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130730(Tue) 23:18:28

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1章 魔女の筆写人

1

 土曜日のなずな証券取引所は前場が始まったばかりからひそひそ話から怒号まであふれ、目には見えない金の流れをほとばしらせている。集まっているのは専用のディーリングルームを持たない機関投資家や個人投資家、友人たちと一緒に登記はしていないもののヘッジファンドのようなものをつくって遊んだり商いにいそしんだりする子、それから取引所の女中だ。私はなずな寮一階の談話室(つまり取引所だ)の入り口のまえにぼんやり立って活発な様子を眺めている。ここにはつい四ヶ月まえにやってきたばかりで、房州経済の中心にほど近いところに女学園の談話室があるということにまだ実感がない。
 大小の声の噂話が金を運ぶ。いちばん大きな声で喋るのは最前列に陣取り塊となった機関投資家で、大きな声とそれに見合っただけの金を動かしている。それから順番に、人数の多い個人投資家のあつまり、単独の投資家、最後に市場のおこぼれをもらう女中たちが青ばらの奇跡を担保にした金をしゃかりきにまわしている。
 ざわついた取引所のなかでいちばんの大金を動かしているのは部屋の隅、窓際をついたてで囲ったひとつの席で、飛び回る金を目にとらえることができたなら、青い奇跡の流れはひときわ大きなほとばしりとなって部屋を満たしているだろう。芦原学園いちばんの資産を持つ個人投資家で、私の同室で、それから主人でもある彼女、茜が根城にしているのがついたての向こうの席だ。
 寝起きの私はふらふらと魔女のもとへむかってゆく。卓のあいだを歩くとちらちらと視線がむけられるのがわかる。新参者で茜のしもべである私を観察して金のにおいを嗅ぎ取ろうとしているのだ。茜に拾われて間もないころはそういったものが怖かったけれど、いまとなってはもう慣れたと思う。
 なかにはいると彼女の視線がちらりとだけ向けられ、すぐに手元の端末に戻される。これが休日の日課だ。前場がひらいたら茜のもとに顔をだして一日の指示をもらう。きょうはまだ忙しいみたいで口をひらこうとしないけど。
 仕方ないので私も端末をとりだしてポジションをとっている野ばら銘柄の値動きと監査情報、青ばら指標の変化を読み、新聞をめくってゆく。そうしているうちに鈴の音が近づいてきて、一瞬止んでから声がかかる。
「茜さま、よろしいでしょうか」
「どうぞ」返事をするのは私の役目だ。
「失礼致します」
 やってくるのは取引所に詰めている女中だ。丈長のいわゆるメイド服型のものが制服で、細い麻のような繊維を編み朱色に染めた紐で銀の鈴をさげるのが規則になっている。茜のほうはもう食事を済ませているので皿を引き取って私のほうに水を向けられる。
「目の覚めそうなもの、何か準備して」
「かしこまりました。いつものものをお持ち致します」
 そういってざわめきの向こうに戻ってゆく。よく伺いに来てくれる女中だし、悪目立ちするような長身だから見覚えはあるけれど顔もまだしっかりとは覚えていないし、名前もわからない。こんなところで恭しく給仕をする彼女のことを覚えていたって一銭の金にもならないのだから覚えていなくても仕方がない。
「どうしたの、浮かない顔して」
 誰とも知れない女中の顔を覚えたって仕方がないのだ。私には金を集めることしか何もすることがない。
 何も、もう、金しか。
「なんでもない。きょうの指示は?」
「とりあえず、ないかな。そういえば、すみれのほうがすこしざわついてるね。どうだろう、でも、退避しておいたほうがいいかも。まだ、ひと月半くらいあるけど、もうだめかもね」
「うん。ほとんど卯木・中林組しか持ってないからだいじょぶ」
 すみれとはすみれ証取のことだ。芦原学園には寮が五つありそれぞれ花の名前がついている。寮に設置された各証券会社と取引所は同じ名前で呼ばれている。
 卯木・中林は野ばら債を起債するひとたちの名前だ。彼女らの起債した債券はすみれ証券に店頭登録されているもののなかでもっとも金利が高く、もともと信用格付けの低い野ばら債銘柄のなかでも飛び抜けて低い評価をされている、私もすみれ寮から青ばらがでることはないと思ってたのでほとんどポジションは持っていない。茜みたいに運用できる資金を大量に持っていたら金貸しでもして儲けられるかもしれないけれど、私には関係のない話だった。それに、初等部から芦原ですごしてきた茜は市場の一年を何度も経験しているけれど、私は来たばかりだ。貸し倒れの可能性ばかりの市場への投機は不安だった。
「そっか。売ったほうがいいよ」茜は素っ気ない返事をしてまた端末に視線を落とす。
 運ばれてきたサンドイッチを口にしながら行儀悪く板に目を通す。直近の一ヶ月ものの彼女らの野ばら債は表面利回り5.6%であり、売り気配値は128円。おとといから値も下がり続けていて、来週には投機の対象にもならなくなる。高利回りは彼女らの最後の賭けのはずだ。市場からの信認はすでに失われて、今回も事前投票の話題に上らず、あとに残るのは借金だけということになる。手元の現物債二千のうち五百をのこして成行で売った。残りの一切れを口に運び終えたころにはすっかり値崩れを起こして98円になっていた。茜の助言がなければ危なかっただろう。彼女はときどき、千里眼でも持っているように値動きを予言する。
 ここ芦原学園は青ばらと野ばらのふたつの債券を中心にしてすべてが金でできている。思いも記憶も感情も、奇跡も何もかもが金に換えられる、金がすべての世界だった。房州の独立維持のために、野ばら債を発行する当事者も私たち投資家もすべて平等に格付けされ金に換えられ、そしてそれは目のまえの市場に吸い込まれてゆく。
 二ヶ月半後の決算へ向けて商いを加速させてゆく学園市場。出来高は相変わらず高い。その様子は取引所の天井に吊られたミラーボールにあらわれる。出来高に応じて光を散乱させるのだ。きょうも鬱陶しいほど光り輝いている。
 とはいってもその輝きは先週よりは落ちている。やっぱり、一ヶ月半後に学芸会をひかえて様子見の雰囲気なのだろう。端末に表示された数値は頭上のミラーボールと同じくめまぐるしく回転する。ただ一点の奇跡の座を目指して市場は私たちの感情を吸い上げ続ける。
 血と涙と金を吸い上げ咲く青いばら、干からびるまえに私は市場から金を奪い、感情を取り戻し、茜に返さなくてはいけない。

