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(内容より組版がメインの本なのでpdfのほうがたぶん面白いです)

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1.電気とイノセンス
1. Modern Gravestone

 三つ編みの女の子が雪原を歩いている。ひろい雪の原だ。鋼鉄みたいな針葉樹が所々に生えていて、雪はずっとふっている。ゆるやかな音楽があって、雪も、ずっと、同じようにふっている。針葉樹も、ずっと生えている。彼女の低い視点では見渡せない雪原がひらけている。歩くたびに三つ編みが肩で音をたてる。ときどきかまくらがあったり、雪女や鳥みたいな女の人が無目的そうに歩いている。無視して歩きつづける。夢を見ている。真白な雪があって、針葉樹のある広い野を歩いている。前に、ときどき方向を変えたり、雪女に姿を変えたりしながら。
 真白な雪原は、輪郭も、時間も、距離の感覚もなくなってしまうから、雪女になってしまっても気がつかない。夢を見ているか、熱っぽく歩きつづけるのは、無表情の雪原が続いていて、樹が生えているのか、雪が降っているのかわからなくなるからだ。脚を前に、三つ編みがはねる。道はなくて雪が広がっている。雪女になると、前髪がはねる。小さな村みたいに集まったかまくらのなかには女の子が眠っている。鳥女を包丁で刺すと悲鳴をあげて消えてしまう。さっき見た景色が現れて消える。原始的な光景が広がっている。
 砂漠みたいにつかむことのできない景色が広がって、ここでは意味が求められないし、意味を求める大人も、求められない人間もいなくて、だから負担になるものがない。意味のないものがたくさんいるから安心する。怒られることもないし、ない考えを説明させられることもない。三つ編みを揺らしながら、雪原を歩き、電気のなかを歩き、子供の世界を歩き、森のなかを歩き、いくつもの景色だけのある薄い世界を歩いてゆく。いくつもの風景を歩き、ときどき目覚めてまた眠る。夢のなかで眠りから覚めて、最初に見るのはマンションのベランダからの風景だ。高層の住宅から見える景色は暗い黄土色の空で、風が吹いている。茫漠としていて、さわることができない。夢のなかで、ドアを開け、夢の世界を歩きまわる。夢から覚めても、ドアをあけようとするけれど怖くてできなくなってしまう。学習机とテレビ、ゲーム機、ベッドのある部屋、それから夢のなかが彼女の世界だ。雪の野、電気の街、砂漠、静かなデパートが彼女の世界だ。
 輪郭と時間と距離の感覚が消え、あたりは莫とした、表情のない広野になる。
 いつの間にか雪がやんでいる。そろそろ祖母のお見舞いにいかないと。三つ編みの女の子のゲームがうつったノートパソコンの画面を閉じてたちあがる。皓々と明かりのたかれた一人っ子の部屋から厳冬の広野へ出る。コートの重さが肩に心地よい。

