donuthole.org / novels / GOLEM

文学フリマ10で出した”RECOLLECTION”に載せたもの。
同人誌版:http://donuthole.org/data/pdf/GOLEMb.pdf
web版:http://donuthole.org/data/pdf/GOLEM.pdf

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1
「僕は、神様を待ち続けているんだ」声が発せられるたび抱き合ったからだが振動する。頭を抱かれ胸に耳をつけていると肺が空気を吸いこむ音がきこえる。
 電気を点けていない真暗な中、彼の小さなベッドの中、裸のまま囁くような声で会話をしている。真冬の季節で、一枚の毛布をたがいのからだに巻き付けあっている。ベッドの中以外にこの部屋に生きているものはなく、また、真暗な中でほとんど黙っているとここが沼の底にあるような気がする。彼の顔を見上げるとひたすら無表情で、黙っている。目は動かずに、どこか遠くに投げられている。口から息がかすかに漏れていて、沼の底の魚のようだった。
 息を吸い発声する。「ふぅん」からだが震えた。
 この街の天気は大体にして曇っているか雨降りでいる。だけど、近くに活火山があって気温はそこまで下がらない。そこまで下がらないけれど、裸でいると寒い。海沿いにあり、真夜中になると溶岩が海に流れて冷えかたまる音がきこえてくる。今もかすかに窓越しにきこえてくる。火山灰は今の季節なかなか街のほうに降ってこないけれど、夏頃になるとまた火山灰が降りはじめる。あたりに生える木はほとんど灌木で、土地も痩せている。峻険な土地だ。魚は豊富にとれるけれど、漁場は他にもたくさんあるので港もそこまで栄えない。街の規模は小さく、ろくにものが揃っていない。生気を抜かれた老人ばかりで、ときどき野生の動物があたりを歩き回っている。子供の姿はほとんど見ない。希望の見つからない街だ。
 手探りで彼がぼくの頭を探してる。肩や首の皮膚を太く短い指にさすられ、ようやく髪の生える頭皮にふれられる。起きあがり、ベッドを離れようとする。彼のものと比べなめらかな、だけど数年前よりも老けはじめた肌の上を毛布がかすかな音をたててすべっていった。
 板張りの床に両足で立つ。冷気を吸い込んだ板が足の裏でかさつく。彼の視線が背中に向けられるのがわかる。裸のまま立っているのは心もとなく、落ち着かず冷えた部屋の椅子へ座る。からだを軽くゆるりながら煙草に火をつけ、煙を吐く。暗い中で白い煙が発光していた。赤い穂先に集中する。
「神様って」喉が渇いていて掠れた声がこぼれた。
 マグカップを掴むとすっかり冷えている。両手で握ったカップの表面が波打ちながら黒々と窓の光を反射している。水面をじっと見ながら、きっと冷めたコーヒーはとても苦いのだろうなと今更のようなことを思った。ふと窓の外の光に目を向けると、街灯のオレンジの光に一匹の山羊がいた。やせ細ったからだに薄汚れた長い毛と捻くれた角を生やしたみすぼらしい牡山羊だ。
「神様だよ。僕たちの生活の上につねにいるものだよ」オレンジの街灯の光に雨粒が照らされている、いつの間にか降りだしていたみたいだ。
 山羊はじっと立ち、こちらを見ている。白かった毛皮が街灯に照らされて変色しぬめっている。歩き出そうともせず、泣くこともしない。真っ黒な目がこちらをひたすらに見つめている。雨に濡れ、風が吹くと毛が揺れる。垂れた毛の先から雨がしたたっている。山羊の彼はそれをまったく気にしていない。彼を見ながらいくつかの光景を目撃した気がする。
 街の暗い海沿いの溶岩のかたまってできた岩の険しい道を歩く。後ろには彼がいた。
 背の低い草が生えていた土地は冬になり枯れている。崖の上で風が強い。風が吹くたび枯草が揺れ擦れた音をたててゆく。彼は背中越しに見ていた。何事かを喋る。瞬間に、雲が晴れ、青い色をした空が見える。そこへ行けると思った。背中から翼が生え、遠くの、希望と栄光の場所へ飛び立つのだと感じた。
 とても強烈な予感だった。この街にたれこめる雲の合間から一条の天使の梯子が下りているような希望を伴うものだった。ようやく、この街から離れてゆける。街からも、ベッドに寝ている男からも。ぼくはここが嫌いだ。いつも曇っているし雨もよく降る。人といえば老人しかいなくて、彼らはいつもカートを押しながら足下ばかりを見て歩いている。誰も喋ろうとせず、聴こえる音は風と水の音ばかりだ。人たちは、みんな、死んだようでいる。植物と人間以外の動物ばかりが生きている。あの山羊のように動物ばかりが街を闊歩している。人間たちは尊厳を失い家にこもるばかりだ。辛気くさくて、陰気な街だ。
「いま、神様を見たような気がしたよ」
「どこに」
「そこに一匹の牡山羊がいたんだ。彼がきっと、そうなんだと思った……もういくよ」
「どこへ」
「神様の場所へ」
 燃えきらない煙草を灰皿に押し付け、立ちあがる。
 服を着て出ていった。彼は何事かを喋っていた気がする。頭がすごくぼんやりしていて気にすることができなかった。外は相変わらず雨が降ったままで、前髪が濡れて束になっている。靴がひび割れた道を蹴る音に混じって山羊の蹄の音がきこえてくる。彼の家を出たときからずっとついてきているらしい。
