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120829(Wed) 12:43:07

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3章 アロワナの夢

1

「今更、会うこともないのかも知れないですが……もうああいうことやめましょう。都合のいいこといってるっていうのはわかってるんです。だけど、やですよ。こんなの」
 結局、宮田も川村も学校を辞めてしまっていた。未来は暗いままただ生き続けている。
「なんか、死んじゃいそうな、いやまあ両親からお金はもらってるしいきなり放り出されることはないんですけど、生活で、でも生きてるんですね。不思議と、川村さんは仕事を辞めないですし、私は学校辞めちゃいますし……ああ、来年はどうしてるんでしょう、再来年とかその先とかわからないですよ。自分でお金を稼げている訳でもないのに、早いところ仕事をできるようになって……そうしないとどんどんだめになっていってもっと年をとったときどうやって生活すればいいのかわからないです。だから死んじゃいそうなんです、来月は大丈夫でももっと先はどうなっているのかわからない。未来が見えないです」
 冬が訪れ木々から葉が落ち、寒風が建物と建物のあいだ、街をすぎてゆく。夏休みが終わったころ女は退学願を提出した、青木もその一週間後に出した。ふたりは学校から消え、まとわりついていたものから消失を遂げた。彼女らの生活はあらゆるレイヤーの下層に押しこめられ隠滅されている。膨大な部屋部屋を擁する公団、戸建ての家々、多数の生活があり正常の人々は学校や職場へ通っている。遊離する彼女らはそれらに接続することなく隠滅されているようにいるのだ。生活の断片は部屋を離れた図書館や市民プール、スーパー、コンビニなどそこここの記録に残るが人々の記憶に残ることはない、まったく亡霊のように街を歩き、生きているのか死んでいるのか、家賃の振り込み以外に実体はなく、その生活は学校や仕事といったものを離れたところにしか認められない、女にとっての男や、時々訪れる青木、メールのやりとりしかなくなってしまった葉子と鴎、それしかない。
「だって、もう何もかも無理です。川村さん、どうしたいんですか、私を。私、だっていま何もしてないんですよ。毎日毎日、朝起きて、それから食事をつくって、洗濯とか家事をします。昼は食べたり食べなかったりします、それで夜までどうやって時間を潰そうかと思うんですけどテレビか本くらいしかなくてずっとそれです、それで夜になればまた食事を作って食べて眠るんです。眠るまえに川村さんと会ったりもしますね、それで朝まで一緒にいたりして、朝になったら川村さんは仕事に行きます。いえ、わかっているんです。私が、最初川村さんの家に行かなかったらよかったんです。すべて打算で、そうです、そのときの私はこうなりたかったはずなんです、でも、だめでした……荷が重いというか、耐えきれません。それは私が川村さんと一緒にいることもそうですが、川村さんが一緒にいようとしてくれていること。よくいうじゃないですか、私も、付きあっている訳じゃないって、だけどこんなに長い間を一緒にすごして、そうしたら私たちの関係は何だったんでしょう、重ねてきた時間のすべてが何にもなることなくどこか遠い何もないところへ吸いこまれていってしまったような気がするんです」
 踊り場はいま昼の光に照らされている。冬の晴れで、薄い青色をした空に薄い雲が長く伸びている、風が強く枝だけの木が揺れ、雲が流れてゆく。風の影響を受けない光だけが一直線にさして灰色のコンクリートの踊り場を暖かくしている。彼女の外にあるものは彼女をすべて無視しているように感じられるけれど、彼女だけはこの階段の踊り場や藤色の金属の扉とノブなどそういった生活にある風景のどこにも記憶や感情を見いだしてしまう。腰掛けた踏み段は川村と初めてあったときと同じだった、彼の生活が彼女のひとつ上の部屋にあってそのことを一年近くのあいだ知りもしなかったし、知ろうともしなかった。それがごく近くに、目の前に現れて困惑していたときもあった。天球の遠くだけが曇り始めて、灰色の雲の合間から薄明光線が送電塔に囲まれた街にさしている。
「これだけたくさんの部屋や家があるんです、公団から見えないところも含めて、そうした中には私たち、私とりりのように生活をしているひともきっといると思います、学校を辞めてしまったひと、会社へ行かなくなったひと、たくさんのひとがいるんですからその中に何人か、確率的にはいるんだと思います。だけど、そういった人たちの生活は見えてきません、スーパーに行くまで、すれ違うひとは制服やスーツを着ていて、そうでないひとは大学生か主婦に見えて、私のような何もしてない、何もないようなひとはいないように思えて仕方がないんです。そういえばりり、最近見ないですね。何してるんでしょう、何もするあてなんてなくて、家にいるんですかね。家にいて、実家だときっと大変でしょうね。毎日ひとと顔をあわせなくちゃいけないですし」
 川村は塀にもたれている。さっきから一言も口にしないでただじっと宮田が喋るのに任せている。日曜日で彼も休みだった。なし崩しのように続いていく毎日が梅雨のころから年が明けるまえの冬までずっと続いている。彼が見ている女はコートも着ていない部屋着のままで、むき出しになった脚がコンクリートに投げ出されている。べたりとつけられ肉が重力によって平たくなっているところをみても寒そうだという以上の感想はわいてこない。数ヶ月まえなら、もしくは出会ったころならそうした様になにか思うところがあったかも知れないと考えるけれど何も湧いてはこなかった。ただ生活をだめにしてしまった女がいて、昔はそうした状態に哀れみやなにか同情のようなものを抱いたことがあったかも知れない、いまそういったものが感じられないのは距離が近くなりありふれたもののように思えるようになってしまったからなのか、それともそういった情を覚える自分とは違うものになってしまったからなのかと感じ始めている。彼女は学校へ行かなくなり自分は相変わらず働き続けている、生活は軌道に乗り、彼女はそこを外れた。だから、学校へ通っていたころの生活がぼんやりしていて、生活をつらそうにすごしている彼女なら近くにいたのかも知れないけれど、いまはそういったことを思うこともない遠くのところへ離れてしまったのだ。彼女の部屋へ行くことも少なくなり、くることも少なくなった。今日だってあったのは偶然だった、コンビニの帰りで会い、久しぶりだと思いながら公団まで戻る、彼女はそのまま部屋に帰ると思っていたがついてきた。ついてきて、部屋の前を通りすぎたときには手を引かれ屋上への踊り場へ誘われていた。記憶をたどってみれば疎遠になったのはあれからで、最後の印象になりつつあり、学校へ通っていたころはもう少ししっかり、生身の肉体が生きているような見た目をしていたと思い出す、いまではなんだかやせ細り白くなってしまったような気がしている。握ったコンビニの袋が風が吹くたび音をたてる。