 寒い。
 白と黒の海鳥が煙った空を飛んでいる。中空のからだは凍らないのだろうか。重たい雲を貫いてきた死にかけの光が鈍くあたりを照らしている。海辺の道は満足な日照をえられず、死んだ。
 海から一際つよい風が吹いて海鳥は枯葉同然に飛ばされる。まとわりつくもの全部飛ばして、汚いものの払われた、硬くて脆いものだけが残るといいなと思う。家を出てから、まだ誰ともすれ違っていない。こんな寒いのに徒歩で家から出る人なんていない。
 やんだと思った雪が降りだしそうだ。雪を連れてくる海のむこうにひときわ灰色の雲が渦をまいている。風が針葉樹の木立を通りすぎて枝のきしむ音がきこえる。白くなった森がかすかに揺れている。顔をあげると寒いから、俯いて襟の中に頬を埋める。脚を突きだし、早足で祖母の部屋へ向かう。つま先に蹴られた雪が煙みたいに舞いあがって、また積もる。除雪車が通ってまだあまり経っていたいみたいで、アスファルトはまだいくらか見えている。
 海と風の音しかしない。海鳥ばかりで二車線のアスファルトにしか人の痕跡を認められない。三つ編みの女の子が歩いていた景色を思いだす。白い景色が続いていて、歩きつづける。祖母のところまではあまり遠くない。飛ばされた海鳥がまた空の低いところで白黒の翼を羽ばたかせている。濁ったみずいろの鳴き声がきこえる。景色から色がなくなったみたいだ。冬の夜は早く、陽が暮れかけている。雲の溜まった空の端がかすかに赤のような黄色のような色をしている。陽が海の下にもぐったら、針葉樹林の緑も灰色になってしまうだろう。靄のような雲が空をおおっていて、星も見れないだろう。遠くから、除雪車のうなりがきこえてくる。風がつよく、耳元や襟元で渦を巻いた空気が低い音をたてている。氷河が続き、海と陸の区別がつかない。ここには、人の痕跡が認められない。足跡も、風に消える。間もなく雪が降り始める。遠くに、駅舎の影と、小規模な商店街が見え始める。
 この街はとても寒い。だから、気が滅入って精神を壊してしまうんだ。純真な子供も、大人も、祖母も。着込んでもからだの芯の、いちばん深い骨まで寒さがしみてしまう。無表情に雲が雪を降らせ、海風がみんな凍らせてゆく。動くものは海鳥くらいだ。接岸した氷河が船をだすことを困難にさせ、不凍液を入れないと凍ってしまう車が、寒さに軋むからだが家の外へ出る気力をそいでしまう。穴蔵みたいな家にこもって、虫みたいに静かにしている。だから、精神を壊してしまうんだ。寒さに、幻覚を覚え始める。眩しい。空から、雪といっしょに光がふってくるみたいだ。球形の空のいちばん高いところが晴れて、光があふれてくる。雲をわって光があふれはじめたら、春がくる。春がくれば、凍った森も融け、氷河もなくなる。街には動物と、鮮やかな緑の芽が吹き始める。穴蔵にこもった人々は重たいからだの熊みたいに家を出て、友人を訪れる。そんな季節の幻が見え始める。耳元で、耳朶と襟元で迷子になった風が音をたてている。早くいかないと風邪をひいてしまう。祖母のところまであと少しだ。
 ホテルにつく頃には雪がつよくなっていた。二本の、ギリシアの宮殿みたいに生えた柱がポーチの屋根を支えている。二段の階段がついた生成みたいな色のポーチは、雪に埋もれかけている。雪のふる空は灰色の雲が薄暗く渦を巻き、轟々と音をたてている。踵が触れると凍っているみたいに硬い音をたてる。コートについた雪を払う。軋む観音開きのドアを開ける。光と熱が溢れだす……
 吹き抜けのある巨大な空間がひらける。吊るされたシャンデリアが眩しい光をあふれさせ、赤い絨毯に影を落としている。空調の熱がうるさくあたりをおおっていて、ぼんやりとしてしまう。骨までしみた寒さはなかなか払えないけど、皮膚の表面にあたたかさが触れる。シャンデリアの明かりが眩しい。吹き抜けは高くて、天井がかすんで見える。光が墜落してきそうだ。虚飾の絢爛だ。光の乱舞は安っぽい。最後に客室いっぱいになったときはいつだった。きっと、お祭りみたいだったろう。受付の老女がゆるやかに顔をあげ、ぼくの顔を見るとまた手元に視線をおろした。帳簿をつけている訳でも、暇をもてあまして雑誌を読んでいる訳でもない。じっと手元を見て、時間を無効にしているんだ。ぐらぐら、足下が揺らぐ。目を閉じて、子供の頃から通ったホテルを歩く。転ぶことなんてない。すり減った絨毯を歩いて、階段をのぼる。いちばん上に、祖母の部屋がある。子供の頃はこの螺旋階段でよく遊んだ。祖母は、ぼくが生まれたときからホテルに住んでいて、だから、よく遊びにきた。めまいは少し収まった。目をあけて歩き出す。シャンデリアは堅牢で、揺れることなく天井に据えられている。
 三階建ての、街でいちばん高くて光にあふれたところなのに、死んだみたいに静かだ。客が来るところを見たことがない。いちばん上の、いちばん広い部屋に住む祖母しかいない、祖母の家だ。二階までのぼって、受付の老女を見る。手のいれられない白髪の蓬髪に薄い影がおりている。置物みたいに椅子に座っている。手元は、影になっていて見えない。音楽も流れていなくて、ひたすら静かだ。シャンデリアから放射される光と、室内にあふれた熱しかない。アフリカの大地で雨ざらしの大きな白骨みたいに死んでいる。いつか、このホテルも管理する人がいなくなり、外の雪や風、海と同じものになってしまう。ロビーにおかれたまばらな背の低い椅子と机は擦りきれたままずっと使われたあとがない。置物の老女は植物みたいに静かにしている。
 祖母の部屋の前について、「おばあちゃん」ノックする。いつものように返事はない。部屋の番号が書かれた真鍮のプレートは黒ずみ、文字が消えかけている。錆の浮いたノブをつかんではいる。部屋の中も、皓々と光がたかれている。
 祖母は、うずたかく蒲団や毛布、枕のつまれたベッドのなかで眠っている。「おばあちゃん」
「…………」
 目は覚めないみたいだ。ベッドの隣に置かれた椅子に座る。肘掛けや、サイドテーブルの端を撫でていると、ゆっくり目をあける。
「起きていたよ」
「そっか」コートをかける。
 ゆっくりした、彼女の肌みたいに乾燥した声だ。白い髪が空調に、たんぽぽの綿みたいに揺れている。青い目がどこを見ている訳でもなく、天井のあたりに向けられている。彼女の口のなかや、喉、からだのなかはみんな乾燥していて、砂が詰まっているんじゃないかと思った。哀れんでいる訳でもないのに無性に悲しくなる。
「今日も、鯨の夢をみたよ」訥々と喋りだす。「広くて青い海でねえ、暑かったんだよ。見たこともない椰子の樹が生えていて、砂浜が白かった。青くて大きな鯨がいてね、浜に打ちあげられていたよ。夢のなかであたしは若くって、そう、きっと、おじいさんと遊びにきたのかもしれないねえ。そんな暇なんて、なかったのに……」祖母の眠るベッドの後ろには窓がある。街でいちばん高い窓からは、遠くの島々が見える。凍った海の、雪に白く煙ぶった空気の中にぼんやりと城がみえている。昔は街を守るための城で、今は修道士のすみからしい。話にきくだけで、いったことは一度もない。「……だから、そんな夢をみたのかもしれないね。おじいさんは、昔は忙しくてってね、そんな、バカンスにいったりする余裕なんてなかったんだよ……。それだから、いま、あたしはこうしていられるのだけど。ねぇ、夫と一緒に死ねたらどんなによかったか。こんな、自分の生まれた街とはいえ、寒い街のホテルで死ぬのを待つなんてねえ。ああでもこうやってホテルにずっといるのも、旅行の方法なのかもしれないねえ。娘の頃は、こうやって毎日をホテルのいちばん上の階ですごすことなんて想像もできなかったんだから……」本当は、鯨の話なんてききたくない。歳をとって現実と夢の区別のつかなくなった、現実とつながる方法をなくしてしまった祖母の夢の話だ。「……そう。鯨の話だったね。鯨の夢はよく見るよ。色々なところにいるよ。さっきみたいに浜に打ちあげられているのも、海をわたっているのも、空を飛んでいるのも、宇宙にだっているよ。鯨は、どこにでもいるんだ。浜の鯨は傷ついていてね、あたしは、夢のなかでしかできない方法で鯨をなおしたよ。鯨は空を飛んで、この街まであたしを運んでくれたんだ。それから、海のむこうのお城へ行ってね。そういえば、いまみたいに雪も降っていなかったし、海も凍ってなかった。白いのは、雲と、白樺の樹皮だけだったよ。夏だったのかもねえ……」
「それで、お城のなかはどうだったの」
「もう、忘れちゃったよ。また、鯨にあったら連れていってもらって、そうしたら話すよ……」最後まで話し終えるといやいやをするように首をふり、祖母はもう疲れてしまったという風に枕に頭を据えなおす。雪の混ざった風が窓がらすを揺らしている。これからもっと吹雪くみたいだ。これじゃ、家に帰れそうにない。
「夢は、いつも見るの」
 もう、何度も繰りかえした質問だ。祖母はもう、記憶を保つことができず、ぼくがいつきたのかも覚えていない。そのうち、名前も忘れてしまうのだと思う。そういう風に、みんな忘れて子供のようになった世界はどんなところだろう。やっぱり、子供のときの記憶みたいに幸せなのか。子供の頃だったら、大人は、両親と学校の先生しかいなくてとても幸せだったのに。
「さあ……どうだろうねえ……もうみんなわからないよぅ」いい終えると祖母は目をとじ、こと切れたように動かなくなった。赤ん坊の服みたいにやわらかく、真白な綿の蒲団が軽く上下していて、まだ生きているのがわかる。
 風は強くなり、日が落ちた空は暗くなる。帰れないだろう。今日はホテルへ泊まっていくことになるみたいだ。家に電話を入れないと。海と空からやってくる風が羊の角みたいに不吉な音をたててあたりを揺らしている。風とは違う低いうなりがきこえてくる。車が走っているみたいだ。冷えるから、カーテンを閉じてあげよう。そうしたら、夜は長いのだし、お茶でも淹れよう。ストーブの上でやかんが蒸気をあげている。
 お茶を淹れて携帯灰皿と煙草を取りだすとドアがノックされた。「どうぞ」背中を背もたれに落ち着かせ火をつける。ライターの石を擦る音が一瞬だけ印象を残してすぐに空気に溶けた。祖母が起きている間は煙草は吸えない。もっと小さな頃、彼女の前ではいい子にするようにしていたせいかもしれない。そのせいで、いまも無意識にいい子に振る舞ってしまう。本当は、全然いい子じゃないのに。
「いたんだ」女の子がはいってきた。子供の頃から仲のいい子だ。
「声でわかったでしょう。おばあちゃん、寝てるよ」指に挟んだ煙草がゆるやかに煙をのぼらせている。
「そっか……」彼女はまだ雪の破片がいくつもついた帽子とコートを脱いでかけた。
「死んでるみたいだね」
「そんなこといわないの」頬のほくろにかかった髪を見ている。
 椅子をひいて座る彼女と立ち代わりにお茶を淹れにいく。「いいよ。自分でやるから」座ったばかりの椅子をたち、ストーブの方へ足音をたてずに歩いてゆく。火のついたままの煙草が未だ手持ち無沙汰に指の間で煙をあげている。煙草を口に運び、ティーバッグを棚からとりだす背中の動きをみている。彼女は、何を思って祖母のところへ来るのだろう。もっと、他にやることがあるでしょうといってしまいたくなる。それこそがぼくの一番嫌いな態度なのに辛くあたりそうになる。
「…………」
 無言でカップとクッキーの入った皿をテーブルに置く。
「どうして、そんなにやさしくするの」吹雪が窓がらすを揺らしている。カーテンの隙間からみえる窓枠に雪がたまっている。「…………」
「どうしたらいいかわからないよ……」短くなった煙草を携帯灰皿にしまう。
「やさしくしたいんだよ」彼女の目は前を見ていて、カーテンの向こうの凍った海をみていた。やかんが湯気をあげる音がきこえる。