 家に戻る気分ではなかったので海のほうへ行こうと思った。何年も前に敷かれて整備もされていないアスファルトは崩れかけひび割れている。定間隔にささった街灯はオレンジ色の光を静かに投げている。降る雨はかすかで、風に揺られながら光に瞬いている。夢の中にいるような感じだ。近くの海からの風が防風林ごしに吹いてくる。コートを着ていても寒く感じる。世界がこの道を残して崩れてしまっているようだと感じた。オレンジの光の下を通り、また暗いところへ出る。次の街灯はまだ遠くだ。一定の距離をおいたまま山羊がついてくる。蹄の音ばかりが響いている。雨が強くなり始め、アスファルトの上で砕けた水滴が音をたてる。海までいっても山羊はついてくるだろうか。それとも偶然同じ道を歩いているだけだろうか。視線がじっと背中に注がれているような気がする。真夜中で人の姿はどこにもない。すれ違う車もない。生きているものは二体だけだ。そんな意識もいつか消え、ただぼんやりとした繭に包まれたような状態のままあるく。街灯の光が近づき明るく、通り過ぎて暗く。明滅を繰り返す。目をつぶっていても歩けそうだ。目蓋に薄い光が浮かんで消える。繰り返す。足が重く、なかなか家までたどり着かないだろう。目を開けると街灯が雨を照らしている。いつの間にか山羊が隣にいる。土埃にまみれた毛皮が雨に濡れている。ときどき雫が毛先からこぼれる。また歩き出す。夢のようだ。
 四辻にさしかかる。道を曲がれば海がある。四つの街灯に照らされて通りは明るい。明るいけれど人も車も、一軒の家もない。ただただ侘しい場所だ。山羊は相変わらず隣にいる。鳴こうともしない。四つの足は細くどうにか地面に立っているように見える。海へいくのはやめた。空を見上げると街灯の光で雲が赤く発光している。視線を下におろせば街灯が平坦な道沿いのどこまでも続いてゆく。左には防風林、右には枯れた草原だ。この街も土地も閉塞している。きっとこのままどこにも行けないのだと思う。山羊が鳴く。耳が震える。この道をずっと行ったらどこへいくのだろうか想像した。きっと、一年中雲のたれ込めていない、晴れた、光にあふれたところだろう。そこへ行きたいと思う。

 その日、海には寄らず家に帰って眠ると夢を見た。
 ある山を登る夢だった。この街の近くにある活火山ではなく、もっと乾燥した土地の、高山地帯にあるようなものだった。
 砂嵐の吹き荒れる、黄土色の空の下で険しい山をひとり登っている。あたりは黄色の砂埃におおわれ遠くまで見渡せず、漂泊されたような白の岩があたりにたくさん転がっていた。それらの中で砂が顔に当たらないよう、風に飛ばされないよう俯きからだを斜めにして山を登っていた。急な斜面で、気を抜けば簡単に転がってしまいそうでおそろしかった。どうして山を登っているのかも、ここが何なのかも、不思議なことに夢の中だから不思議でもないのか自分が何者かもわからない。
 とにかく山を登っている。この頂上まで上り詰めればきっと何か変わるはず、きっと何かいいものがあるはずだと理由もないのに信じていた。足は重くてなかなか前に進まない。かといって、腰をおろしたら二度と立ち上がれなくなってしまうかもしれなく、そのことが異様におそろしく感じられ、とにかく足を動かした。足をがむしゃらに動かすだけでは足場が疎かになり風に飛ばされてしまう。服は、何かボロ布を巻き付けたようで、風にあおられ暴れている。ばたばたと風の音がうるさい。砂が目に入ってしまいそうで目を見開くこともできない。こんな辛い状況でも、きっと、山を登りきれば何かきっといいことがあるはずだ。頂上までいったら、この風も、黄土色の雲も晴れているだろうと希望していたからだ。光が見える。光が見えることは素晴らしい。黄土色の空の下は緑がかった霞のような雲が逆巻いていて、転落したらもう二度と立ち直れないような気がしてくる。つま先で岩をつかみ、砂をつかみ必死で落ちないようにする。腕も使って、四本足の動物のようにしたら飛ばされないかもしれないと思った。急斜面だし、自分もからだを斜めにしてのぼっているし、そう変わらないと思え、からだをすこし前のめりにした瞬間、足下の岩が崩れ宙に浮いていた。頭上にあった雲がよく見える。黄土色をしていて、光の模様がまだらに見える。遠くの空は鈍色だ。うつくしい灰色だ。浮遊感が全身を捉えたとき、意識は消え始める。落下の最中、岩場のすみに羊が佇んでいるのを目撃する。山羊はみすぼらしかった。長い毛は砂埃にまみれ、風に暴れている。捻くれた角は汚れて茶色をしている。広い額の山羊がじっと落下する人物を見ている。黒い目がこちらを捉え、ぼくの目も彼を見ていた。真黒い目は透明できれいだ。こんな乾燥した土地で水分にあふれた何かのくだものみたいで、生の喜びにあふれていた。山羊が鳴く。めえ。夢から覚める。
 目を覚ますとあたたかで柔らかな布団の上にいた。いつの間にか朝になっていて、はだけた布団が嬰児みたいに丸まったからだのまわりに山を作っている。あまりよくない夢だった。また眠ってしまって続きを見たら嫌なので起きだして朝食を作ることにする。朝食を作りながら、夢の中に出てきた山羊は、昨日の山羊と同じものだろうかと考える。あの山羊は、どこへいってしまったのだろう。四辻にさしかかったときには確かにいた、戸口にたどり着いたときまで隣にいたかは覚えていない。蹄の音を幻聴した。山羊の目がどこかにある気がする。昨日の夢心地で歩いた道のように、背中に山羊の視線が張りついているような気がしてならなかった。そういう予感がする。予感を振り払うように出来上がった朝食を盛りつけ、無心で食べた。不吉なほど腹が減っていた。昨日の予感は何だったのだろうか。山羊と目をあわせたとき、強烈な予感と幻の視覚があった。ぼくは、この街からはなれていくのだろうか。あの、年老いた男からも離れていくのだろうか。枯れた草原と、雲の晴れる光景は現実のものになるのだろうか。冬の間はいつも厚い雲に覆われた街だって、ずっと曇ったり雨が降っている訳ではないから、現実のものになるかもしれない。背中から翼が生え、飛んでいくのは嘘のようだったけれど、これも本当になるかもしれないと思った。
 朝食を食べ、着替え、出かけることにした。時間は持てあましているし、海へ行こうと思う。岩場や、草原に行けば何か感じられるかもしれないと思ったからだ。玄関ポーチに立つと外は風が強かった。前をしめていないコートを慌てて閉じ、マフラーをきつく縛った。それでも寒く、意識がかすんだ。空も鉛色にかすみ、厚い雲を貫通した光がぼんやりとしている。蹄の音がして、山羊が歩いてくるのを見つけた。なつかれているのだろうか。あまり気にすることもなく海への道を歩く。道すがら、彼のことを考えていた。