「川村さんは毎日どうしてるんですか、毎日仕事に行ってつらいとか思わないんですか」
「時々は思うけど、でももう慣れちゃったよ。また、昔みたいにつらくて仕方がないって思うときがまたくるのかも知れないけど」
「そう、なんですか……やっぱり、昔はそうだったんですね。だけど、」女はポケットに手を突っ込み携帯を出す、着信のランプが点滅している。「すみません、電話でますね」髪をかき上げて耳に当てる携帯電話に見覚えがある、あったころにはもう同じものを使っていた気がすると回想する。回想で、つまり昔のことになってしまったのだと思うと苦しさの一片くらいは抱くけれど、それは失ってしまったものではなくて古巢のようなものを懐かしむような感覚だと気づかされる。「……ああ、りり。どうしたの……うん、別に、大丈夫だよ。りりのほうこそ大丈夫かなって思うよ……そうなんだ、よかった……うん。いや、わかってるでしょ……じゃあ」携帯はとじられまたポケットにしまわれる。「川村さんってこのあとどうするんですか」「特にすることもないよ。休みの日だし、出かける予定もないし、夜までだらだらすごすんだと思うよ」「そうですか、じゃあ、私は、今日はりりがくるのでもう戻りますね」「ああ……今度、金魚でも見にくる」「えっと……わかりません。気が向いたら行かせてもらいますね」男の誘いは憐憫でも何もなく、ただの懐かしむ気持ち、昔あったものがまだ近くにあることを確認したかったのかも知れない。女は立ち上がり階段を下り、見えないところへ消えてしまう。男のほうも部屋へ戻る。遠くで金属の扉が閉じる音が聞こえた。

 女が扉を開けると制服姿の青木がたっている、染められていた髪は根元が黒くなっていた。公団の庭から照る光が逆光になり毛羽だった制服の端をぼやけさせている。両手をからだのまえで重ねてたたずむ姿は女と同じように外に出なくなったからかやせ細り白くなっているようだった。
「ああ、久しぶり」
「うん」
「制服、きてるんだ」
「なんか、他に外に出やすい服ってなかったから」
「そうだよね……昼間から外でるのにいい服ってないよね。あがってよ」
 脱がれた革靴がそろえて置かれる、昔は脱ぎ捨てていたのになと女は思い出している。半畳ほどの小さな靴脱ぎに自分以外のものがあるのは久しぶりだと感じる、上がり框でどうしていいかわからないという風なので居間で待っててと促した。コーヒーを入れながら鴎がきたときと同じ、男のマグカップが置かれたままになっていることを思い出す、女の私物も彼の部屋に置かれたままになっていて、それらがどうなっているか彼女は知らない。川村の名前も宮田の名前も、部屋のまえと郵便受けにかけられているが意識することは少なくなった、他の部屋部屋の住人とは違いまったくの無関心という訳ではないけれど頻繁にあっていたときと比べれば随分遠い関係になって  いる。川村のマグカップを差し出し、青木を見ている。心なしか前髪が伸びている気がして、まぶたにかかった毛先がうっとうしいのか瞬きをしたり指先でかき分けたりしている。
「それで、今日ってどうしたの」
「たいしたことじゃなくって、ただ遊びに来ただけっていうか。学校辞めてからほとんど会わなくなっちゃったし、どうしてるのかなっておもったんだ」
「そっか、こっちはどうもしてないよ」
「川村さんとは」
「ううん。今日はコンビニの帰りにあったけど、それ以外はずっとあってないよ。部屋に行くこともなくなっちゃったし」
「そっか……」
 青木は川村をけしかけたことを思い出している。三人とも思い出すことが多く、それら、今年の初めくらいから夏の終わりまでの出来事がもう随分遠い思い出のようなものに成り下がっていることを意識させられている。結局、りりがいったことは何にもならなかった、宮ちゃんは学校を辞めちゃうしりりも辞めた、宮ちゃんと川村さんの関係は途切れ、希望を抱いていたものもなくなってしまったんだと感じている。
「りりはまだ私のこと好き」
「どうだろ。そういえば彼氏ができたの」
「へえ、誰」約束があった訳でもないのに裏切られたような気になり、それでも関心を持っているし傷ついてなんていないという風に訊く。
「悠だよ。竹原先輩」
「へえ……」嫁入り祭のことだってもう随分遠くに感じられる、無理矢理花嫁役に選ばれて、知りもしない竹原という男と夫婦のふりをした。それきり疎遠になってしまい彼のことを思い出すこともなかった。川村のことは公団のいたるところに思い出させるものがあるけれど、彼は学校と一度きりのお祭りのことしかなかったからだ。一度だけ四〇六号室にきたことがあった、りりが座る左隣に座っていたと思い出す、ただ一度きりのそれだけで、二度目はない。「どうやって知りあったの」
「りりが学校行ってないの知らなかったみたいで、どうしてるのかってメールしてきたの。りりも暇だったのかな。それで、学校辞めちゃったっていったら次の土曜日にまたメールがきて遊ぼうってさ。それで暇だからちょくちょく遊んでるうちに突きあってるみたいな風になったんだ」
「ふぅん。よかったね」
「えへへ……よかったよ。本当に、それで家じゃない、学校とかでもない居場所ができたんだから」
「一緒に出かけたりするとき、いつも制服なの」
「ううん。ひとと一緒なら私服でも怖くないから、それに、制服だと入れないところとかもあるしさ」
「へえ……竹原先輩のこと好きなの」
「どうだろ、付きあってるっていっても、好きなのかはわかんないや。ただ、一緒にいてくれるひとがいるって嬉しいしさ、だから、わかんないや。あのときメールしてくれて遊ぼうって行ってくれたのが悠じゃなくても付きあってたかも知れないし、付きあわなかったかも知れないし」
 黒々としたコーヒーの注がれたマグカップに口がつけられることはない。ハロゲンヒーターひとつでは部屋は暖まらず、青木はジャケットを着たままでいる。女はずっと遠くに過ぎ去ったことを、川村とプールで会ったときのこと、青木との交合を思い出している。初めて部屋にきたときのこと、何も抵抗できずにしたときのこと、そのときのりりも今と同じではないか、私が竹原先輩に置き換わっただけなのではないかと想像している。そうであったら、りりは成長もしないで周りにあるものがかわっただけ、私と同じで成長をせずにただ生きているのではないかと思っている。そうであったら、何もしないで生きている私をすこしでも肯定してくれる材料になってくれるのではないかと期待している。
「……宮ちゃん、どうしたの」
「宮ちゃんって呼ぶんだね」
「まえからそうだったじゃない」
「竹原先輩と付きあってるくせに」
「えっ、悠のこと好きだったの」
「ううん。好きじゃなかった。でも、りりのことは好きだったかも知れない。それなのに、先輩と付きあってるって、なんかやだ」
「なにそれ、りりが好きっていったときは川村さんのこと、りりがいやっていっても話したのに」
「うん……」
「宮ちゃんってまだ性格悪いんだね」
「そうだよ。性格悪くって、可愛くなくって、こんなんじゃ生きていけないよ。もっと可愛かったり普通の性格だったら学校だって辞めなかったかも知れない」