 車は吹雪のなかをゆっくり走っている。海沿いの道は街灯がなくて真暗で、海と空がぼんやり白くなっている。針葉樹林は暗くてどこまで続いているのかわからない。タコメーターからあふれるかすかな緑が彼女の顔を照らしている。
「家まで」
「もう、どこでもいいよ」
 本当は、歩いて帰りたかった。体中雪だらけにして、寒くて、死にそうになって、余計なことなんて何一つ考えられないようになりたかった。「どこでもいいって……」優しくしてもらっているにもかかわらず、優しさが無遠慮に感じられてしまう。自分はいやらしいものなのだと思う。「どこでもいいの」
 ラジオも音楽もなくて、あたりは真暗で海の底にいるみたいだ。車のうなりしかきこえない。凍った海の先に修道院の明かりがかすかに見える。無彩色に沈んだなかで、星みたいにある。「家に、帰らないの」「きれい……」海は冬のあいだ氷に覆われて、海水は見えない。春がくるまで厚い氷のしたにある。春は遠い。ずっと、冬が終わらない気がする。いつか、冬が終わったときのことばかりを考える。
「家には帰らないの」
「わかんない。あんまり帰りたくないけど、帰らなきゃ」
「うちにくる」
「お願い」
 うなりが大きくなる。修道院の光は背後に流れ、からだは重たくなる。こんな風にされるなら、車から追い出されたかった。優しくされるのが大嫌いで、冷たく扱われたかった。目を閉じて、彼女の家までを待つ。そのうち、大切なことのすべてがわかるような気がしていたのに、いまはもう何もわからない気がする。襲撃する日々や秒針を無効にすることを考え、解消できない不安や苛々に目を向けないために眠り続けたり、椅子に座ってじっと時間をやりすごしていたからだ。もっと小さな頃はただ、生活をしているだけですべてがわかった。手漕ぎのボートでいけるけど一度も足を踏み入れたことのない修道院のことを考えたり、針葉樹林の柔らかな土に触れたり、磯に流れ着いた魚の死体を眺めているだけですべての大切なことを知ることができた。だけど、いつの間にか何かがわかる予感も、輝かしい気持ちもなくなっていた。歳をとりすぎた。これ以上生活を続けることができないとを知った。
「下ろして」
「外は吹雪だよ」
「いいから。もう、ここにいたくないんだ」春の、雪が溶けてできた泥濘に足を踏み入れてしまったような気持ちだ。ひたすら気持ち悪くて、倒れ込んでしまいそうになる。めまいがして、いま以上に何もわからなくなってしまいそうだ。
「だめだよ」いまなら、まだ、引き返すことができると信じたい。「どうして」いま、ここで、決別して、引き返すことができたら、「風邪をひくから」「そんなの些細な問題だよ。お願いだからそんなことをいわないで……」泥濘から足を引きあげ、小さい頃の青い蒸気のような空気に触れられるだろう。「いうよ。きみが風邪をひくのなんて嫌だし、それに、こんなに吹雪いていたら帰れないよ。星もなくて、道も見えないんだよ」彼女は目をじっと前に向け、エンジンはさらに音を大きくした。修道院は遠くはなれてゆく。
 けれど、ぼくは、弱いけれど彼女よりもずっと力の強い青年だ。手を押さえつけることも、足を伸ばしてブレーキを踏むこともできる。でも、しなかった。できなかった。できなくなっていた時点で、決定的に引き返すことはできなくなっていたのだと思う。泥濘に、腰まで漬かっていて、もう、抜け出す気力も、なかったのだと思う。失くしてしまったときは遠くて、どうやってそうしていたのかも思いだせない。
「それでもいい。いまは、一緒にいるのが辛いんだ」大切なことだったのに、もう、思いだせない。どうやってそうしていたのか、いつ失くしたのか、失くしたあと、どうやって生活を続けようと思ったのか。何も。
「それなら家まで送っていくから」
「やめて……」試されていたのだと思う。
「優しくしたいんだよ」ぼくは、目の前の彼女を殺せるのか少し考えた。もう、できない。
 真暗ななかをヘッドライトが照らしている。雪は緑っぽい色で迷惑そうに瞬く。氷河の下の魚は寒さで眠ったようにしているだろう。ぼくの眠りと違って、深宇宙からやってくるような孤独や不安を感じずに、頭蓋骨の裏側を擦られるような苛々から逃れるためでもなく、考える必要がないから眠っているのだと思う。ああなれたらいいなと思う。表情のない気怠くて胡乱な目をした魚になれたらいい。冬の日が続く毎日が終わり、海の氷と雪雲が晴れるときを目をつぶってじっと待った。