 彼について知っていることはあまり多くない。見た目は四十代の前半くらいで、だけど、正確な歳は知らない。細身だけど脂肪もそれなりについたからだをしていて、髪は豊かに生えているけれど白髪が目立つ。表情は陰鬱で、いつも遠くの違う景色を見ているようだった。ぼくと同じくホモセクシャルで、職業は学校の先生らしい。毎日1時間ほど車に乗って仕事にいっている。ホモのくせに人にものを教えているなんておかしいだろう。と昔いっていた。結婚はしていなくて、小さな家に一人で暮らしている。ぼくの家があるあたりと同様、家はまばらで人とすれ違うこともあまりない。彼がどんな生活を送っているかやはり知らないし、あまり興味のあることではない。ときどきあって、喋ったりセックスをしたりする仲だった。恋人同士、なんて言葉を四十を越したような男との関係に用いるのは適切かどうかはわからないけれど、それよりももっと淡白な関係だ。彼がどんな人物なのかにあまり興味がなかったし、彼のほうもあまり興味のある様子ではなかった。ときどき遊びにいって、家で酒を飲んだり、車で遠出をしたりする。行く場所は車でしばらく行ったところにある小規模な繁華街で、そこでやはりお酒を飲んだり、本屋によって何冊かの本を買ってから帰る。彼の家で酒を飲んでいるときはどちらともなく始まり、車で遠出したときには彼の家に帰ってきたあとセックスをする。そういう仲だった。
 そのうちに昨日の四辻にさしかかり、右に折れた。この先をしばらく歩けば海へつく。右へ折れなかったら彼の家へ行っていたかもしれない。山羊はまだついてきている。防風林が風に軋んでいる、山羊の蹄の音がきこえる。今日はとても寒く、海からの風も冷たい。空では雲が渦巻き、流れていくけれど晴れる様子はない。雨が降り出すかもしれない。それでもいいと思う。雨が降ったら家に帰ってあたたかくしていればいいだけの生活だ。寒さで精神が硬く結晶する。胸が苦しく、ひたすら予感ばかりが警鐘のように鳴っている。もうすぐこの街を出られるんだ。それを希望してあと数日を生きればいい。苦しい胸は空っぽな感じで、気を抜いたら内側に潰れてしまいそうだ。目の前の道は真直ぐで、左右には冬も茂った防風林で、だけど、木々の生える地面は茶色をしている。上には渦を巻く灰色の雲、下には二車線にわけられた、崩れかけのアスファルトの道だった。海がかすかに見えている。もうすぐだ。風が強い。風の音に混じって溶岩が海に流れ込む音がきこえてくる。蹄の音も、さっきからずっときこえている。
 目の前に一本の道を挟み、海がひらけている。冬の海は大洋から吹く風に荒れている。波が岩に砂にぶつかり、白波を立てながらひいてゆく。二車線の道は深夜と同じように一台の車も通らない。海岸沿いの岩場に並んで生える草は風に吹かれて飛ばされそうだ。その草をまたぎ、岩場に足をおろす。山羊もついてくる。険しい岩が足の裏に感じられる。視線を滑らせれば岩場だらけの海岸線は遠くまで続いていく。アスファルトの道がトンネルに吸い込まれても、海岸線は遠くまで続いている。子供のときそうしていたように岩の上を身軽そうに飛び跳ねてゆく。もう、二十を越えて体力も落ちてしまった。岩場に足をおろすたびからだが重く、息が苦しくなるけれど、精神を落ち着かせ、集中し、散逸してしまったものを再び集めるようにして岩場をわたっていく。
 遠くに人影が見える。こちらをじっと見ている人だ。おかしな人がいるものだと思って見ているのか、そうでなければこんなところにいて、数少ない若い男を眺めているのは彼くらいだ。あんまり気が進まなかったけれどそっちへ行くことにした。ますます予感の中にあった光景が現実味を帯びてくる。山羊が背後で岩場をわたっている。彼はどこまでついてくる気だろう。いつまでも、空を飛ぶまでついてくる気なのだろうか。
 人影はやっぱり彼だったようだ。ぼくは岩場に、彼はアスファルトに立ちながら会話が始まる。まず、彼からだ。
「やあ」
「どうしたの」
「散歩をしていたら君がいるのを見つけて、待っていたんだよ」
「こんな寒いのに散歩なんだ」
 会話をいくつか交わそうとするけど、口からあふれた言葉は風にさらわれ、すぐに消えてしまう。
「暇だったからね。どこかに出かけない」
「あんまりそんな気分でもないかも」
「じゃあ、うちにこない」四十すぎの教師の声は静かで、気弱な若者のようだった。
「もう少し散歩したらね」だから、そういう返事をして、また岩場を跳ねてゆく。岩場を跳ね、失われてしまったような時間を集めようとする。本当に、砕け散るみたい時間が消えてしまったんだ。山羊が岩場を跳ねる。教師も岩場を跳ねる。危なくて仕方がないけど、楽しくて仕方がなかった。
「その山羊は」彼が訊く。
「さあ。いつの間にかついてきていたんだ」息が苦しかった。風が強く、息をまともに吸い込むことができない。「解体して鍋にでもする」
「可哀想だね」
「どうして」
 山羊は人の会話なんて知らないし、慮る気もないのかただただ岩場をいっている。先導されるような格好になって、ふたりでついていく。老いた彼は足を踏み外してしまいそうだったので手を貸した。大きな岩の上から彼を見下ろすと、大部分は髪におおわれているけれど禿げかけた頭頂部が見え、無性に悲しくなる。目の前から消えてもらうか、殺してしまいたくなった。だけど、手を貸した。こっちの岩場まで引っぱり、まるで本当に恋人みたいに手をつないで岩場を飛んだ。