「そうじゃなかったらりりと宮ちゃんは仲良くならなかったよ」
「そう、かもね」
「ねえ、あのとき何であんなことしたの、私に」きっと私以外に誰もいなかったからだってわかっているけれど訊いて、口に出して教えて欲しいと思っている。性格が悪いのは自覚しているけれど口に出すことはやめられずその度女はこのままもっと何もない生活に落ち込んでいくのではないかと不安に思いながら、同時に青木と元の関係を築ける、川村と出会ったような互助やなまあたたかな交合を取り戻せるのではないかと期待している。
「今と同じだよ、だって、いったじゃん、宮ちゃんが。私しかいないからするんだって。きっと、そうだったんだよ。でも、そのときのりりには宮ちゃんしかいなくて、宮ちゃんもりりしかいなかったから受け入れたんだ。抵抗をする、しているような、したいような素振りだけして。宮ちゃんは性格が悪いから、りりのせいにしようとしたんだと思う」
「うん、そうだね……」
 喋ると、ときどき息がしろくなる。風は強くなり、ベランダ側の窓からは見えないけれどさっき見た遠くの黒い雲が近づいてきているような気がした。洗濯物が暴れていて、さらにむこうの城址公園では木が亡霊のように揺れている。風にあおられるフリスビー、手綱を放され駆ける犬がいる。「ちょっと、洗濯物取りこんでくるね」青木との会話が彼女の昔のもの、なし崩しの関係やどろどろとしたしがらみを思い起こさせるような気がする、からだの芯のところがふわふわとしていて、けれど頭のなかだけは冷えているような感じで、窓を開くと風が吹き込む。青木が暴れる髪を抑えている。学校に通っているときはどんなに雨や風が強くても通っていた。思い返せばどうしてそんな必死に、しがみつくようにしていたのか思い出せなくなる、制服姿は不思議なように見える、重たげなブレザーやその下に着込まれたらくだ色のカーデガンや白いブラウス、臙脂色のリボン、短い紺色のスカートが幼く返ってしまったような(投げだされた脚などをもつ)からだや稚い顔のまわりにある。かしげながら見上げる顔を無視するようにサンダルを履いてベランダに出る、洗濯物はまだ少し湿っていたけれど取りこんで鴨居にかける。「風が強いともうすぐ春みたいだね。春、花粉が飛ぶからやだな」「家から出なければいいよ」「そうだね……いつまでそういう風に生活していられるんだろう」「いつまでも、なんていかないんだから、でもそのときまでしてればいいんじゃないの」「そんな風にはいかないよ……」窓は開けっぱなしになっている、青木が立ち上がって閉めた。乱れた髪が膨らんだようでいる。「そういえばりりってまだ小説書いてるの」「最近はほとんどだよ。学校辞めて、そんなことしなくてもよくなちゃった気がするんだ」「ふぅん……どんなの書いてたの」「どんなのって……なんだろ、宮ちゃんとかりりとか川村さんとかが出てくるようなやつ。人にみせるのははずかしいようなやつ」「へえ、見せてよ」「恥ずかしいっていったじゃん」「だって、私のこと書いてあるんでしょ、りりが私のことどういう風に見てたのか気になる」「それって、もう昔のことみたいな感じに。今どうとかじゃなくて、昔はどうだったっけなあって思い出すための」「どうだろ、でも、最近よくりりのこと考えるんだ、昔のことも含めてさ」「うん……」ひるんだように瞬きする姿がおびえさせてしまっているのではないかという危惧を抱かせる。「それで、ときどき、時々ね、制服とかきてみるんだ。一度裸になってさ、白いブラウスに赤いリボン、って頭のなかで何を着ていたのかなって思い出しながら身につけていって、鏡のまえに立って、変な格好だなっておもうの。それで、それでね、りりがうちにきたときのこととかも思い出すんだ。初めてきたときとか、私が休んだときに来た日のこととか」「やめてよ、そんなの。本っ当に宮ちゃんって性格わるい」「だって、昔のことだけどさ、まだ覚えてるんだもん。私がりりに思っていたこととかりりが私に思ってくれたんじゃないかなってことを思い出したり期待してさ、学校は大きらいで辞めちゃったけどなんだかんだでりりもいて楽しかったっていうか、輝かしい毎日だったなって思い出すの。それはいま私が、もしかしたらりりも何もなく毎日を時間が過ぎてゆくままに過ごしているからかもしれないけど夢みたいですごい日々だったなって思って、泣きそうになって、ちょっと悲劇的に泣いてみたりしてさ、そのときにりりとしたこと、別にうちのなかであったことだけじゃなくて、初めて遊びに行った日のこととか、あのときのしゃべり方といまのりりのしゃべり方ってかわっちゃったよね。昔はもっとあかるかったなとかいろいろ、ああ、川村さんも一緒に海にいったこととか、なんか、ひどかったよね。いきなり海にいこうっていってさ、何の準備もしないで。そのときは何でそんなこというのかとか疑ったりしたけど今思えばすごく楽しかったし、よかったっておもう。がらくたみたいにくだらないことばっかりしてたと思うけど、それでも、よかったんだ。うまくいえないや。なんていうんだろう、ありふれたいいかたをすると青春、とかそういう一言で片付けられちゃうのかも知れないけど、でもすごく輝いてた」「うん。そういうこと、小説に書いたりしたよ。毎日あったことを日記みたいに、りりのことと、宮ちゃんが何を考えてるのか想像して書いたり、あと、恥ずかしいような願望とか。でも、なにそれ、」青木が笑う、「宮ちゃんってまだそんな昔のこと考えてるの」「だって、今なんてないんだもん。りりはそういうこと考えないの」「ときどき、ほんのときどきだけ考えるよ。宮ちゃん、好きだったなあとか」「今は」「だって、もう、今日会うまでずっと会ってなかったんだもん。それまでは毎日あってたのにさ、記憶のなかの顔もぼやけちゃうし、だんだん思い出せなくなっちゃうんだ。ただ、好きだったっていうのは思い出せるよ。言葉のうえだけでも、もし全部思い出せても、きっとぼんやりしてるっていうか、ふわふわした好きだったのかもしれないけどさ」「そっか、私はいま、りりが好き」「それこそ、りりの昔の好きと同じだよ」「それでも、いま、好きなんだよ。ねえ、昔みたいにしていい」「そうやって訊かれるのやだよ」窓際にたたずんでいた青木の肩に女の手が触れる、特別抵抗する風もなく床に倒され、なんだか立場が逆転してしまったようだと思わされる。あのとき女は青木に慕われていたのか、だとすれば、互いに友達のいない連帯のようなもので、きかされるような輝かしい友情ではなかったかもしれない、もっと後ろ暗い斜陽のような関係で、思えばいつか自分も青木も学校を辞めてしまうような気はしていたし、そのことを自覚してわざと投げやりにしていたのかも知れないと思い至った。川村のことも含めて交合、なし崩しのままにされる性交渉が自分のうちに澱をためているような気がしていつか耐えられなくなる、それはわかっていたけれど耐えきれなくなってぼろぼろになってしまいたかった。そのことを青木に話したのは甘えたいような気持ちで、本当はだめになんてなりたくなかった、救ってくれる手があることを信じていたけれど、その手も自分でふいにしてしまったのだと気づかされる。