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130803(Sat) 22:01:24

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 子茉莉の背中を見送ったあとは決して誰にもあうことのないよう茜の部屋へ戻った。彼女の気配を感じたくないと思っていたはずなのに、突然の言葉に戸惑わされた身には、茜の気配が恋しかったのだ。
 八畳ほどの部屋、私にあてがわれたのは二段ベッドのしたの段とふたつならんだベランダに近いほうの机だ。三月に越してきて四ヶ月ほど、机のうえも雑然としてきた、居心地のいい寝床もととのえられて、枕カバーをかえたり、寝るまえに読んだ本が布団のなかに置いたままにされるようにもなった。部屋の真ん中の背の低い机には雑貨が放られたままになっている。きのうの晩使ったままのドライヤーや櫛、化粧水、茜の部屋用の眼鏡、読みさしの雑誌、付箋の束、大きなリボンのついた白いバレッタ、黒い髪ゴム、茜の化粧品と私のリップクリーム、十センチほどの人形、爪切り、はさみ。そういった取るに足らないようなものばかりだ。私のものも、茜のものも混ざりあっているけれど、私が買ったものはあまりない。持ち物の多くは茜に譲られたり、買い与えられたものがほとんどだ。
 茜の机はというと、素っ気ないものだ。作り付けの本棚にはもうほとんど隙間はないけれど机のうえはすっきりとしている。ペン立てがふたつとフォトフレームだけだ。写真は、茜ともうひとり知らない女のひとが映されている。日付は記されていない。季節は春で、学園の桜並木で撮られたみたいだ。制服姿でいる。茜の見た目はいまとあまり変わりないように見えるけれど、もともと小学生と見分けのつかないような背格好に顔立ちなのだから、そこからいつの年頃だろうと量ることもできない。もうひとりは、中学生くらいの子で、ふくれっ面で写る茜を伏せたまぶたで見ている。髪型のほうは、ヘルメットみたいに丸い頭から黒い髪を鎖骨の辺りまで下ろしていて、つまり私とおなじような感じだ。また、顔立ちも。
 彼女の姿を見たことはない。中等部で卒業したのか、転校してしまったのか、単に見覚えがないだけなのかは知らない。尋ねたこともない。
 部屋にある細々としたものひとつひとつから茜のことを連想する。謎めいた写真も、生活のなかでくたびれてゆくような品々も、いまはクローゼットにしまわれてなかなか見ることのない特別なものも、彼女のことを意識させる。
 なのに、いまは、いつもだったらこの部屋にいるあいだの多くは彼女のことを考えているはずなのに、子茉莉のいうとおりいたずらにばら園でのことを思いだしてしまう。煩わせるのは私のことが好きだから、勝手をする。だったら、私の勝手は彼女のことをさっさと忘れてしまうことだろうに、それもできないまま、かといって眠りのなかに逃げこむこともできないまま横たわっていることしかできない。
 後日、とはいつだろう。二日三日先か、一週間後か、それともあしたか。
 彼女のいうことは難しいことだろう。ひと時の嘘をほんとうにかえてしまうのは簡単だけど、いつ誰がみても恋人同士のように振る舞うにはいつだって私は子茉莉の恋人じゃないといけない。彼女をいっときそう思うことはできるかもしれない、ぎこちないかもしれないし、居心地の悪い笑みを浮かべながらなら。でも、それを何度も、本物のように繰りかえし、恋人になってしまうのは難しい。彼女の恋人にはなりたくない、当てつけのようにする妄想は心地いいけれど、それは想像だから楽しいことで、ほんとうのことではない。ほんとうの恋人、何も疑うこともなくそうなったら、青ばら選が終わったあとも彼女とそのようにすごすのだろう。茜と同じ部屋に住むのはそのままに、何度も子茉莉と会ったり、恋人同士のするようなことをする。
 やがて後場のおわりの鐘がきこえてくる。茜のところへいこう。都合のいい妄想は好きだけど、彼女の知らないところでそういうことがあったと知られるのは後ろめたい気分だったけれど。