 時間と場所を越えて飛び跳ねる。どこかにいってしまったものを再び集めるようにして、懸命に飛び続ける。山羊の姿を追え。世界が砕ける。プリミティブな空間に鈍色の空、空の色を映した灰色の海、風、険しい溶岩の固まった岩、ぼくと彼、山羊だけがある。ごく単純な要素だけで成立している空間だ。音がきこえてくる。淅瀝の声だ。今なら目を閉じていても岩場をわたれるだろう。失われたものを再収集する。彼の手を引き続ける。彼はいくつだろう。自分はいままぎれもなく幼少のときにある。彼の子供と気はどのような時代で、どこに住んでいたのだろう。晴れた空のある土地か、草木の茂った山の中か。きっとここよりはずっといいところだろう。とにかく、子供のようにずっと同じことをしていよう。山羊の背中だけを見続け飛ぶ。疲れなんて忘れる。岩から飛び降りると背から翼が生えそうだ。生えても、彼の手をつかんだままじゃ重すぎて飛べないだろう。そのうち彼は腕だけの存在になり、あたりは一面の雲と陰気な海と一匹の山羊だけになった。ああ、これで終わりだ。行き着くところまできてしまったんだ。夢のような空間でぼくは成長してしまったのだろうかと想像する。山羊がこちらを振り向く。薄汚れた毛が賢者のようだった。捻くれた角が悪魔のようだった。黒い瞳が印象的だった。
 山羊が鳴く。
 夢から覚める。
 世界が再び砕ける。あたりから岩場が消え、草原になっていた。
 ああ、これも予感の中にあったものだと知っていた。
 空がぐずり、遠くで雨が降り出す。遠くから雨粒が海を叩く音がきこえてくる。ぼくらは立ち尽くしている。雲の流れは速く、ふたりと山羊の立つ場所まで到達して髪と服と肌を濡らしていく。
「雨、降ってきたね」これが四十年を越して生きてきたものの言葉かと思った。
「そうだね」枯草が頭をたれる。茶色だった草が黒くなってゆく。海からの風が強い。岩場よりも人の痕跡を消した、いっそう淅瀝の支配する土地だった。岬の、葉を散らした灌木が雨に濡れている。棘皮が濡れて黒々としている。人のものでない荒廃した土地だった。細い幹が風と雨に声をあげ始める。人間には理解できない言葉におののいた。
「偉大だ」胸が潰れそうだ。曇りでもなお高い空が渦巻いている。
「…………」隣の彼は魚のような目で海のはてを見ている。
 山羊の彼は黙ったままだ。一言も発しようとせず、ただ雨に濡れている。みすぼらしい毛皮が風に暴れる。角から雨がこぼれている。
 とても偉大な土地だ。未だ人間のぼくには立ち入ることのできない場所だ。この岬を越えたら、ここのあるものたちと同じ場所へ行けるのだろうかと想像する。予感はいつ果たされるのか、きっと遠くない未来だ。
「もう、行こうか」背中に声がかけられる。低く掠れた声だ。まだらな雨雲が流れている。遠くの空で日が射す。素敵だ。光の柱を垣間みた。光の落ちた海だけが凪いでいるようだ。凪いでいる場所と荒れた場所の淵を凝視する。濃い灰色があって、それを境に雨の降る場所とそうでない場所をわけている。幼いときに自分がいた場所はどこだったのだろうと回想するけれど、何も思い出すことができなかった。思い出すことができるだなんて思い上がりだ。「うん」少年のような声で答える。つま先でステップを踏むように回り、海に背をむける。軽い足で草を踏みながら立ち去る。山羊の蹄が濡れた枯草を踏むやわらかい音がきこえている。

 彼の家にいき、ふたりでシャワーを浴びた。彼の枯れた肌を細かい熱湯が叩いていているのを見ながら、これが人間なのだと感じている。「どうしたの」そう訊く彼の目は相変わらず焦点が定まらず遠くを見ている。何か思案しているようで何も考えていない深海魚のような目だった。「セックスしよう」「…………」相変わらず目は動かない。太い指が若い、まだ水をはじく肩をつかむ。強い力で、砕けてしまいそうだった。「痛いよ」「知らない」
 浴室の壁面に押し付けられ、頭をつかまれながらキスをされた。背中に触れた安物のタイルが冷たかった。シャワーの水だけが何も知らないという風に粒状感のある音をたてている。人間のことを知っているのは人間だけだ。天井の黄色い光がぼんやりとしている。水濡れたからだを太い指が愛撫している。小さな声を漏らしながら、訳の知れない屈辱感に流されている。だけど、このままでもいいと思えた。これは未練だろうか。からだが一瞬宙に浮いたような気がして、気がついたら彼の腕の中にいた。胸に顔を押し付けられ心臓の音を聴いている。弱々しく、脈を打っている。この男はもうじき死んでしまうのではないかと思う。死んでしまうからなんだと思う。彼が死んでしまったところで困ることもない。だけど、死にゆこうとしているものにやさしくすることはできるだろうか。そんなものにやさしくすることに、どれほどの意味があるのだろうか。ぼくがやさしくしたことも、彼の喜びも、この男が死んでしまえばみんな空気にとけてまぎれてしまうのだ。「苦しいよ」「知らない」それでも、男が喜ぶことに意味はあるのか。彼が、ぼくと同じくらいに若かったら、もう少し違ったかと想像する。想像の中で、どんな感想も湧いてこなかった。
 からだが床に転がされ、やっぱりという風に天井の明かりを眺めていた。この男に未練でもあるのだろうか。この男だけでなく、人間に未練でもあるのか。岬で見た光景は間違いなく偉大で、素敵だった。栄光の光が雲を貫き海に落ちる様を再び思い出す。
「ねぇ」若いぼくが願うことに何かしらの意味はあるのか。若いものには未来があるからよいのか。未来があってもぼくは社会にコミットしないし、ホモセクシャルであるためその希望を未来の子に託すことも無い。彼と同じではないかと思った。
「何だ」久しぶりに弱気なところのない、男らしい声だ。彼はどのようにして生活してきたのだろう。どんな出来事が蓄積してこのような小男をつくったのだろう。可哀想かもしれないと考えたけれど、それが彼の選択ならその生きてきた道は栄光のものだろうと思う。
「祈ってよ」
「何に」
「すべてに。世界のみんなに。自分に、ぼくに、世界にあふれるみんなたち、山羊、空に海に電気に、宇宙に恒星に惑星に。うつくしく懸命に生きるものたちのすべてに祈りを捧げてよ」
「だめだ……」
「どうして」
 明かりは男の影に隠され、視界は暗くなった。たるんで皺の刻まれた肌が目に映る。ぼくの黒目は彼の目を映しているだろうか。
