」「私はいいよ。麦茶でもいれて」冷蔵庫の開閉する音一一〇リットルの自炊をするひとり暮らしには十分なものだ。「それで、鮎、この人誰なの」「だから、上の階のひとだって」男は目の前に並べられたふたつのマグカップとコップを見ている。ひとつは女のもので、もうひとつは彼が持ち込んでそのままになっているものだった。今は鴎がそれに口をつけている。川村が宮田の部屋を訪れる夜はいつも電気がついていない、弟がきているからなのか明るく照らされ、彼女の姿も明るみにある。「宮田さんの友達みたいなものだよ」「今日、出かけたひとってこのひと」「あと、学校の青木さん」「三人で出かけたの」「そうだよ。海にいってきたんだ」「……そんなの、おかしいでしょ」「何が」「だって、このひと鮎とずっと歳離れてるし大人だし……なにそれ。どんな関係なの」「別に、ただの知り合いとか友達とかだよ。それだけ」「姉ちゃん、こんなの変だよ……。俺、もう帰る」
 残照ももう消えたか消えかけている、閉まる扉の隙間に赤くなった廊下の灰色が見えた。「それで、川村さんはどうしたんですか」「別に、どうもしないよ、ただ、いつもと同じように」「いつもと同じように、何がしたかったんですか」「いや、別に……」「いやらしい、ことですか。服、ちょっと透けちゃってますよね、鴎だったらいいけど、川村さん、私のことなんてみたって楽しくないですよね。だって、顔は可愛くないし、からだも変な形です、痩せた胸とかお腹とかなのにそこから伸びる腕とか脚は短くて太くなってますし」「ちょっと、待ってよ」部屋のなかは灰と藍をまぜたような色になっている。「だって、私には川村さんしかいません、川村さんにも女のひとは私しかいないんでしょう。だから、可愛くなくてもいいんでしょう。私には、川村さんしかいないんです」「青木は、」「りりは、ただの友達ですよ。ただの友達で、居場所じゃないです。友達というか、連帯みたいなものかもしれないですが。もう、だめなんです、これ以上生きているのが辛いです、未来がないみたいなんです、学校とかもう、行きたくないですし、そうしたら私はこの部屋にいるか実家に戻るのでしょう。でも、それだけじゃ辛いです、川村さんがいなくなったら、本当に何もなくなっちゃいそうで怖いんですいいですよ、セックス、しましょう」「そんな、勝手に、」女が手を引く、テーブルに置かれたコーヒーと麦茶はそのままにされている、靴も履かずに出た廊下は靴下越しにとてもひんやりしているようだと感じている。引きずるように、早足に歩いてゆく、もう片方の手で目元をぬぐっている、感情が暴れているような感じで泣いているが可愛くもないのに泣くだなんて許されないことをしているようだと思いまたみじめな気持ちになる。「どこがいいですか、私の部屋は嫌です。何もないときにもいやらしいことをしたって思い出しちゃいそうですから。初めてあった階段がいいですか。でも人目につきそうで怖いですね。あっ、そうだ、屋上の階段なら見られないかもしれません。一番端の、屋上には出られませんが、五〇九号室のところまでこないと見られないですよね」男のほうも素足で女のものよりもおおきく骨張った踵がごつごつとコンクリートの廊下にぶつかっているようで少し痛がっている。「やめとこうよ、今日は」「でも、川村さんはそのためにきたんですよね」「こんなときだけど敬語使うよね。もう、長い間一緒にいるような気がするのに」「だって、私たちって対等じゃないです。なんだかんだいって川村さんには会社って居場所がありますし、でも、私には何もないんです。見捨てられちゃったら終わりですよ。いいんですよ、私、セックスするのそんなに嫌な訳じゃないんです。一緒にいておもしろいような人間じゃないですし、何か特別なものをもっている訳じゃないです。からだだけで、そのからだも川村さんにとって私しかいないからって理由で終わっちゃうんでしょうけど、でもそれだけしかなくても自分のほう、むいてもらえるのって嬉しいです。性欲もない訳じゃないですしね」踊り場から見える西の端はまだほんの少しだけ赤みがのこっている。「靴下のうら、白くなっちゃいました。あっ、見ないでくださいね。擦りきれかけててはずかしいです」女は柵にもたれるようにして中五階の踏み段に座る、手を引き、男を抱きつかせる。