2. Giant Graveyard

 彼は試されて負けたのだと思う。雪や氷、鈍い雲にとざされた冬が終わって、街が生命にあふれる春になった頃、流氷の離岸した海へ漕いでいった。
 まだほんの所々に流氷は浮かんでいたけれど、彼は上手に櫂を動かし、海鳥がまばらな流氷の上でくちばしをせわしなく動かしたり、空を飛んだりしているところを眺めている。長い冬のあとでほんの少し気温が上がっただけなのにとても暑く感じる。雪が融けはじめて空気が蒸している。空は黄色く濁っていて気持ち悪い色になっている。白と黒の海鳥はときどき威嚇するように鳴かせ、つよい風を吹かせたり、冷たい水が渦を巻いている海は怖いと思う。彼は何も気にしないみたいに淡々と櫂を動かしている。海にもぐって、持ちあげられて、櫂の先から水がしたたる。翼みたいだ。
「修道院にいる人たちは何をしているのかな」修道院の建つ島は岸からそう遠くないところへ浮かんでいる。もっと小さな頃からいってみたいと思っていたもののいったことはない。トム・ソーヤーのように筏をつくることはなかったし、内向したわたしたちは家にこもってテレビゲームばかりしていた。
「聖書を読んだり、祈ったりしているんじゃないかな。毎日、毎日。繰りかえし」
「飽きちゃったりしないのかな」
「ときどき嫌になるかもしれないけど、飽きることはないんじゃないの。ほら、だって、じっと、目をつぶって神様のことを考えたり、みんなが幸せになってくれたらいいなとか、平和になればいいな、とか考えるんだよ。すごくいいことじゃない。ぼくみたいにさ、なるべく辛いことや苦しいことを考えないようにじっとしたり眠ったりして、辛いことなんて考えるつもりなんてないのにそうして毎日何もできないのが嫌になって苦しくなって、ってしているよりずっとずっといいような気がする。うーん。違うかな。よくわかんないや。あはは」彼はそういって笑っている。べたつく風が頬や耳にはりつくみたいで気持ちがわるい。修道院まであと少しだ。何の音もしないで、堅牢な石造りの建物は強い風が吹いても揺らがない。修道士たちの姿はどこにも見えない。本当は、修道士なんていなくて、あの建物もただの廃屋なんじゃないかと思う。
「むずかしいんだね。いいことを考えても、毎日そうしてたら疲れちゃいそう」
「そうかもね。でも、祈っている間はきっと真剣だから、今日は蒸し暑いなあとか、仕事がめんどくさいなあとか、今日は食事の当番だーとかって考えないだろうし、そういうのがいいんだと思う。いいっていうか、希望にあふれているっていうか。別に、目の前の現実を考えないために祈るっていうのはわるいことじゃないかもしれなくて、なんだろう……本当は、自分の生活のこととか考えないで神様のこととかみんなのことを考えて祈るのがいいのかもしれないけど、というか、そんなに祈っても何も変わらないっていうか……たとえば、すごく嫌なことがあったときとか、困ったときとか神様に祈るけど、現実には神様は助けてくれないし、むしろそうやって祈っている間に事態はわるくなるかもしれなくて、それでも、何の効果がなくても神様のことを疑わないで信じられるってすごいことだと思う。だって、何をするにも見返りを求めたりする人っているじゃない。そういう人ってたぶん、自分が何かをしてあげたのに報われないのが悲しいのかもしれないじゃん。たぶん。あそこにいる人たちは、たぶん、心の底では神様は本当はいないってわかってるんだけど、それでも口に出したりしないで祈っている訳じゃん。絶対に報われないし、そもそも、みんなが幸せになって欲しいって思ったら人のことを助けたり、戦争をやめて欲しいって思うなら署名活動をしたりすればいいじゃん。でも、愚直に、祈る訳じゃん。それで、何も報われなくても神様は何もしてくれないとか思わないでいられるんだよ。それってものすごい……なんか、こんなの全然いいたいことじゃなかったのになあ……。それに、なんか、とか、たぶんばっかりだし」そういう彼の口調は軽くて、いつもよりずっと多い。蒸していても、春になって、相変わらず薄い雲はかかったままだけれど空から雪雲がいなくなったのがいいのかもしれない。
「じゃあ、きみも祈ってみたら」
「難しいなあ……やっぱり、神様はいないって口には出さなくてもわかっちゃってるし、そんなにがんばれないと思う。報われるとか、報われないじゃなくて、そもそもそんなに余裕がないんだ。希望とか、上手にもてないんだ。すっごく難しい。嫌なことばっかり考えちゃうし、全然集中できないと思う」また笑って、櫂を動かす。「今日は、やっぱりやめようか」
「せっかくここまできたんだしいってみようよ。きみの話きいてたら修道士の生活が気になってきたし」
「うーん。怖いんだ。自分みたいにちゃんとしてない人間がこんなところにきてもいいのかなって」
「そっか、じゃあ帰ろうか」
「漕いでくれるの」
「いいよ。疲れたら交代してね」
 彼が祈ることを考えているかたわら、わたしは優しいということについて考えていた。わたしは、なるべく人に優しくしたいと思っている。わたしは、彼に何をできるのだろうか。彼の抱いている不安や恐れをなるべく取り除いてあげられたらいいと思っている。でも、現実にそれは難しいし、そもそも、そうすることが優しいことなのかもわからない。優しくしようとするたび、彼は投げやりになっていくように見えるし、だったら、何もしないで、かかわらないでいたらいいのかな、と思うけれど、それもやっぱり違う気がする。早く、彼をとらえているいやらしい、未来だとか、理不尽な出来事だとかを取り除いてあげないと、決定的に彼を損なってしまいそうな気がする。いまだって、笑っているけれど、笑顔はぎこちないし弱々しい。冬のせいだけじゃなくて、長い間、彼をとらえているもののせいだ。少しずつ、衰弱させて、いつか彼を殺してしまう。
 でも、彼を助けられるような優しさって何だろう。彼を助けるものでなくても、もっと、よくあるような優しさというのがわからない。
「やっぱり、岸まで漕ぐよ。きみよりずっと力持ちだと思うから」
「そんなことないよ。ずっと家にこもっているけど、きっと、そんなに衰えてなんかないよ」
 海鳥はわたしと彼の乗ったボートのうえを旋回している。ときどき甲高い声をあげて、威嚇されているみたいだ。海水はくらくて底がみえない。水は渦を巻いているみたいに揺らいでいる。冬の頃より高いところでわだかまっている土色の雲も空で渦を巻いていて、ときどきごうごうと風のふく音をたてている。