 今朝はとても幸せな夢をみた。茜との幸せな夢、私を買ってくれた当時を美化した夢だ。
 生まれ育った世田谷を逃げるようにしてやってきた房州へ、自動車免許を持たない私は銚子経由で入国する。上野から常磐線に乗り、那珂川まで。大洗鹿島線に乗り換え太平洋を眺めながら千葉国境、旧利根川を目指す。むかしは霞ヶ浦という湖があったそうだけどいまは東京湾に没している。なのでふたつの地平線の片方には東京湾が、もう片方には鈍い青に輝く太平洋がずっと続く。それに並行して東北からの陸運がもっぱらの産業道路にはトラックが列を成し、送電用のケーブルがそれと一緒にどこまでも伸びるのが日本側からみた房州への道だ。車の場合は旧利根川国境には何もないので素通りできるけれど、電車で入国する場合には簡便な税関があるのでそこを通らなくてはいけない。そして、そこを抜ければ日本を脱し、独立経済国千葉に足を踏みいれることになる。特に何の感慨もないといえばそうなのだけど、芦原の制服を着ているからだろうか、ちらちらと向けられる視線が気になった。海をまたぐゲートを抜けた先には太平洋と銚子の街がみえて、それだけは楽しかった。そこからはまた電車の旅で、乗り換えまでの時間も短かったので館山まで行く銚館線に慌ただしく乗り換えた。銚館線にのれば、千葉の主要産業である発電の要、海岸沿いの原発群をながめながら館山まで一本で行ける。ほんとうは、東京湾を通過できる京葉新線に乗れば一時間とかからない道のりだけど、銚館線に乗ったことはなかったのと、二度と日本に戻ることもないと思っていたので時間のかかる銚子経由で行きたかった。そうして五時間の道のりに館山に着いたころにはすっかり疲れきっている。それからまた駅前の芦原行きのバスに三十分揺られてたあとにはもう、新品の制服を着てやってきたのによれてしわになり、途中電車で居眠りをしたりしたせいで朝方ととのえた髪型もみだれていた。
 三月の中ごろ、バスは背中の後ろで扉を閉め走り去ってゆく。道路に落ちた桜の花びらが風に舞いあがり足元に散らばった。前回入学の手続きのために来たときはまだ二月の初めで、枝ばかりの並木だったのにひと月もすぎれば寒々しい面影を忘れたように満開の時期をすぎて花びらがそこかしこにばら撒かれている。
 座りっぱなしでこわばった背中をほぐそうと軽い荷物をおいて伸びをする。荷造りをするのが面倒だったのと、捨て鉢な気分で必要なものも無くして生活をぼろぼろにしてしまえばいいと思ってやってきたので鞄は小さいものだった。服は制服だけ、雑貨も勉強に使うようなものなどごく少数しか持ちこむ気はなかったし、替えの制服やまだ着ない夏服などは送っておいたので手提げのほうは簡単な日用品しかない。地面におかれたそれが風に吹く何本もの桜並木からの花びらに埋もれるようになる。ピンクと灰色のまだらの道で、足元や鞄を置いたところに花びらが積もってゆく。
 いやらしいなと思う。ほんとうは、住み慣れた土地を離れて別の国になんて来たくなかった。そう思うのに、逃げるように房州にやってきていた。いろいろな思いを断ちきって、二度と戻らないと決めた。だから、はじめてここを訪れた二月の寒々しい並木道を期待していたのにそれがどうだ。華々しい房州経済の発展を誇るように咲き乱れる桜の並木だ。
 おまえはこの学園のなかで命も感情も金に換え燃やされて死ぬのだ、そういわれている気がした。
 夢の日付はきょうとおなじ土曜日で、前場、後場からなる芦原市場が最も活発な一日だった。学園生の命を吸い上げた桜の花びら一枚一枚が風に散らされ、視界を覆おうとする。この門をくぐれば後戻りはできない。あとは、房州の人柱になる。
 それでもよかった。房州経済の補助を担う芦原では誰の感情も等しく金に換えられる。私のどんな感情も金に換えられるなら、すべてを忘れられるかもしれない。そう思ってやってきたのだから。
 地面に積もった花びらを踏み散らし学園にはいる。全寮制で、一度はいれば外にでるにも許可がいる。それを表すように煉瓦と錬鉄の高く厳めしい門をくぐった先は隔絶された、この世のものではない景色が広がっている。桜並木のどこまでも続くような道、まだ二月の鈍い陽のもとで影をつくり、暗いトンネルのようになった大通りはどこか異界に続く道のようにみえていたのだ。
 曰く芦原には魔女がいる、どこできいたのかも忘れたようなことを思いだす。不意に桜吹雪のなかに人影がみえた。小学生くらいの身長で、ごく薄い色の髪を腰まで垂らした子がやたらと背の高い女中を連れて立っている。私のほうをじっとみて、そんなはずはないのに私を待っているように感じられた。
 事実そうで、記憶を美化した夢のなかで彼女、つまり茜は私の名前を尋ねて、どうしてわざわざ高等部から芦原に入学しようとしたのか、とかそういった類いの不躾な質問をいくつかした。けれどこれは夢で、ほんとうの私はあのとき過去を掘りかえすような問いに苛立ち、無視して通りすぎようとした。夢のなかの私はそれなのに、命より重い金の降りしきるなかで彼女に跪き、
「この世でいちばんの大失恋をしてきました。理性もない勝手を許されたと思い舞いあがった振る舞いをしてきました。傲慢で、ひたむきな愛情を注いで、恋を失いました」
「ほんとうに、自分の失恋が世界でいちばん重たくて辛くて苦しい、いちばん不幸なのは自分だって顔してるね」
 下問は続く。「いくら」最初はその意味がわからなかった。呆けた顔をしていると、「おまえを買いたい。いくらだしたらすべてを差しだしてくれる。世界一の失恋と、その身の値段は」
 夢のなかの私は戸惑わない。
「百億万円」
 茜は端末を操作し、商品である私に入札する。
「これで夏奈はあたしのもの。卒業するまであたしとともに暮らすんだ。眠るときも、食事のときも、散歩にいくときもどんなときも。それから、もしあたしが嘘をついても絶対に許すこと」