 再び目を開いたときには濡れたからだのままベッドにいる。「祈りたい」どこへ投げかけたのかもわからない言葉が口から吐かれ、空気にとける。「ひとりでやってくれ」電気のついていない部屋の暗がりから言葉が飛んできた。ベッドから這い降りて、カーペットの上で膝立ちで祈りを捧げた。「どうかどうか、この世界で懸命に生きているみんなとうつくしい空や海や動植物に魚に空気、地面の下に隠され光ることもない眠っている石ころや鉱石、石炭、鉄や銅、金、金属たち、世界にあるすべてのうつくしくものたち、いとおしい人間たちを祝福してください。みんなみんな懸命に、大切なものを守って生きているのですから、どうかどうか、みんな幸せになれる世界にしてください……」小さな声で何度も唱える。みんながみんな、自分の思う方法で幸せになれるように。誰のことを思っていなくてもいい。小さな自分を守ることに精一杯の人にも、たくさんの人を幸せにしようとする人にも、恐れから大虐殺を起こす矮小なものにも等しく祝福を。みんながみんな自分の思うような方法で幸せになれる世界にしてください……
 鞭の空気を裂く音がきこえてくる。ぼくのあまり好きではない、しかしぼくのことを好いていてくれるこの男にも祝福を。背中に何度も何度もふるわれてきた鞭がまたふるわれる。痛みと驚きに声があふれる。「また、やるの……」「何度でもするよ」
 鞭で打たれながら、カーペットと硬い床の上を転がり回りながら、男の顔を盗み見る。とても嬉しそうだった。本当に嬉しそうだったからぼくも嬉しいと思える。にやにやしながら何度もうたれる。「楽しいの」「楽しくなんてないよ」「嬉しそうだよ」「君が嬉しそうなのが嬉しい」また鞭が飛んでくる。皮膚が裂けて血がたれる。黒い板張りの床に血痕を残していく。
「また山羊がいる」彼がなんでもない風に漏らす。行為は一時止んだ。
 立ち上がり窓辺に寄ると、昨日と同じようにして山羊が電灯のそばに立っているのが見る。傷ついたからだをじっと見ながら立っている。「本当だ」
 窓枠に手をついた背中に鞭を打たれる。「痛いよ……」いつの間にか泣いている。我慢できないほど痛かった訳でも悲しい訳でも悔しかった訳でもない。ただ、なんとなく、いろいろなものが哀れに感じられたからだった。
「ごめんね」男が小声でいう。それを最後に鞭はふるわれることなく、男のふくらんだからだに抱きしめられた。「ごめんね……」本当にすまなさそうにいう。何が彼をこのような男にしたのだろう。「どこにも行かないでくれ……」こんな男にも祝福があって欲しい。ぼくがどこかへいってしまったあともずっとずっと幸せでいて欲しいと思っている。
「しようか」
「うん……」いつの間にか男まで泣き始めていた。そのまま、窓辺で彼の気がすむまでセックスをし続けた。山羊はこちらをじっと見続けている。犯されている若い男と、犯している年老いた男を。山羊はどうしてついてくるのだろう。だんだん考えるのが面倒になり、この街のものではない、陽が濃紺の夜空と瞬く星を排斥する朝のことを想像するばかりになる。

2

 見慣れた重たい灰色の空が窓越しに見える。早朝で、雲の上ではいつでも燦然としてある太陽が暗かった雲を鈍い光の塊にしていた。僕はこの街で生まれ、今まで暮らしてきた。きっと、死ぬまでこの街で生活をするのだろう。そうやって、死ぬまで何もない陰鬱な街で生きていくことを、今では苦痛だと思わない。静かな土地でずっと、いつか自分を救ってくれるものを待ち続けることができるからだ。そのときのことだけを期待して、いつまでも独りで待ち続けることができる。しかし、今は隣に若い彼がいる。彼は、細く儚げで、いつか消えてしまうのではないかと初めてあった頃思った。いつか消えてしまうのだから、すぐに忘れてしまうだろうと思いち近くにおいた。儚げな印象は日増しにふくれ、それは想像通りだったのだけど、昨日はシャワーを浴びながら薄いからだが蒸気にとけてしまうのではないかと危惧した。ひとりで待ち続けることをずいぶん昔に決心したのに怖かった。だから、何度も抱いて、鞭を打って、抱きしめた。そんな風にして彼を貶めたら、年老いて若い頃のきらめきをなくしてしまったもののようにいつまでも地上に残り続ける、と思ったのだ。疲れ果て、ようやく入ることのできた浅い眠りからさめても彼は眠る前の格好のまま隣にいる。だけど、消えてしまいそうな雰囲気はそのままだった。彼がまだいることを確認できたこと安心しまたまどろみの中に入る。
 物音に目をさます。いつの間にか隣にいた彼は上体を起こしている。「どこかへ行くの」不安からとても子供っぽい言葉が口をついた。
「もう行くよ」
「僕も行く」

 彼はどこへ行くでもないという風で誰もいない道を歩いている。追うようにして数歩後ろで背中を見ながら歩いている。靴音以外に人工の音はない。風に吹かれて木が軋む音と山羊の蹄の音ばかりだ。空は今日もまだらな灰色に曇っていて、晴れたときよりもずっと低いはずの空はそれでもずいぶん広くみえる。彼の背中は静かで、だけど歩みに合わせて左右にゆらゆらと揺れている。年老いて太ってしまったからだは揺るぎなく道を歩いているはずだけどゆらゆら、ゆらゆらとぶれている。山羊はやせ細ったからだを風に吹かれながら必死に前へ進もうとしている。きっと、山羊の彼ももうすぐ死んでしまうのだろうという気がしていた。そして僕も死ぬのだろう。この真直ぐな道のように、生まれてから死ぬまで、脇道にそれることはない。前に進むしかないのだ。先に死しかなくても前へ進まないといけない。空がくもっていて重苦しい空気があたりを支配していても前へ進むしかないのだ。その中でできることといったら顔を上げて風景を見ることくらいなのだけど、なかなかそうする気にはなれない。履き古した靴が黒かったはずの、風雨に削れて灰色になった道を蹴るのを見ている。
「…………」