 そうして遊んだ翌日、彼は梁に引っ掛けた縄で首を吊っていた。わたしが、最初に見つけた。目が見開かれていて、舌が唇からこぼれていて、醜くて、彼が死んでいたことよりも先に、こんな姿になってしまったことが悲しくて仕方がなかった。それからゆっくり、昨日には既にどうしようもないほど弱っていたことに気がついた。
 葬式が終わり、彼の祖母を訪れた。彼女は脚を悪くてホテルから出てこられなかった。電気の皓々とたかれた室内で眠っている。もう、冬は遠くにいってしまったのに、変わっていない。植物のように静かに息をする姿をみていると生きているのか不安になる。彼が逝ったように彼女も手の届かないところへいってしまう。静かに、みんな終わってしまうのではないかと思う。不安になる。冬のように陰鬱な未来が襲撃し、大切なものをすべて奪ってってしまう気がする。
「おばあちゃん」
 襲撃する未来や理不尽は何も慮ることなく大切にしていたものを奪ってゆく。大切にしていた記憶や感情も、彼も、何もかもを失くさせてしまう。わたしの未来はどこへいってしまったのだろう。もっと小さな頃だったら、何も疑わずに未来を信じられたのにいつの間にか消えている。幼年は終わり、少女もすぎて、何も信じられなくなってしまった気がする。彼が死んで感傷的になっているのかもしれない。ベッドの脇に設えられた姿見に自分の姿が映っている。中学生相当の、細っこくて頼りないからだだ。雪国から出たことがない肌は白くて、でも、幼くて重たい。制服の袖から子供の丸さをまだ保つ指がこぼれている。もう、何年かしたら、指は骨に皮をかぶせたようになり、手足には脂肪がつくようになる。憂鬱だ。
「あら、千尋、きてたの……」ベッドに横たわったまま答えられる。「そんなに真っ黒な服を着てどうしたの」彼女は、何も知らないんだ。自分が歳をとったことも覚えていない。目がきらきらとしていて、わたしよりも幼く見える。
「わたし、怖いよ。未来が、みんな、どこかへいっちゃうんだ。不安なの。大切にしていた、絶対に失くしたくないものがみんな消えちゃうんだ。不安だし、ひとりぼっちの気分なんだ」
「だいじょうぶだよ。全部」
「そんな訳ないよ」言葉は静かで、冬を過ぎてつけられなくなったストーブはじっとして床に座っている。
「未来が、怖いんだ。不安で、孤独で……」
 彼がいなくなってしまって、この街に残りつづける必要はなくなった。

3. Used Graveyard

 千尋は街を出てゆき、雪国にはあたしひとりが残った。ホテルのいちばん上の階を訪れるのはメイドしかいない。そのことをさみしいと思わない。充分に生きたし、楽しんだしいますぐに死んでもいいと思う。夫が死んでから、ホテルにこもり続け、ゆっくりと自分を白痴にみせる準備をしてきた。最後の楽しみだ。
 もう、何も知らないふりをしなくていいけれど、やめる気は起きない。こうしているほうが楽しい。何も知らないまま、大昔の少女のように振る舞っているほうがずっといい。ドアがノックされる。掃除婦の到着だ。昔は、屋敷にこうした彼女がたくさんいたのだけど、屋敷も彼女らもどこかへいってしまった。
 返事を待たずに、失礼します。と若い老女がはいってくる。
「あの、島へ行きたいねえ……」
「また、その話ですか」
 人なんて、歳をとってしまえばほとんど同じになってしまう。掃除機をひきずった彼女とあたしは二十以上歳が離れているけれど、見た目はどちらも皺くちゃで変わらない。あたしと彼女が入れ替わってしまっても気付く人は少ないだろう。
「そうじゃなかったら、アフリカにバカンスにでも行きたいねえ。せっかく、春になったんだし、遠出もしたいよ」
「私がもう少し若ければ連れていってあげられたかもしれませんね。島にも、アフリカにも」
「何をいうの。あなたなんて少し若くったってあたしとそう変わらない老女じゃない」
 からだも動かなくなってしまったし、どちらへも行けないだろう。だけど、あたしは充分に生きることを楽しんだ。孫は死んでしまったけれど、孫のガールフレンドは都会へ出てよくやっているだろう。そのうち、電話や手紙が届くかもしれない。そのことを楽しみにしてあと少しすごしていればいいんだ。
「ねえ、あたし、本当はぼけてなんかいないんだよう」
「そうですね……」彼女は何を考えているのだろう。あたしくらいになったときのことだろうか。
「ねえ、今日は、掃除、自分でするよ。なんでもできる気がするんだ」
「そうですか。見ていますね」
 ベッドから出て、皺々で骨ばかりの脚で立つ。窓から春の陽を反射する海が見える。
 こうしていると、みんなわかってしまったような気になれる。死の足音が近づいていても、うろたえることなんてない。とてもいい気分だ。

2.セイタカアワダチソウの条件
1 河口
 住む家の近くを流れる荒川の河口にセイタカアワダチソウの花束を投げこむ姿を想像する。澱んだ流れの終着する、海へ接するひろい河口はきたなくて、濁った泡とかビニールの切れ端とか、流木とかが浮かんでいる。そういうところに花束を投げ込むところを想像するけれどうまくできない。自分にはそうするだけのものがないのだと思う。何も真剣に考えられないから。
 首都へやってきてから海へいったことはない。雪国の沿岸で育って、雪にも流氷にもふれない冬は初めてだ。重苦しい雲もなく、陰鬱というより陰惨な気候は同じ国のうえなのに姿をひそめていて、異邦というよりも違う星に立っているような気分になる。知識では温帯の気候も、ステップや熱帯の気候も知っているけれど、長く雪国で育って上手に信じることができない。わたしの実体は少しずつ整理されつつあるものの未だ雪国におきざられたままだ。親しい少年の死や、彼の痴呆をわずらった祖母の住むホテルが根底に流れてたままそのことにばかり気をとられる。夢をみているような状態で、どこにいるのかわからないし、上手に考えることができない。歳ばかりを重ねて、からだがどこか遠くへいってしまった気がする。
 だから、というのは違うけれど、海へゆきたいと思う。首都の海はきっときたない。工場の廃棄で育ったセイタカアワダチソウの花束はあぶくにのまれて濁った海底に沈んでしまう。腐ってゆく。
 今日のこれから、家に帰ってからのことを思う。嫌なことばかりだ。そもそも、真冬にセイタカアワダチソウは生えていない。枯れた葦やスズメノテッポウの花束はならつくれるけれど、セイタカアワダチソウは生えていない。橋の上を歩くとなりを自転車にのった高校生のふたり組がすり抜けてゆく。舌打ちをこらえ、つま先をじっとみて帰りを急ぐ。あたたかくない薄くてごわごわしたコートの裾が揺れる。学校は嫌なことばかりだ。肩にかけた学生鞄を河に投げすてたくなる。彼が考えていたのはこういうことだろうかと少し想像する。社会と接点を持つのが面倒で仕方がない気分で、だけど、しっかりできない自分が嫌だ。それくらいのこともできないまま漫然とすごしているのがすごく嫌だ。彼と同じように命を絶つ姿を、なるべく現実感をもって想像しようとするけれど、花束を投げ込む姿と同じように想像できない。やっぱり、自分には無理なのだ。無気力で、意思を決定できない。