「私、もうこんな生活いやだよ。だって、毎日何にもなくって、なんでもいいんだ、何か欲しい。恋、みたいなものだっていいし、ごめん、なんでもいいんじゃないんだ、りりが好きだと思う」「女々しい」「私、女だよ」「昔の宮ちゃんはもっと女っぽくなかったよ。見た目だけじゃなくって」「わかってるよそんなこと、でもそんな風に女々しくない風になんていまの私には無理だよ。りりに川村さんのことを話したとき、私はきっとりりに甘えたかったんだ。近くにいるってだけじゃない、自覚はできていなかったけどそのときからりりのことが好きだったんだ。だけど、気づけていなかったからちゃんと甘えられなかった。何もなくなっちゃったいまだからりりのことが好きってちゃんとわかる」「そんな甘えかたしないでよ……本当に、逆になっちゃったみたいだね」「だって、りりにはいま竹原先輩がいるんでしょう」「そうだね……でも、そんな好きな訳じゃないんだよ。もっと早くいってくれたらよかったのに」寝転がったからだが女を抱きしめる、昔は巻かれていた髪がほどけ、いいにおいがしていたのに今は何もつけていないんだなと気づく。無臭の、するとすれば服についた家のにおいとか、シャワーとかを浴びたあとの水や石けんのにおいでごわつくカーディガンに顔をつけると頬がちくちくとする。
「あのときみたいに悠のこと教えてあげる」「なにそれ、復讐みたい」顔をあげ間近にみると青木の顔が二重でなくなっていることに気づく。「目、どうしたの」「何が」「二重じゃなくなってる」「ただのアイプチだよ。話、そらそうとしないで」
「悠は、りりよりひとつ年上で、その分だけ大人なんだ。りりが学校を辞めてそういう、なんていうんだろう、煩わしいようなしがらみとかがなくなって子供みたいにすごしているからかも知れないけれどすごく大人に見える。大人で、どんどん汚くなっていくような気がするんだ。むかし、宮ちゃんにしていたことを悠がしようとするたび、そういう汚くなっていくものとかを形にしたみたいなのが入ってきて、すっごく気持ち悪い。気持ち悪くて、だけど、悠がいなくなったらりりは生きていけないからいやっていわないの。たぶん、悠も知ってる。知っててするんだ、それでもりりが受け入れてくれるからって」
 青木は自分の胸に顔をつけた女が震えているのを知っている。腕を強くまわし、逃げられないように押さえつける。
「やだよね、そんなの。いやらしい。本当、あのときメールくれたのが宮ちゃんだったらって思うよ。別に、責めてる訳じゃなくて、りりも自分から連絡しなかったし。というか、こうなるっていうのもわかってた気がする、中学生のときもそうだったし、中学生のとき、付きあってたひとね。ああ、すっかり忘れてた。りりね、宮ちゃんが川村さんと付きあえばよかったってずっと思ってたんだ。りりも宮ちゃんが好きだったけど、でも、川村さんと付きあってくれたらよかったなって。学校を辞めちゃったあと、りりたちには何もなくなっちゃって、それで、そうしたあとに学校じゃない居場所があるって、思えたらいいなって。ちいさな公団のなかで助け合ってるようなひとたちがいて、学校でも会社でもない、誰にも見つけられないかも知れないけど小さな居場所があるってことがあったらいいなって思ってたんだ。だけど、無理だったんだね。本当に、どうしたらいいんだろう。りりたちがこうやってすごせるのはあと何年か、いつかは働かないといけないもんね。それまでの時間を安心して過ごせればよかったのに、それはりりは自分の部屋にもなくて、悠のところにもなくって、宮ちゃんも見つけられなかった。毎日がつらいよ。毎日毎日、日が変わってカレンダーがすすんで、その度何もできないまま時間がすぎていったんだって思わされて、目減りしていく時間が、そういうのを忘れさせてくれるようなひとがいて、りりが自分で立ち上がれるようになるまで守ってくれたらいいのにって思うんだ……もしかして、それが宮ちゃんだったらいいのにな、とか、ときどき」
 流れた涙が薄いブラウス越しに染みこみ青木につたわる。復讐のつもりなのかそうでもない他のものなのかと考えながら女の頭を撫でている、ごわごわしていて指にひっかかる髪で宮田とはこんな質感をしていたのだなと思い出している。数ヶ月ぶりに会ったからこんなに懐かしむようなことばかり思うのか、回想されてゆく彼女のことにわずかな愛おしさを喚起され増幅させているような気がする。見てみれば自分の服装も制服で、彼女がきている服は学校の帰りに服屋をまわったときに買ったときの一枚だったと思い出す。もう冬の終わりで、売れ残りの冬物を選んでいた彼女は青木とおなじ制服を着ていて、コートを着て黒いごわつく髪がマフラーに巻きこまれながら背中にたれていた、彼女だけが生活のすべてであるような気がしてたくさんの小説を書いた、よく知らない生活をしているひとがいて、どうやったら近づいていけるかとおもって書いた欲望混じりの小説もどきを書いて捨ててと繰り返した。その一部はあたっていた気もするし外れた部分ももっとおおきかった、自身が好きであるものに近づこうとして、また貶めて相対的に近づけようとしていた。今では自分の胸のなかにいて小さな姿を撫でている、そのことを可愛らしいと思うのはいいことなのか、突き放してしまっていいのかわからないまま愛おしさのようなものを感じている。
「……でも、宮ちゃんは女の子だから、悠とは違う。出っ張った、ものなんてないし。触れても大丈夫な気がする」
「私たち、また、まえみたいになれるの……」
「どうだろう、りりたちの昔はもうすぎちゃったことだよ、学校がなくなって友達になったきっかけも、一緒にいる理由も最初のものはなくなっちゃったんだ。好きで、付きあってる、みたいに一緒にいるんだったらさ、それはまえとは違うものなのかもしれない。それに、りりだってずっと一緒にいたら甘えちゃいそうな気がするんだ。一緒にいて、つらいことを考えないですむかもっておもって、それだけのために、好きがどんどん目減りしていってただの依存になっちゃうかもしれないんだ。それが、怖い」
「りりのいってることわかんない……りり、私のこと、好き」
「うん……好き、かもしれない」
「じゃあ、いっしょにいようよお……」
「うん、いいよ。でも、いつか、悠がするみたいに宮ちゃんにしたくなるかもしれない」