「きょうの予定は」
 お茶を飲み終えたのをみてか、声をかけられる。
「前場はこのまま市場を見て、午後からは宮原・竹田組の調査にいこうかと」宮原・竹林は現青ばらで一番人気の海江田と二番手の青島・大河内に続く候補で、いまはまだ利回りは高いものの、近いうちに青島・大河内と順位が入れ替わると予想している。もしそうなれば、いまのうちに買っておけば大いに儲かるし、それに次回入札のオプションも安いままだった。値崩れが警戒されている銘柄でもあるけれど、私はそうなると信じている。
「買おうと思ってるならやめといたほうがいいよ。いま持ってるのも売り払ったほうがまし」
「でも……」
「買うなら次回のオプションだけ。でも、八月の入札よりもまえに順位が下がるだろうからやめたほうがいい」きっと、私は泣き出しそうな顔をしている。目元を一度だけ見られ、すぐに腕時計に視線が移された。「夏奈、きょうはひとりでいいし、調査もいらないからどこへでも遊んでおいで。自由にしてていいよ」その表情だってわかっているだろうに、茜は仕事をしなくていいと告げる。
 私は芦原市場のことをよく知らない。夢のなかでいったような大金とはいわないけれど、投資家としてやっていくためにそれなりのお金を持たせてもらった。なのに残高は減る一方で茜の役には立っていない。
 夢のなかで百億万円と自分の価値を見積もった現実の私は彼女の役に立っていない。