 チャイムが鳴り、彼がきたことを知らされる。居留守をしても他にいく所がないことなんて知られているだろうから諦めてドアをあけた。
「やあ」
「…………」
「緊張してるの」
「してないよ。別に……」
 土足を脱いで部屋に上がってくる。古びた学生用の革靴がだらしない格好で所在なくころがっている。彼のこういうところも、制服も学生鞄も革靴も大嫌いだ。
「眠そうだね」乱れていたスカートの裾をなおす。「少し眠っていたんだ」口調が硬なっていて、緊張していることを意識させられる。大嫌いだ。
「帰ってくれない」
「今更そんなこといわないでよ」そうやってにやにや笑う。
 1Kの入り口でどうすることもできずに棒立ちでいる彼は自信家のようで小心だ。流しで水につけられたままの朝食の食器は薄く濁って、ぬめっているような水のなかで無言の抗議をしている。襲撃する日々につかれてしまい、生活を不能にした自分の姿を想像するのは命を絶つところよりも容易い。大嫌いな学校に行かなくなり、部屋で一日をすごす。料理を作ることも、掃除や洗濯をすることもない。ベッドに横たわり、まどろんでいる。生活を殺してしまったら、わたしは人間としてあれない。
 規範的に白い靴下をはいた彼が手首をつかみ、奥へ引っぱってゆく。ここはわたしの部屋だと抗議できずに、泣けないのに泣きそうになる。
 もっと小さな頃から、悲しさを感じるような場面で喪失感や憤りを感じてしまって、泣きたくなるようなことあっても泣くことができなかった。泣くことができたら、上手に感情を整理できたかもしれないし、辛いと思っていることを示すことができただろう。感じる辛さや苦しさが周囲の認識と違うことがたまらなく嫌だ。
 電気を点けていない部屋は薄暗くて、自分の部屋なのに彼とわたしを待望しているように感じさせられるよそよそしさがある。他の場所でしてくれたら許す気になれたかもしれないのにと思う。やせ型で色白で、黒い髪がととのえられずに長い、無害で不幸そうな見た目なにの腕の力がつよいところが大嫌いだ。学校ではろくに友達もいなくて、休み時間ごとにみっともなく机に顔をつけて眠ったり、本を読んでいる彼は心底根暗そうにみえる。少し意地悪をしたら簡単に絶望して学校を辞めそうな感じで、だから仲良くなって嫌いになって、台無しにしてやりたかったのにずるずる関係をひきずっていた。未練がある訳でも好意を抱いた訳でもない。一緒にいるのも楽しくない。それなのに関係を続けているのは恋なのでは、と人に相談したらいわれてしまうかも知れないけど、それも違う。いつ、別れを持ち出したら一番傷ついてくれるかを考えるといつまでも関係が続いてしまっている。
 後のないようにドアの閉められる音が壁に吸いこまれ、部屋に棒立ちのふたりがのこされた。街灯の光がカーテンをひいていない窓からさし、白い靴下のつま先にぶつかる。ためらいがちにこちらを向いて、生まれてから誰も抱いたこともないような腕が迫る。いま突き飛ばせば、何も起きずに部屋から追いだすことができるだろうと考える一瞬あとにはだけど腕が背中にまわされている。いま、と考えるばかりで決断をしてこなかったわたしにどうすることもできなかった。薄暗い部屋は一層暗さを増し始め、逆光の顔は表情が見えない。いま泣けば、この場は流れるだろう、いま、腕を振りほどいて突き飛ばせば、何も起きないまま終わるだろう。いまは襲撃しつづけ、わたしは何もできない。
 いま、の襲撃も、毎日や生活の襲撃も、壁の時計でまわる秒針の襲撃も回避できない。理不尽や不条理はずっと追ってくる。彼は自殺したのではなく、不条理に殺された。彼の祖母も、理不尽にさらされ続けて何もわからなくなってしまった。わたしは、知らない彼の腕のなかにいる。今度こそ、彼を突き放したら、どこか違うところへいけるだろうか。ここから遠いところへ。東京でも雪国でもないところへ。どこへいっても同じように秒針は背中を突くのだろうか。静まったなかで息づかいがうるさくてわたしからさそったのに気がきかないと思う。静かで、力が抜けて、足下から崩れる。同意なんかではない。
 もとは白いラグの上に倒れこむ。また何もできなかった。背中が床に接する一瞬まえにみた顔は怯えていた。彼の自尊心や全能感はもう砕かれているけれど、もっと粉々にしてやりたい。わたしも彼も傷つけあって、後には何も残らない。
 互いに口をひらけず、肩は手のひらを押しつけられて動かない。脚が筋交いになり、薄い制服とスカートから伸びる脚越しに熱がつたわる。すべてがおわるまであとどれくらい。現象が現象で終わるように、起きることのすべてが奥底へとどかないで欲しい。もう、生活を続けたく無い。すべて終わりにして欲しい。

「きみのことなんて本当は好きじゃなかった」
「そう……」
「まだ続けるの」
「うん……」
 救えない。

「帰って」
「…………」
 床にちらばった髪も、ラグに染みた血も見たくない。脱ぎ捨てられたスラックスが拾われ、ベルトの金属が触れあう音が耳障りだ。
「出ていって」
 いまなら、セイタカアワダチソウの花束を投げられる気がした。子供時代は終わってしまったのだろうか。
「死んじゃえ……」
 普段だったら声に出さない言葉を吐いたのは行為の最中に声を出しすぎたせいだ。ぬめったからだが気持ち悪い。