 そうしてなし崩しの日々がまた始まる。曖昧なままの気持ちがゆるやかにつながり始める、日は暮れ、室内の明かりはハロゲンヒーターだけになる、ベッドで眠る二体の裸があり青色の寝息を吐いている、毛布のなかで眠る彼女らの気づかない窓の外では雪が降り始めている、階上の男はまだ起きていて、自分しか見ることのなくなった金魚の世話をしている、忘れさられたサボテンはついに枯れてしまったが気づかれることもない。階下の出来事も知らず、またああした日々がくることを想像している、女が夢想するのと同じ、輝かしいような日々があることを望んでいるけれど、あれは自分にとって最後のものだったのだ、若さの残滓のようなものを燃やして獲得した日々で、もう二度と訪れることはないと思い、安心を抱いている。女が学校を辞めてから、しばらくの間は部屋を行き来することがあったけれどいつしかなくなってしまった、自然消滅的で、くすぶる熾火が消えてしまうようなものだと、二度と燃え上がることはないものだった、あったとしたら今日で最後だったのだ。二度と、輝かしい日々なんてこないのだからいじけたような気持ちで安心している。水槽は四つから増えることはなく、アロワナを飼うこともない。艶やかな尾を揺らす金魚の目が男の底を見透かすようでいる、逃げるように立ち上がり寝室へもどった。明日は仕事で早く眠らないといけない、雪が降っていることに気づき、女と初めてあったときもそうだと思い出した。そういえば煙草もなくなっていたと思いだす。たくさん吸うほうでもないし別に明日でもよかった、階段の隅に彼女がいることを期待していたのだ。昼だって、また部屋にきてくれることを期待していた、階段を下ってすぐの部屋を訪れる気持ちになんてなれなくて、望むものはすぐ近くにあるのに手を伸ばすことはできない。棚ぼた的に与えられるものばかりを期待している。ビニール傘をもって部屋を出る、階段の隅、壁に隠されたところにあのごわつく髪の醜女がいると期待し、諦め、覗きこみもしなかった。女は自身の部屋で青木との生活を取り戻し、男のことなど思い出しもしない安心な夢のなかにいる。諦めてはいたものの裏切られたような気持ちで、階段を下りてゆく。

2

 年が変わりおせち料理をつくった。青木がたべたいといい、女は張り切ってふたりでは食べきれない量をつくってしまい、きっと暇をしているだろうということで川村を呼ぶことになった。ふたりとも昔の出来事に縛られてしがみついているようだと思ったけれどそれでも、こういった些細なことで生活を立てなおすことができたらと期待している。正月の公団は実家に帰るひとも多くがらんとしていている。のこった家族もちいさなおせち料理をつくったりして家族ですごしたりしているし、身寄りのいない老人はスーパーで買ってきた冷えた料理を口に運んでいる、それらと壁で仕切られ独立しているようである四〇六号室では三人の男女が集い温めなおした料理を食べている。楽しげで、これももしかしたら未来に楽しかった出来事の、失われた輝かしい昔のことのひとつになってしまうのではないかと危惧するけれど今だけは楽しく、目をつむるようにして楽しんでいる。部屋部屋のすべての生活は隠蔽されている、郵便受けや階段、廊下、公園など共有部分からしか人々の生活は伺うことはできない、すべては隠蔽され、すれ違う誰もが家の中に生活があることは手に提げたスーパーの袋程度から想像することことしかできず、生活の痕跡は覗えない。
 三が日がすぎ男は元通りの生活へ戻ってゆく、元通りにと願ったものはかなうことなくまたただのがらくたのような生活へ戻ってゆく。誰もが死んでゆくけれど、そのなかでも特に私たちは斜陽を眺めなにもすることなく待ち続けているようだと宮田も青木も思っている。それでもふたりですごすことは楽しくて、青木は実家に戻ることも少なくなった。いくらかの私物が運びこまれ、生活感の乏しかった部屋がにわかに雑然とし始めた。専用の食器や服、日用品を詰めた鞄、居間のテーブルに置かれたラップトップなどが生活を主張している。高校ではまだ冬休みが続いているけれど制服をきたふたりが公団をでる。いつかの出来事を回想する日々はひと月のあいだにすぎ、これからは自分たちの生活をしていこうという前向きな気がわずかにあった。男がきていたとき、酔いながらアロワナを飼いたかったと告白したことがあった。鮎も飼えなかったのにアロワナなんて無理だよと青木は自身が女と生活を共にしていることを笠に着ていうと彼は泣き出す、彼女は笑い、女は慰めるようにしていたけれど気持ちは青木のほうを向いていた。時々、青木は竹原に会いに行くといって部屋を出て行く。女のことは伝えられず彼は青木にとって自分は特別なものだと思い続けている。彼女がそれを露ほども勘定しないのは竹原には自分がいなくなってしまっても未だ居場所があるからだ。青木も宮田も悲劇的に互いには自分しかいないと思っている、そして、そういった生活があればいいと思っている。
 もう、互いに互いしかいないと信じているのだから誰に見られることを気にすることなく手をつないで歩く。でも、こんなの端から見たらただの仲のいい女子高校生なのかもしれないねと女がいい、青木はそれはすこし嫌だなと思いながら笑って返した。電車を乗り継ぎついたのはずっと昔のように思える日々の海だった。風が強く、駅前の噴水はとまっている。正月明けのばっかりなのに結構ひとがいるのだねと笑いながらすすむ。つなぐ手は素手で、もう片方には手袋をはめていた。寒風がコートを貫通して寒さを伝えてくる、絡めた指は体温をなくして関節がきしむ。駅前からまっすぐ伸びる道のさきにはがらすの建物があり、休憩所にはホームレスという風体の男がいた。汚れて元の色がわからなくなったジャンパーを着て、テーブルには二缶のビールがあった、彼女らは紙コップの自販機でコーヒーを買う。男はいつの間にかいなくなっていて彼女らだけになる。陽が差し込む席にいて、黒いコートの表面が温まっている。
「川村さんも呼べばよかったかな」
「今頃仕事だよ。もうお正月じゃないんだから」
「外寒かったね」
「電車の椅子の下の暖房って暖かいよね」
「そういえば、すごく久しぶりに電車乗った気がする」
「うん……学校いかないし、遠くに遊びに行く予定もないしね」
「でもそういえばりりの食器買いにいくとき自転車でいったよね。電車乗ればよかったかも」
「すっごい寒かった。でも、あれだよね、制服で自転車乗って、学校のほうの道とおってさ、それは怖かったけどなんか制服デートみたいで私、楽しかったよ」
「あはは、りりも」
 まどろむような陽が差しコーヒーの表面で反射してる。
「なんか、ずっとここにいたいね」
「こういうような暖かくて、なんだろう、海とか水族館とか行く途中のところ」
「そう、そういうところ。りりたちにもいつか未来がくるんだよね。その途中にいてさ、そういうところに安心できるところがあってさ、だから余計そうなのかな。未来がきてそのうち死んじゃってさあ、あーあ。宮ちゃんとずっと一緒にいたいって思ったりしてさ。でも、死んじゃうんだよね。働かなくちゃいけなくなったとき、だったら一緒の家に住むことはできるけど、いつかは本当に分かれちゃう。なんだっけ、とにかくさあ、そういう長い時間みたいななかを旅してるーみたいな感覚でさ、そういうなかに温かかったり輝いてたりする時間があるじゃん、いまみたいに。そういうところにずっととどまっていられたらいいなって思うの。りりと宮ちゃんの幸せな日があって」
「えー、なんか哲学的」
「今日のりりは頭がいいんだよ。でもね、学校とか行かなくなってあれじゃん、働きもしないでさ、だらだらもらったお金で毎日をすごして、楽しいんだけど、だからそういうことが考えられるのかもね。忙しかったり、つらいことばっかりだったらそんなことなかなか考えられないもん。本当、ずっとこうしてたい」