 無言で道を折れる背中を追ってゆく。海へいく道だ。左右を防風林に囲まれ、この道だけに強い風が吹いている。遠くに荒れた海が見える。海水が岸壁を削る音がきこえる。流出した溶岩が冷え固まっていく音がきこえる。ここで生まれてからの時間を過ごしてきたので、特別な音ではない。冷えた道の上で靴の音が硬い。ここに誰もいなかったらこの硬い靴の音もなかったし、風や海の音を聴くこともなかっただろう。耳の溝で風がなっている。髪がばたばたと暴れている。海は近づいてくる。視界の中で大きく細かく表示されるようになる。白い飛沫が岩上まで跳ね、鈍色の雲が天球を滑っている。冷たい風が服を透かして吹いてくる。陰気な場所だ。極度に抑圧された風景だ。海沿いの岩の合間から草が数本生えている。どれも茶気た、死にかけの草だ。昨日のように岩の上に飛び乗った彼を見ている。山羊もそれについて、震える四肢を険しい岩の上にのせる。うつくしいと思った。不毛の高地に立つ気高いものを幻視した気がした。
 岩の上で僕を見ているので追従するように這っていった。老いたからだは思った通りに動かず、潮風でべたつく岩肌に手をついた。手を貸され、見上げると、淡い光に逆光になった顔が見えた。揺らめく髪先から空気にまぎれてしまいそうだと思う。空はまだ灰色のままだ。灰色の空が晴れるのは風向きが変わる、初夏の短い期間だけだ。陰鬱な街に光がさし、息をひそめていた何者かたちが群衆のように燃えさかる。山は緑の炎におおわれ、街には動物たちがあふれる。馬が疾走して風が生まれるのだ。波間で光がきらめいている。だけど、すぐあとには霖雨で、街は雲に閉ざされる。陰鬱な長い抑圧の時間だ。手をひかれながら岩の上を跳ねてゆく。道は誰も通らない。時間も空間も砕け、あたりには薄青い空気が苛烈に吹いている。手をひかれながら僕はひとつの目になった。
 全自動で岩の上を跳ねている。視界が上下する。眠りの中にいるみたいだ。風が強くて息を上手く吸えない。意識が遠のいていく。意識だけでなく、何もかもが遠い。
 夢の深度が増していく。あたりは真白な空間へ。夢は砕けて時間も空間もない。砕けたものを再び集めるように真白の中を遡行してゆく。僕は、何をしていたのだろう。生まれてからこの街で過ごしてきた。陰鬱な空と海。流出した溶岩の冷える音、重たい煙をあげる火山。都市へ向かって真直ぐに伸びるひび割れた道。闊歩する動物、生気の抜かれた人間たち……記憶がさかのぼり、もっと小さかった頃の栄光を思い出す。初夏の風向きが変わりわずかに晴れた日。晴れているけれど、吹き上がる火山灰が街を暗くさせている。枯れたような木々の幹から歪な新芽が生えている。まばゆい緑で宝石みたいだ。雑草の生えない、枯れた木ばかりの岩山をのぼり、ほとんど土に同化した動物の死体を見つける。自分を奮い立たせるような光景だった。一体の動物の死が目の前に横たわっている。黒々とした瞳がどこも見ずにただ地面に横たえられている。まだ死んで間もないようだけれど、雨に降られて毛皮は地面に張りついている。ここには僕と一体の動物の死しかいない。瞬間に世界が砕け、真白な空間に僕と彼だけがのこされた。肉体の上に頭をのせ、瞳で死を見つめている。何も考えることがない。とても原始的なものが全体を支配してめまいを引き起こす。社会にあったはずの精神と思考がまったくの自由になり、間もなく停止した。目の前の光景だけがある。時間も空間も社会もない。精神も思考も消えた。とても素敵で神聖だ。栄光が死の上に注いでいた。
 間もなく現実に引き戻される。空を見上げるとすでに曇っていた。曇り空の下に大きな鳥がくるくる回っている。人が立ち去るのを見計らっているらしい。小さな僕は小さな街へと戻った。
 大きな僕は無意識で岩場を跳ねている。「君……」意識が急速に引き戻される。
 気がつけば岬の枯れた草原だ。手を引いていた彼は数歩はなれたところで背を向けている。
「もういくよ」穏やかだ。冬でもあたたかな土地で、だけど大洋からの風で海は荒れている。光が雲の薄いところで吹いている。風が叢を巻きあげる。
「嫌だ」木が悲鳴のような声を上げている。
「この期に及んで君はぼくに何かをいうことができるの」
「いいや」音があたりに充満する。風が強い。強い決心の前で僕はにも口にできない。だけど、確かにこの期に及んで彼がいなくなることを嫌がっている。岩場で見つけた動物の死のことを思い出す。あれほどまでに神聖なものはまだ見たことがない。それは圧倒的に正しいものだ。だけど、性器や社会に引きずられ、その考えからはなれてしまいそうになる。彼の選択を尊重するのは正しいのか。いいや、僕は彼が死ぬのは嫌だ。個人の思想や感情の殺しあいだ。「死ぬな!」
「幸福を」
 彼は岬の先端へ歩き出す。背中が遠くなる。風が髪を暴れさせる。コートの裾がはためく。偉大なものへ近づいていく膨大な作業の集大成が彼の目の前にあるように見えたけれど、僕には何も見えない。「死ぬな」言葉は口からあふれた瞬間風にまぎれる。
「幸福を」
 彼の頭の中で涵養されていた思考の残骸みたいな言葉がここまで届いて、また空気にまぎれる。彼の思考は間もなく消滅して、二度と復元されることはない。残るのは何も考えなくなった死体だけで、それは生前のものとはまったく違っている。脳と、決して見ることのできない精神の延長としての世界とのつながりは決定的に切れてしまう。死体は口を開かない。彼の脳からはどんな活動も喪失する。「死ぬな……」
「もういくよ」強い風がすべてをさらってゆく。言葉も思考も、生もすべてが吹き流されてどこかへ紛れてかえってゆく。「この街は陰気だけど、世界は素晴らしい、うつくしく何もかもが輝いている」
 遥から届く風は強く、雲間の光は眩しい。目をあけていられなくなる。年老いた男が枯れた叢に崩れ落ちる。これこそがうつくしい瞬間の到来だと思った。偉大だ。膨大な希望や栄光の堆積に押しつぶされそうだ。
 岬の先へ歩いていった彼は振り返ることなく消えた。からだだけを残して空へ消えた。
 風が雲間を切りひらいてゆく。
 彼が消えると同時に精神の活動の中で大きな領域を保っていたものが消滅した気がした。たくさんのものが消えてしまって、恐怖がやってくる。空っぽで、外圧に押しつぶされそうだ。膨大な世界が小さなものの活動を押しつぶそうとしている。