2 河口

 多くの彼女や彼が死んでいったなか、しぶとく生き延びてきた私の肖像も消えかけている。電車のドアにもたれて、がらす越しに景色を見ている。背の高いビルが増えて、電車は東京駅に入ってゆく。握った花束が暖房でしおれかけている。早く終わらせて帰りたい。あほらしい。
 昔だったら、もっと不機嫌そうにしていただろうし、冷たかった。不恰好で不純で残酷だった。そんな風だったのに今は多くの彼女や彼が死んでいったのをずいぶん遅れて追っている。こなれた風に電車にのって、退屈してもたれている。あのとき感じていたことや思っていたことは、決して一過性のものではなかったのに、今ではなくしてしまって当然のことだと思い始めている。
 そんなことを考えているから、あのときの私は瀕死なのだ。ドアが開いて、人のまばらな平日昼間のホームに降りる。向かいの京浜東北線が走りさってゆく。花屋で買った花束の透明のフィルムがゆれる。死んでいたものが再び動き出したみたいだ。階段を下りて、乗換のホームを目指す。
 京葉線のホームは遠くて、地下深いところにある。休日の駅構内は人が多くて歩きづらい。ディズニーランドから帰ってきたという風の袋を提げた人たちが向かいの動く歩道から向かってくる。
 ホームにたどり着いて武蔵野線直通快速列車を見送り、間隔の長い電車は一向に到着しない。花束をにぎった腕が痺れる。電車がきたら、身投げをする人と同じように花束を車両に向かって投げてやろうと考えたとき、暗いトンネルの向こうからヘッドライトの光が投げかけられた。
 新木場を通過し、人のまばらな葛西臨海公園におりる。電車の曖昧な暖房の空気はコートの内側と表面でわだかまっていたけれど、つよい海風に飛ばされて泣きそうになる。みんな、居なくなってしまうような気がする。もう、居なくなっているのかもしれない。子供の時代をすぎて、あたりには何もなくなってしまったような気が拭えないのだ。くだらないものばかりが積み重なって、自分もそれらのひとつになってしまって、あとには何一つ残らない。醜いものに囲まれたなかで、風が吹いて、花束のビニールが音をたてて揺れる。葛西臨海公園の駅構内はがらんとしていて風ばかりが吹いている。近くを走る湾岸線のうなりと、風の絡まる不吉な音ばかりがする。駅前の噴水は強風でとまっていて、水たまりの表面が波頭をたてている。水は意外と粘度の高いものなのだなあとぼんやり考えていると人を警戒しない鳩が足下を歩いていた。蹴飛ばしてやろうと思ったけれど、無視した。白く晴れている日だ。
 子供の頃、どうして花束を河口に投げたいと思ったのか思いだせない。きっと、子供らしい思いつきで、大人には理由をわかることのできない類のものだ。ただ、なんとなくとか、花束を投げる放物線のうつくしさだとか、花が海の底に沈んで行くところを想像するだとか。理由をつくっても本当のところはずっとわからない。真冬で、セイタカアワダチソウの花束は用意できなかった。セイタカアワダチソウで無ければだめだった理由も思いだせなくて、そのことは悲しいと思うけれど、それはただの感傷だ。こんなものとはもう決別しないといけない。だから、とりあえずの花束を用意してきた。
 もう、取り戻すことはできない。決定的に、戻ることのできない場所に子供の彼女はいる。彼が自殺した理由を二度と知れないみたいな感じだ。あれから、一度も帰らなかった雪国で彼の祖母はまだ生きているだろうか。きっと、もう死んでいる。だから、あそこにのこしてきたすべてのものに触れることは二度とできないだろうし、帰ろうと思わない。雪国を出てからしばらくすごした荒川沿いのアパートにも二度と近づかない。二度と触れることができない遠くにいるからだ。未来に横たわっている膨大な時間は莫としていて、触れられないしつかめない。不安や孤独ばかりがあって、頭を押さえつけるそれらに膝をつけそうになる。きっと、もう、長い時間はない。けれど、それまでは生活してゆくのだ。
 砂浜へゆく途中にある、がらす張りの休憩所は大昔の巨大な爬虫類の骨みたいに突然眠っている。風の吹かない建物のなかは陽が溜まっていてぼんやりあたたかい。地下の休憩所では定職をもっていない風の男がふたり、缶ビールと一緒にまどろんでいる。静かで、時々風のうなる音がきこえてくる。他には何の音もしない。少し休んでいこうかと思うけれど、それは時間を引き延ばすだけなのでやめた。早く終わらせて帰ろう。感傷につきあいたくない。
 消波ブロックの間にかけられた橋を渡り砂浜におりる。空はいつの間にか曇っていて、海風が髪を暴れさせる。風は肌の表面が切られる冷たくて、だけど寒くない。堤防の突端まで歩くと靴のなかに細かな砂が入りこむ。細かなことが悲しくて仕方がなくて、花束と一緒に身を投げたい。海鳥が真冬なのに海に浮かんでいる。鳥たちは何を考えているのだろうかと考えるけれど、私と鳥の距離はあまりに遠くて想像できないし、そもそも何も考えていないのかも知れない。花束を投げると波のたった海面に不格好に落ち、黄色の蝋梅が濁った泡にのまれて沈んだ。
 何の感慨もわいてこなかい。子供時代は終わった。

3.エトピリカ
1 針葉樹林

 気分が悪くなり、彼女には迷惑をかけた。舟遊びは切りあげられ、ついに修道院へ上陸しなかった。桟橋で、送っていこうかといってくれたけれど、歩いて帰ることにした。空はボートに乗っていたときよりも曇っていて、もうすぐ雨が降るかもしれない。雨が降っても、濡れて帰ればいいから気にすることなんてない。氷河がとけて、べとついた海風が吹いている。避けるように森へ入る。まだ、とけ残った雪が草のかげに残っている。ぬかるんだ腐葉土が靴にまとわりつく。春だ。もすうぐ、下草が茂るだろう。
 まだ枝ばかりの森は白骨みたいだけれど、空の暗さと相まって薄暗い。黄土色の雲をこえてきた光はぼんやり拡散していて光を浴びた木肌は発光しているように見える。多数の針葉樹が土から空へ伸び、雷が逆立ちしているように感じられる。まだ新しい倒木に腰をおろして煙草に火をつける。途端に気分が悪くなる。もう、限界なのだ。冬の、祖母の見舞いにいった帰りの決心を思いだす。あのとき、確かに、冬が終わったときには死のうと思っていた。長い冬は終わり、雪は溶け、氷河は砕け散った。終わりにしないといけない。長く生きすぎたんだ。決して一過性の、思い違い、なんてものではなくて、確かにこれからぼくがしなくてはいけないことのひとつだった。
 鹿の声がきこえる。久しぶりに人と鳥以外の声をきいた気がする。風の吹きつける海で雨が降り始めるのが木々の間から見える。緑がかった雲が濃さを増し、少し間をおいて森にも小雨が降り始める。雪は溶けて、泥濘のなかから植物が生えるだろう。あまりここにいるべきでない。倒木から立ちあがろうとするけれど、疲れてしまっていてからだが動かない。疲れだけのせいかはわからない。きっと、家に帰るのが嫌なのだ。家に帰ったら両親がいるし、そういった些細なことに疲れてしまう。こんなようだからきちんと生きていけないのだ。どうにもならないことばかりだ。
 これ以上、未来なんてない。学校にも行かなくて、何もしていなくて、どうやって生きていくんだ。生きていく道なんてないだろう。自分の子供性をうまく棄てることができずに、ここまで生きてきてしまったんだ。そもそも、ヒトや人間は、歳をとった子供を許さない。それは、単に仕事を得て、多数の人間のなかで生きていくことの困難さだけではない。四十をすぎて自身の子供性を守ってきた男がどのような末路をむかえるか。生活に疲れ、子供性に振りまわされて、いつか自殺するしかないのだ。仕事をしてお金を稼ぐしか、生きていく道がないから、そうならざるをえない。そういう男が、蒲団をかぶって泣いている姿は気持ち悪くて、そのように気持ちの悪いものをつくるのだから、社会的に生きる人間が子供性を維持したまま大人の年を迎えるのは不自然で不可能だ。そんなことなんて無いよ、なんていう人たちは、苦悩の一端だって、わからないだろう。きっと、要領よく生きてきた人で、何事も上手にこなすことができなくて、もがきながら必死にまわりについていこうとした自分の心情なんてわからないだろう。考えの幼さに笑ってしまう。
 人間は社会に組み込まれなければ生きていけない。すべての思考や言葉、行動の責任は自分で負うしかない。死ぬしかない。
 煙草はフィルタの間際で燃えつき、灰が足下に落ちていた。帰ろう。帰って、死のう。考えるのは千尋と祖母のことだ。もう少し、要領がよかったら祖母の歳まで生きられただろうか。