「でも、そういう風に思ってもらえるの嬉しいな」
「うん……ついでにいうけどさ、春ぐらいの日ってあるじゃん。なんかすごく天気がよくて風も少し吹いてて少し肌寒いけど暑くも寒くもない日。町中が静かで、ときどき通る車の音とか子供の声とか猫の声とかしないような日。一年に一回とかひとつの季節に一度くらいあるようなすごく穏やかで安心できるような日が。宮ちゃんと一緒にいるとさ、毎日がそんなような気がするんだ。家にいるあいだ、何もしないでも一緒にいてさ、なんか、すごく楽しいとか特別って感じじゃないんだけど、ほんのり幸せで特別って思えて……ありがとう」
「えっ、なにそれ……っていうか照れるよ」
「んーなんか少し眠たくって変なこといっちゃってるのかも、でも、宮ちゃんと一緒にいられて嬉しいのは本当だよ」
「そういえば、春は来るのかなあ」
「そりゃあ、くるんじゃないの。あと三ヶ月くらいしたらさ、何となく春っぽくなって、四ヶ月くらいしたら桜も散ってるかも知れないね……あっ、公園にお花見いきたい」
「でもあそこ混んでるよ」
「そっか、じゃあどこか他のところでも行きたいな」
「そういえば今度プール行こうよ。近くにあるんでしょ」
「ずっと運動してないしいいかもね」
「思えば学校の体育の授業は偉大だったね」
 未来のことを会話する、約束がされてゆく。彼女らはその未来がくることを信じているけれど、いつかなくなってしまうことも知っている。ずっと一緒になんていられない、いつか働かなくてはいけない日が来るまえに分れてしまうこともあるかもしれないのだから死ぬまでどころか春が来るまでも無理かもしれないことを知りながら約束を重ねている。無理だとしても今がたのしくてそれらをすべて見ないふりしている。青木は机に頬をつけ、女はだらしなく眠ろうとする頭を撫でている。穏やかな日差しもがらす窓にはばまれてとどかない、淡いほどけるような風も幸福なもののすべてがいまあり、巨大な未来の影におびえること、そのことも忘れている、忘れようとしている。海の向こうでは女たちに関係なく雲が積層し黄土色の塊になっている。根元の黒くなった赤毛に顔を覆われ青木は眠るふりをしている、女は指先で髪をはらい額をあらわにさせる。この先続いていくであろう膨大な時間、索漠としたもの、それらに近づくまでの休憩所のようなところだと女は思っている、いつまでも穏やかな日々が続く訳ではない、青木と分かれてしまう恐怖に身を捉えられ存在を確かめるように眉毛からこめかみ、顎のラインへ輪郭をたどってゆく。その一方で彼女が居続ける限り自分は無限に広がっていけるのではないかという希望がある。誰もいない休憩所、彼女らのふたりだけで占有し、誰かがきてしまえば崩壊するけれど部屋のなかのように。
「私たち、学校辞めちゃったんだね」
「うん……その話、するの」
「学校の人たちってどうやって生活してたのかな。毎日毎日さ、八時間くらいいるんだよ小さい教室に。私たちにはそれ以上に小さい机しかなかったんだよ。自分の部屋でない場所に何時間もいて、自分でないものが周りにたくさんある。だけどさ、そうじゃない人たちもいた。学校で楽しそうにしてる人たちってさ、騒いでたりするじゃん。ほんと、頭おかしいくらい大声でさ、廊下でサッカーしたり教室の床に寝転がったりしてさあ、そういう人たちって学校が自分の生活だったのかなっていまちょっと思ったんだ。私とりりの生活みたいに楽しかったりとかくだらないものとかがあふれた場所が学校で、いってみればさ、自分の延長みたいに感じてたのかもしれないね。私たちはさ、そういうことができなくて学校は自分と切り離された外の場所で、だからいるのがつらかった、よくわからないものが周りにたくさんあって疲れちゃったのかもしれない。学校には私とりりと、私たちだけだったら辞めたりなんてしなかったのにって思うよ……なんだかうまくいえないけどさ、あの人たちは学校と自分が同じもので、私たちは一緒になれなかった異物、みたいなもので……だから免疫みたいなものが働いて外に放り出されちゃったのかもしれない。これから先きっと学校じゃないところにもいかないといけないんだよ、そうしたときにもまた同じことが起こって、私はなにもかもが嫌になってりりに泣きつくんだ、きっと、未来のことはわからないけどさ、建物や場が自分の拡張になって一体化できないとだめなのかもしれない。えへへ、変なことばっかりいってるね」
「ううん。なんとなく、わかる。すっごく適当だったり乱暴ないいかたをするとさ、学校を辞めずにいられたひとは適応できて、りりたちにはできなかったってことでしょ」
「そうだね……でも、それがきっと、適応の仕方がわからない限りずっと続いていくんだ。学校には薄い壁しかない、机と机のあいだには何もなくて、教室さえも自由に出入りできる。公団のような建物とは違う、公団だったらさ、薄くてもしっかり隣と分けられる壁があるから生きていけるけど、互いが互いを自分の延長みたいに扱いだすのがつらいんだ」
「りりたちもそうだよ、きっと。りり、宮ちゃんがいなかったら生きていけないもん」
「りりはいいの。私もりりがいないと生きていけない、だけど、それは私たちだけ、公団のなかだけだよ。外に出たらさ、知らない人ともそうしないといけない。知らないひとと一緒にいないといけないんだ、互いに自分たちがいないと生きていけないみたいに振る舞わなきゃ」
「りりはさ、わからないよ。そんなこと考えなくっても生きていられたらいいのに。生きていられるだけで、ううん、宮ちゃんと一緒にずっといられたらいいだけなのに……もう、辛いよ、毎日が毎日続いてて先なんて見えないよ」
「もう、行こうか」
「うん」
 陽のもとにでる、冷たい風が体温を奪ってゆく。茶色い芝生の斜面にはバトミントンやサッカー、野球をする人たちがいる。その向こうの通路にはジョギングをする人たちがいる。女はそういった光景に耐えられないようなものを感じている、青木と自分、それだけでよかったはずなのに多数のものが氾濫している。家族や友人、その他想像もつかないような交友関係、連帯、互助がある。そのすべてが固有のものでなく、おそらくそのなかでも特殊であろう彼女らの関係すら探せばどこかにあるものだろう。すべてのひとに生活があり、ぼんやりとは想像できるもののその実は複雑を極め近づくことはできない。自分だって数ヶ月まえまではりりと暮らすことも、暮らしているときどのような生活があり、どう感じるのかなんてわからなかったと女は思う。つないだ手に注目されることはない。多くの人たちに隠蔽されている。団地が生活を集積させひとつひとつに注目することを困難にさせるように公園にあふれる人たちが彼女らの関係を何でもないものに変えてゆく。昔にきたときは川村と青木がずっと喋り、女はそれをきいていた。いまでは何でもないような会話をしながらふたりですすんでゆく。橋を渡り海にたどり着く、そこにも多くの人たちがいる。ひとりでいる人たちはほとんどいなくてたこ揚げをする人たちやただ海を見ている人たち、隣の人工島の保護区へカメラや双眼鏡をむける野鳥の会などがいる。