 よろよろと立ち上がり、おぼつかない足取り岬の先へ行く。断崖から下を覗き込み、精神から切り離され墜落したからだが眼下で死体になっている姿を認める。すこし前に進めば僕も彼と同じものになるだろう。だけど、まだ待とうと思う。遠くの海では雨が降り出している。早く帰らなければ雨に濡れてしまう。少年の頃は雨に濡れることを嫌がりなんてしなかったし、楽しんでもいた。いつの間にか雨に濡れるのをさけるようになっていた。不思議だ。どこで道がわかれてしまったのだろう。だけど、昨日は雨に濡れながらも楽しかった。彼が隣にいたからかもしれない。もう、彼はいない。歳も重ねすぎている。再び隣に立っていてくれる人なんていないだろう。死ぬまでをこの街の小さな家で過ごすのだ。
 いつの間にか傍らにいた山羊が鳴く。お前はいつまでいるのか。お前の慕っていた彼はもう死んだぞと内心唱える。波頭が岩場で砕け、大きな音が届いてくる。淡い光が眩しい。雨はじきに到来するだろう。

 電気を点けていない部屋で目を覚ます。まだ夜明け前で部屋は薄暗い。薄いカーテン越しに夜がわずかに侵入してきている。今日は上手く寝付けなかった。死体はもう誰かが見つけただろうか。それとも、波にさらわれて海の上だろうか。誰にも見つからないと良いと思う。死体は特別で、たくさんの人の目にさらされるべきではない。死体の目撃を必要としているひとりだけが見つけて、個人的な体験にしまい込んでしまえばよいのだ。久しぶりに煙草を吸いたくなり、ベッドからでた。
 板張りの床に素足をおろし冷たさを確認する。暗がりの部屋を見渡してゆく。山羊の影を見つける。眠りもせず、テーブルの足下に四本足で立っている。目は窓からのかすかな光を反射してぬめるように光っている。昨日、外においたままにしたら凍えるだろうと思って部屋へ連れた。山羊は水も食べ物をも要求しない。眠る前に見た状態のまま立っている。
 なるべく無視をするようにして、遺された煙草を一本もらった。銜えながら、この煙草すべてがなくなるときはくるのか想像した。ひとりではすべて吸わないだろう。かといって、そうであったら良いと思うものの誰かがこの家を訪ねてくる訳でもない。暖房をたいていない部屋は裸でいると寒い。煙草の穂先が暗い中で光っている。山羊はこちらをあまり興味無さげに見ている。カーテンが窓から流れ込む夜にかすかに揺れた気がした。毛布を羽織って、引きずるようにしながら窓際へ向かう。なんだか、ずっと子供の頃を思い出す。
 防風林を挟んで向こうがわ、海の音がきこえてくる。木立の合間を抜けてくる風のごうごうの音に混じって、波が砕ける音がきこえてくる。灰が落ちかけている。窓を開けて、灰を落とす。風が吹き込んでくる。毛布の裾をからだに巻き付け、煙草は口だけで吸う。定間隔にたつ明かりを反射して雲が赤くなっている。風が皮膚をこわばらせる。冬が部屋に入りこんでくる。もはやこの家も人のものではない。死んだような街で、すべてが自然に取り込まれてしまったような気がした。背後で床板を蹴る音がきこえた。山羊がすり寄ってくる。毛布の裾から手を伸ばして角に触れた。一晩中の冷気を吸ったように冷えている。自分が年老いた白髪まじりの男であることを不意に意識した。
 いつまでいるのだろう。僕が死ぬまで生きていることも、ここにいることもない気がする。背の低い頭に手をのせる。荒い毛が手のひらをくすぐってゆく。目蓋の垂れた、無表情な目がこちらを見ている。老いぼれた山羊だ。彼ももうすぐ死ぬだろう。跪き、湿ったような冷たさの、一頭の山羊を抱きしめた。ごわつく毛が頬を擦ってゆく。山羊は身じろぎもせず、鳴きもせずじっとしている。喪失感が去来し感覚が波のように満ち引きし、砕けてゆく。顔を痩せたからだにうずめ、額で毛皮をなぞってゆく。山羊は、いつ、どこへいってしまうのだろう。彼と同じように消えていってしまうのだろう。老いぼれて、おとなしくなった山羊だ。指に挟んでいた煙草が音をたてずに灰を落とす。
 扉のしまる音がして、毛布をからだに巻き付けたままの格好で家の外へいる。風が吹いていて、痩せた足が震える。夜が明ける前でとても暗い。街灯のオレンジに濁った藍色の空が見える。オレンジはここまで届いている。裸の足もとに薄い影ができている。裸の蹠に道が冷たい。からだが震えて、すこしだけ意識が途切れ、白い光が瞬いた。
 脚を動かす。遠くの空がうっすらと白み始めている。このまま、どうなってしまってもいいと思った。
 アスファルトを敷いた道は冷えきっている。意識が、そこへ固まってしまいそうだ。道も、空も、何もかもが遠い。山羊の蹄の音だけが意識にある。もう、疲れてしまったんだ。
 雲が厚い。風が強い。陰鬱な風景だ。重たいばかりの空気があたりをおおっている。意識が途切れ途切れになり、視界が白くなってゆく。自分までもうすぐ死ぬのではないかと思う。まだ生きていたいのか、すべてを棄てて死んでしまいたいのかわからなかった。だけれど、もう死んでいるのも生きているのも変わらないだろう。これから先、誰かといることなんてないんだ。この山羊も、もうすぐどこかへ行くか死んでしまうだろう。いつの間にか歩くのをやめていた。灰色の中で山羊の、茶混じりのからだが道を歩いている。震えた足取りでたしかに前へ進んでゆく。世界にひとりだけのホモセクシャルの男の隣に立つものはいない。歳も、とりすぎてしまった。彼のように、隣に立つ男は二度と現れない。
 岬へ行こう。死体がまだ残っているか確認しよう。日ののぼらない時間だし、誰ともすれ違うことはないだろう。毛布を巻き付けただけのからだは冷えきっている。老いているし、調子もすぐに悪くなってしまう。だけど、もう死んでもいいんだ。意識するとすこし気が楽になった。
 岬まで歩くまでに絶命するだろうか。崖を覗きこんだとき、そこで意識が途切れたらそのまま落ちてしまう。そうしたら少しのあいだだけ空を飛ぶことができる。空を飛べたらどこかへいけるだろうか。墜落するだけだ。