2 森林火災

 まわりで生きていたものたちは皆死んでしまった。ホテルの従業員たちは退職するか死んでゆくかし、支配人と掃除婦のひとりしか残っていない。彼女が居をうつしたときには絢爛な光が室内をおおっていたけれど、いまは灯りがほとんど点くことなくくすんでいる。街も、住む人が少なくなり死にかけている。雪に埋もれて、消えていくのだ。そういったなかで彼女は白痴のふりをし、誰にも顧みられないようにしながら自身の希望をもとにして生き続けてきた。
 けれど、ホテルの一番上の階で、誰にも見られることなくひっそり彼女は死んでゆく。千尋が雪国を出てから一年後のことだ。彼女が死ぬのと同じように、彼女の孫は死に、千尋も死んでゆく。都会へでた彼女は緩慢に死んでゆくだろう。たくさんの勘違いをし、間違い、時々いままで自分がどうして来たのか思いだす。運よく、生き残ったら幸せに暮らしていけるかもしれない。きっと難しいだろう。
 そういったことはどこでも、繰りかえされてきたし、これから繰りかえされてゆく。ありふれた挫折や失敗に価値がない訳ではない。そういった出来事にまみれて、それでもただ生きていくことが大切なんだ。彼女は一度大きく息を吸って、それから死んだ。同時に、彼女のように偏屈な老女がどこかで同じように死に、また、彼女のように死ぬ子が生まれただろう。
 自分の生涯を振り返ることはなかった。千尋が街を出てからずっとしてきたことだからだ。
 生き延びた千尋は彼女と同じように自身のベッドのなかで、長い呼吸のうちに死んでゆくだろう。そのときには、失った子供性を見つけ、取り戻しているかもしれない。よくある話だ。

3 闊葉樹の森

 ライカというのは犬の名前で、ロシアの人工衛星に乗せられて宇宙へ行った。インターネットで少し調べてみると他にも沢山の生きもの達が宇宙に送られていた、らしい。最初に宇宙へいった生きものは宇宙線の被爆を調査するために連れられたミバエという蠅らしい。その後、猿やネズミが打ちあげられ、ライカとは違う犬も宇宙へ飛んだ。その六ねんご、ライカが地球軌道へ到達する。ライカ、何を考えて居たの。ひとり人工衛星に乗せられ、宇宙へ飛ばされた彼の事を考える。狭いキャビンの中で、死ぬまでを如何して待っていたの。彼は、自分が死ぬ事を知らなかったと思うけれど、それでも、狭いキャビンの中で何を思ったのか。熱が辺を覆った時、自分が死ぬ事を意識したのか。
 それから、私は宇宙の果てに有る準星や世界の端っこの事に考えを巡らせる。地球の端っこから少しだけ飛びだした犬は、どこへ行ったのか。天国とか、地獄とか、そういう物が有れば、それは宇宙の果ての外に有るのか内側に有るのか。ロケットを飛ばす人間たちは、どこへ行く気なのか。きっと、一生かかっても宇宙の端に辿り着けないのに、どこへ向かって飛んで居るのか。
 孤独は、どこに有って私たちは何処へ行くのか。そもそも、どこかへ行く気なんて有るのか。遠くへ、未だ知らない事を知りたい。遥かで光る準星へ向けて、光の瞬く海へ、真夜中の洞みたいな真暗へ向かって飛んで行くのだ。ずっと、ずっと遠くへ。遥かな地点へ。繰りかえす。飛んで行く。儚くて孤独だ。未来へ、飛んでいった宇宙飛行士たちは昔に見た準星に辿り着けない。とっくに活動を終えて居る。
 一日じゅうベッドで過ごす様に成ると時々こんな事を考える。夢に、光の溢れた大海が現れる。目を醒すと光は消えている。目が潰れる程の光なのに目蓋に焼きつく事も無い。孤独で、泣きそうに成る。成る、けれど、決して悲しくは無く泣く事は無い。空っぽの内側へ向けて肋骨を砕き、胸が潰れそうに成るだけだ。ベッドから離れられない私は遥かに向かって飛んで行ったアストロノートの事を考える事しかできない。幼い頃から体調を崩しがちで居たし、長く生き過ぎて来た。もう、あの真白な宇宙船は乗れないだろう。私が生きている間に少しでも地球の端っこを飛びだす事はできるのだろうか。もっと小さな頃だったら、その可能性を疑わなかっただろう。大きな大砲に自分を詰めて月まで旅行へ行ったかも。だけど、幼い頃の私は、結局、こんな事を考えて居たから、どこへも行けなかった。大昔に消えた少年の事を思いだす。彼はライカと同じ所へ行けたか。
 風邪ひきの私がひとりでベッドに横たわっていると下らない事ばかり考える。こうした時に抱く孤独は二十億光年の果てより孤独だろうか。
 いつの間にか老女に成った私のもとに孫が訪れる。歳を取ったのだ。雪国で、おそらく誰にも看取られずに死んで行った彼の祖母のように成り、そして死ぬのだ。