人が多すぎて青木は疎外感を覚えている。足早に去り水族館へ向かう。ひんやりとした暗い室内に水槽が並んでいる、頭の片隅で男の金魚を思い出している、和室の端におかれた四つの水槽、どれにも金魚が泳いでいて、それから、アロワナを飼いたかったといっていたことも思い出す。小さなものから大型のものまでたくさんの魚が泳いでいる、入り口近くの水槽にはマグロもウミガメもいる。おそらく日本の海に泳いでいるものから熱帯のもの、極地のものまでがいる。足下についた小さな明かりを頼りに水槽から水槽へわたってゆく。男はアロワナを飼いたいといっていたけれどその理由までは聞かされなかった。巨大な観賞用の魚がいる公団の小さな部屋、もし男がアロワナを飼っていたとしても女が彼の部屋以外どの部屋のことも知らないように部屋の外の誰もが気づきはしないだろう。熱帯淡水魚のコーナーにアロワナはいる、宮田も青木もわらっている。大きな鱗をもつ銀色の平たい魚がいる。これが男の夢だった、巨大な魚、金魚よりもおおきく確かなものとして存在しているような気がする魚、おおきく呆けたような目をした魚だ。いくつも思い出すことはあるが感傷はない、もうすぎ去ったことを思い出させるものが目のまえにあるだけだ。まえに来たときの帰り道には駅舎のラーメン屋に寄り、昔の地図の複製を見た。大きな城はすでになくなり、いまではかすかな痕跡を残すばかりだ。遊歩道になった外堀の内側の高台にある公団、そこに城が建っていたと男は思っていた。巨大な城はなくなり、あとには巨大な公団がのこっている。そうだったら楽しかったのにと語っていた。
「宮ちゃん?」
「ううん……こんな大きな魚、家じゃ飼えないよね、なかなか」
「金魚くらいだったらいくらでも飼えるのにね」
「また、見にこようか」
「うん、また」
 また約束が交わされる、果たされない約束がいくつもできるだろう。何年後の未来に、アロワナから回想したのと同じように果たされなかったものを思い出すだろう。つないだ手は確かにあるにもかかわらずずっと取り残されている気がする、水温管理のためか暖房はあまりきいていない、吹きさらしの海辺から冷えてきしむ手が互いの手の内にあり些細な約束、そのことが彼女との距離を遠くさせているというよりも、いつか分かれるという言葉の欺瞞を気づかせる。いつか分かれてしまうことは間違いのないことだ、手をつないで死ぬまでなんて歩みの方向と速さが同じでなければ片方が無理をする羽目になる、だからいつか分かれてしまう。わかっているから口に出す、何度も繰り返し口にして来たるべきそのときにそなえているのだ。本当にわかっているのではなく、やっぱりそうだったと笑ってすませられるようにいまからそなえているのだ。
「絶対だよ。絶対また見にこようよ」
「う、うん……」
「来月、来月ね。またこようよ。来月だけじゃなくてずっと、同じ日はこの水族館にくるんだよ」
「どうしたの」
「だって、そうやっていつまでも続く約束じゃないと、ううん、それがあったとしても不安なんだよ。私、りりとずっと一緒にいたいって本当におもってるのにどこかで無理だと思ってるんだ。私のせいでもりりのせいでもない、何もなくてもりりはいつか私のところからいなくなっちゃうかもしれないし、私もどこか違うところへいっちゃうかもしれない、そうやっていつか、何事もなく、風にほどけるようにつないだ手も関係も消えちゃう気がするんだ。だから、いくつも未来に約束をつくっても不安で仕方がないんだ。毎月っていっても分かれちゃったらみんな無効になっちゃう、少しだけ不安はなくなるけど、それでも未来と同じくらい、というか、未来ってよくわからない膨大な時間があるせいで私はりりのことを一生好きでいて分かれないっていうのがうまく信じられないし、りりも同じなんじゃないかっておもって不安なんだ」
「いつまでも一緒にいたくても、いまのように一緒にいなくなったとしても、それでも仲のいいままではいられるかもしれないよ。毎日会わなくても仲のいいままでいられる人たちっているよ」
「そうだけど、そうじゃない」
「うん、わかってるよ……りりも、怖い」
 大きな銀色の魚は瞳に感情をやどすことなく水族館の暗い室内に視線を投げかけている。いつかと思ったことは達成されないかもしれなくて、川村さんもアロワナを飼いはじめることはないのだろうと女は思っている。きれいだけれど卑小で、夢を託すには儚い魚を無聊の慰めとして狭い部屋の小さな水槽にいくつも飼っているのだ。夢のように優雅で艶やかな尾があるだろう、その尾が小さな生命に自身の夢や生を仮託するもののすべてに祝福を与えてくれるはずなんてない、川村さんは小さな部屋を潰してしまってでもアロワナを飼わなくてはいけなかったのだ、そしてそれは私も同じなのだ。

 男は仕事を終え水浦駅を通る私鉄に乗る。多数の人間がはき出されるホームと混雑する改札口、疲労から途中で食事をする気にもなれず公団へ帰ってゆく。一年近くまえの帰り道に初めて女を見たのだと思い出すのは正月のことを少しだけ思い出したからだ。あの三日間だけは数ヶ月の断絶なんてなかったように過ごせていた、女の部屋に呼ばれておせち料理を食べて、三が日が終われば仕事へ出てでてゆく。それから女の部屋へ行くこともなく、自炊もしないため七草粥は食べていない。男には去年とかわらない生活がある、いつか、何の保証もないけれど生活が変わってしまう日はくるだろう。転職をするかもしれないし、水浦公団から引っ越すかもしれない。転職をしたら生活はまったく変わってしまうかもしれない、水浦公団を出てゆけば女と再び会うことはないだろう。けれどいまの生活は去年からずっと続いている、かわってしまう日はくるけれど来年も同じだろうという強い確信を抱いている。駅前の通りを曲がり商店街へ入ってゆく、この道で女の後ろ姿を見たのだ。それからの数ヶ月は夢のようだった、夢のようで現実感がない。職場での生活は変わらないけれど公団に戻れば女がいる、仕事と家の往復で浪費していた時間を帳消しにしてくれるような気がしていた。無為にした時間にいつか復讐されるような気がしてならなかったのだ、いま立っている地点の後ろ側、振り返ると死んだ時間たちが怨嗟の声を上げているような気がしてならなかったのだ。それが女と知りあってから分かれるまで目をつむっていられた、なし崩し的な関係で無為であるのはかわらなかったけれど、それでも楽しくはあった。まるでかわらない時間と今までにない時間があり二重生活を送っているような優越感混じりの楽しさもあった、高校生の女と知りあい恋人でもなければ友人でもない特殊なように思える関係に金魚に仮託していたものと同じものを見いだしていた。疲れもありゆっくりと歩いていた、商店街は途切れ道を折れる、公団の門はもうすぐ近くにあるが女の後ろ姿は見えない。門をくぐり階段をのぼる、会うことがなくなってからはその人のことをよく思い出す、部屋には戻らず廊下の奥へ、半年前の水族館へ行った帰りを思い出させる場所へ歩みをすすめる。