 そびえる防風林がたかい。生まれたときからこの街にいる。もっと幼く小さかったときより背は伸びているのに、とても高く思えた。それだけ、小さくなってしまったのだろう。十歳にもならないときは、世界は光に彩られていて、なんでもできたような気がするのに、それが、今では知らない学校の先生だ。もう、何もできないだろう。
 考えにふけるうちに四辻にさしかかっている。四つ角にオレンジの街灯がたっている。海はもう近くだ。昨日、手をひかれて岩の上を飛び跳ねたことを思い出す。あんなことはもうできなかったし、二度とできないだろう。いくつのときまでああすることができていたのだろう。本当に、もうできないのだろうか。日が昇る前の景色は低彩度の海に沈んでいる。すべてのものが海の底で、沈黙と倦怠に押しつぶされそうになっている。空は広く、圧倒的に灰色だ。緑の防風林も色がついていないように見える。風が吹く。毛布が飛びそうになる。翼になって、遠くまでいけたらいい。眩しい光がまた瞬く。瞬きすると消える。
 脚だけが前へ進んでゆく。海への道は街灯がない。本当に、色のない景色だ。遠くに見える海も、灰色の海水が逆巻き、白い飛沫が夢のように砕ける。泡沫が溺死体のように砂浜で踊り、消えてゆくのだろう。ああ、風がつよい。毛布もからだも飛ばされそうだ。そうしたら、意識だけが残った純粋な僕が残る。だけど、純粋なものは、きっと、とても冷たくて透明で硬いから、簡単に砕けてしまう。風が強いときはどうしようもなく胸が収縮するように苦しくて、息もできなくなる。寒さで顎が鳴っている。山羊は先導するように進んでゆく。茶色の毛も灰色に沈んで色のないように見える。もうすぐ海だ。
 岩間に背の低い枯れたような草がただ生えている。昨日、手をひかれて飛んだ岩が見える。ひとりでも飛べるだろうか。とても寒くて、からだが動かない気がする。からだが動かないからといってやめてしまうようになったのだと意識した。
 意識が飛び、道のうえに膝をつく。鈍い音がして冷えたアスファルトに胸をつけた。山羊が振り向きこちらを向いている。手を伸ばし、骨だらけの脚をつかむ。死んでいるみたいだ。彼の毛が風に、惨めに揺れる。だけれど、生きている。地面に胸をつけ、四本脚で立つ死にかけの山羊を見ている。唐突に怒りがわいてきて立ち上がった。膝からの出血は想像より夥しい。まだ死んでいない。
 蹠で冷えきったアスファルトがわだかまっている。
「おい! 殺すぞ!」どこへともなく叫ぶ。山羊が深海魚のような目で見ている。静かだ。風がすべてをかき消す。口から吐かれた言葉は間もなく空気にとける。
 怒りと恐怖に走り出す。血が膝からこぼれてゆく。蹠で出血が始まっていることを意識する。
 走る速度は遅い。全力で走っているつもりなのに、目の前の景色はいやになるほどゆっくりで動いてゆく。暗いトンネルが目の前にある。
「ああ!」声を上げる。また視界が白く瞬き砕け弾ける。蹄の音がついて回る。
 最高に生きている。
 かちかち、かたかた。蹄が鳴る。死体のように青白い肌に血がこぼれ、年老いた肌の皺に沿って流れてゆく。羽織った毛布が翼のように広がる。年老いた男は誰にも省みられることない。ただ、ひとりで走ってゆく。ちっともうつくしくなんてない。だぶつく脂肪が揺れている。血管が切れそうだ。膝が砕けてしまうだろう。足の裏から流れる血がとても気持ち悪くて、最高に生きている気がする!
「死んだお前! お前はどこへいった!!」
 真暗なトンネルにある。七色に光る出口が見える。臨界した世界だ。蹄の音が反響する。山羊の鳴き声が聞こえる! これが待ち続けていたものだろうかと一瞬だけ考えが走った。何も考えないでこの中にありたい。幼い時分に砕け散っていたものを再び集めているんだ。あの、山で見た死体を、輝かしい気持ちを、雲に閉ざされた世界の栄光を! 生の瞬間たちを!!
 七色の口を抜け、岬へたどり着く。波音が遠くの底から響いてくる。彼が死のうとも僕が死のうとも、山羊がいなくなろうと響き続けているんだ。世界の底で、絶え間なく、いつまでも響く音なんだ。間もなく日が昇る。空の端が明るい。とても風が強い。天球を雲が滑っている。岬の端までたどりつき頽れる。風に木が軋む。蹄が草を踏む音がきこえ、きこえなくなったら隣にすわる。四本の脚を折り、静かな目で海の先を見ている。
「僕は、死なないぞ!」視界が真っ白で、海もほとんど見えない。意識が消えかけているんだ。本当に絶命してしまうかもしれない恐怖がやってくる。風が毛布をさらい、何も纏わない姿になった。老いた男の裸のからだだ。脂肪にたるみ、皺の刻まれたからだだ。とてもうつくしくなく、醜いものだ。あたりを支配する淅瀝が一斉に殺到する。「人間の僕は生きているんだ!」間もなく夜が明ける。
 風が、雲をはらしてゆく。地平がひらけてゆく。真白な光が雲間から一直線にさしてくる。岬の上で、裸の、みすぼらしい小男を染めてゆく。
 醜いからだがさらされている。
 何も怖くない。
 栄光だけがある。
 山羊が鳴く。声が世界に皹をいれる。立ち上がって、岬の先へ歩いてゆく姿を見ている。こちらを振り向き、仮面のような顔が見ている。一頭の死体を繰り返し思い出す。何度も何度も思い出す。その度輝かしい気持ちになる。光はどんどん真白に、量を増やしていく。もう、意識が消えかけているのか、陽光なのかわからない。
 岬の先から見下ろし、下の方で死体が小さく波間で揺れているのを確認する。紛うことない、人の死体がある。
 からだを起こし、岬の突端にたつ。つよい風がからだを揺るがす。雲は晴れ、朝の光が世界をおおっている。
 一斉に、空間と時間が砕ける。薄青の風だけがある。目をあけていられない。また山羊がめえと鳴く、
 戴冠の瞬間を予感する。
「神の到来だ」

 空は晴れて、だけどそのすぐあとにまた曇る。失われた意識が戻ってきて、散逸した肉体の感覚が再び集められた頃、からだはすっかり冷えている。早く帰らないと風邪を引いてしまうし、もうひいているかもしれない。明日は仕事があるから、あたたかくして眠らないと……