それまでは屋上へいくことなんて意識の端にも上がってこなかった。金属の柵で閉じられた屋上への階段は相変わらず踊り場で閉ざされている。女が腰をおろしていたコンクリートの踏み段はもう何の痕跡も残していない、踊り場の下をみると電灯をつけた自転車が走っている、男からはわからないが近所の商業高校に通う女だった。怨嗟の声を上げる時間、去来する女とのことからまた目をそらして部屋へ戻ってゆく。襖を開けたままにされている水槽の部屋からは明かりが漏れている。食欲はないけれど腹は減っていて、ベランダにでて煙草を吸う。遠くを走る車とバイクの空ぶかしの音、柵にもたれていると階下の電気がつくのがわかった。女たちは干したままの洗濯物を取り入れるために窓を開ける。宮田と青木の声が聞こえてきた。何もかもがままならない気がして水槽のまえに立つ、水草のあいだを泳ぐ見慣れた緋色と白、黒の魚が男のほうを向いて口を動かしている。酸素が足りていない訳ではなく餌を期待しているのだ。餌をあげることをやめても、ポンプをとめても魚は死ぬだろう、白い腹を上に向けて浮かぶのだ。電源を切ろうと伸ばした手は止められる、女の背中を探すのも階段の隅に昔のことを見いだそうとするのも階下の明かりや声に感傷を抱くのもすべて過度のヒロイズムだということを男はもう知っている、女のように未来のことなんてすべてどうにかなる、希望はなくてもなんとかなる可能性を信じられる、ここでないどこかへいけると思える時代はすぎてしまったのだと彼女が考えていることを何も知らないまま思っている。摩擦の少ないなめらかな軌道があるだろう、平坦だけれどすばらしい軌跡があるのだわざわざ外れることもあるまいと思うのはすでに女と道が分かれてしまったからで親しかったころはその生活を背負い、二重生活の片割れを歩むのだと信じていた。気づいたときには分岐点はすぎていて、つながれていた手はもう片方の道に消えてしまった。失われた可能性を過大に評価している訳ではない、すでに女との盲目だったと笑ってしまえる時間に成りさがっているが、それでも、惰性かもしれなくても宮田かそれに代わるものを求めている。

3

 女が眠ったあと青木はひとり居間のテーブルに置いたラップトップに向かっている。宮田との生活に不満はなく日々がただ続けばいいと思っているがその毎日が随を甘くとろかしてしまうような気がしてこのままではいけないような気がしている、彼女との生活を遠くの、一足でゆけるところよりもさらに遠くまで続かせるにはどうしたらいいかわからないでいる。昔のことを思い出す、宮田と川村の関係を妄想し物語にしていた、ただの妄想でそうであったらいいとかそうであったら嬉しいとかと思って書いたものの一部が偶然であるけれど現実になったような気がして、だから今度も自分と宮田の幸せな未来を書くことでその一部でもが現実になってくれたらいいと祈りのようなものを抱いて画面に向かっている。背中の向こうの膨らんだ布団、一組しかなくてからだをつけて眠る場所は半分にしぼんでいる。きっとこれは何にもならないだろう、全部ただの妄想で書いたものが現実になるはずなんてない、それでもほんの少しでも、りりと宮ちゃんの毎日を支えてくれたら。
「りり、なにしてるの……」
「ううん。なんでもないよ」
「明日は、どうしようか」
「なんでも、いいよ。昨日と同じで。ずっと、それで……、」
「寝ちゃうの」
「少し目が覚めただけだから」

 時間がすぎてゆく、宮田と青木が分かれるときはまだきていない。冬は死にかけ、強風が街をすぎ、芽を吹く木、桜が花をつける。城址公園には花見の客が集まり焼きそばやたこ焼き、ビールを売る店がでる。それらも花が散ればなくなり公園は再び落ち着きを取り戻す。彼女らは女の卒業した小学校の校庭で真夜中に花見をし、市民プールにも行った、四ヶ月のあいだ水族館へ足を運んだ。五月がせまれば常緑樹がまばゆい芽を一斉に葉を開かせる、城址公園の林も街路樹も公団の公園のものもそうだ。亡霊のようだった林が膨らんだみたいだとベランダにいる女は見ている。公団のまえの道を自転車に乗った女子高校生がすぎてゆく、女と同じ水浦市立第二高等学校の制服だった。時計を見れば九時過ぎで、きっと寝坊をしたのだろう。宮田の両親は毎月決まった額を彼女の口座に振り込み、それだけで生きている。鴎と葉子は一月中に一度訪れることがあったがそれからはきていない。葉子は学校を辞めたのなら実家に戻ってこいと強くいったが、鴎のほうは同情的な視線を向けていた。女も自分の生活に確かなものはなくいつかなくなる夢のようなものだとわかっている。このまま数ヶ月のあいだ何もしないでいたらこの生活は取り上げられてしまう、隣に座る青木を見て焦りを覚えることもあるけれど、きっとどうにかなると思っている。彼女らのあいだには缶ビールと梅酒の瓶、吸い殻が五つはいったアルミの灰皿がある、女は男のことを思い出したのか煙草を吸い始め、青木もそれに倣った。春の天気がよく、吹く風は少し肌寒いけれど暑くも寒くもない日、町中が静かで時々通る車の音と猫の声しか聞こえてこない穏やかで安心できる日がある。春の暈が空気を白く夢のような気体に変えている。いつかくる未来の待避所のような日でしかないけれど泣きたくなるほど穏やかで、意識しなければ消えてしまうような時間だと女は思っている。女は青木にすり寄りながらビールをあおっている。城址公園の向こうを走るバイパスのうなりがかすかに聞こえてくるような気がしている。公団は静まりかえっていると思ったら五棟のどこかから洗濯物を干す音が聞こえてきた、けれど、それだけだ。視線を一瞬交わし、ビールと交代に煙草を喫む。
「りり、いま幸せだよ。未来は怖いし、いまの幸せも瞬きしたら消えちゃうかもしれないって気がずっとしてるけどりりといるのは幸せすぎるよ。未来のこともいまの一瞬だけは怖くない、一瞬が連続してずっと、こうしていられるって気がしちゃうんだ」
「いいじゃんそれで。いま幸せで、怖い未来も幸せかもって思えるんだったら、ずっと、こうしてようよ」
 女たちの生活は何にも守られることなく続いていく、わかっているけれどいつか終わりがくるもので、けれどそれまでをふたりで生きていきたいと望んでいる。うまく生きることができずに堕落してしまった、思えば自分らはもっと正しくて清いものだと感じていたのに現実とは乖離があり耐えられなかったのだ、耐えて生き延びることのできた川村、青木との関係は自然消滅したが新たな恋人を見つけた竹原はこれからも生きていくだろう。けれど、宮田と青木のふたりには未来なんてないし、無視しているけれどこれから先滅びてゆくものだろうと暗い影が頭上に差しかけている。毎月見に行こうと誓ったアロワナ、生活に不安の少ない階上の男が飼い続ける金魚、すべてのなし崩しになった生活に祝福はなくただ自力で死ぬまでを生きていくしない。けれど、とりあえずの今はどれだけ斜陽であり下り続けている日々であっても幸福で、学校を辞めてしまったとしてもはなまるの生活であると彼女らは信じている。そして、それらの生活は公団の一室に閉じこめられ誰もが知ることのないよう隠滅されている。