 大引けあとの取引所はまだすこしうるさいもののひとも少なくなっている。ついたての向こうに顔をだすと茜はいつものようにコーヒーをのんで休憩している。ごくだらしない風に、机にからだをあずけている。彼女の投資手法はデイトレードやそれに類するような高速な取引ではなく、中長期にわたってポジションを維持する方式だけれど、そのポートフォリオは多くの銘柄を抱えリスクを分散させている。特別忙しく立ち回るわけでもない、けれど、彼女がいうにはとても精神をすり減らすそうだ。
 椅子に腰をおろして机に頬をつけたままの茜に手をのばす。全身の力をぬいたようなからだと表情は髪をなでるともっとだらしなくなる。
「どうしたの、浮かない顔して」そのままの姿勢で一番最初に訊かれた。
 余計な言い訳をしたくなくて、本題から話すことにする。
「環子茉莉って、中等部の三年生だけど知ってる?」
「知ってるけど……環財閥の末っ子でしょ。その子がどうかしたの」
「昼間すこしあったの」
 茜は疲れた様子でまぶたを伏せる。女中の鈴の音がきこえてくる。私がこっちへ来たのを見ていたのだろう。伺いを立てる声が聞こえて、
「だれ」茜が答える。
「松代です」
「入って」
「失礼いたします。茜さま、何か軽食などはいかがですか。夏奈さまも何か召し上がられますか」
「あたしはいいや」
「冷たい紅茶をおねがします」
「かしこまりました。それから、中等部三年生の子茉莉さまがお見えになっています。茜さまと夏奈さまをお捜しのようです。用件は、夏奈さまに伺えばわかるとのことでしたが」
 好奇心を湛えた茜の目が向けられる。
「……通してください」
 この訪問を断ったとしても、あとで茜に訊かれるだから変わらない。後日といったはずなのに、随分と早い。
「失礼いたします」
 昼間ぶりにみた顔は変わっている。服装はそのまま、顔立ちも同じ、だけど、あのときみた魔術的な静けさのようなものは消えていた。常世の住人のような感じだったところが消えて、私たちとおなじような、ひと、みたいだ。すこし、ありふれたような隠しごとをしている雰囲気で、ありふれた隠しごと、そういったものが彼女の昼間みたところを消してしまったのだろう。
「お目にかかれて光栄です、茜さん。中等部三年生の環子茉莉です」
「ふん。光栄、ね。夏奈は子茉莉ちゃんが来た用事を知ってるみたいだけど、あたしは知らないんだ。早く話してもらっていい」
「……かしこまりました。恐れながら申し上げます、夏奈さんと青ばら選にでたいと思います」
 茜は一瞬うろたえたような視線を私に向け、目があうとすぐにそらされ、いつものような顔に戻った。「わたくし、夏奈さんのことを好いてしまいました」気取ったようないいかただ。なにか、演じるものを隠し持って、練習してきたようないいぐさだ。「本来であれば、同室の茜さんに断りをいれるようなことでもありませんが、本日はお願いもあって参りました」
「いってみ。当然、あたしの利益になることなんだよね」傲岸にあごでまくる。
「茜さんにわたくしたちの監督役になっていただきたいと考えています。当然、茜さんのことですから海江田組を負かして選につこうとするでしょう」
「いいかもね」いままでに見たことのないような笑みだ。企みと傲慢と憤怒と期待を綯いまぜにして消化しきれないものすべてが表情にしてあらわれたような。「夏奈を子茉莉ちゃんに渡そう。ただし、部屋はいまのまま、あたしのところにいてもらうけど」
 私の思いも無視されてすすめられる青ばら選のはなし。私は茜に買われたんだ。茜のもとをはなれて子茉莉のところへ行くなんてできない。
 もう、不要なのかもしれない。一番の値をつけてくれた彼女も、私の成績の悪さに業を煮やしたのかもしれない。
「夏奈、いいよね」
 私の意思なんてきいていないような声で訊くんだ。私の日々を作るもの、筆記具やノート、櫛、髪ゴム、雑貨類はすべて彼女に買い与えられたものだ。何かがたりなくなるたびに私たちはならんで購買へゆく。私の一部は茜と同じものになっている。細々としていると思ったものは気づきもしないほど小さく、こころの一部を領地にし始めている。茜に逆らうことはできない。
「うん……」
「では、夏奈さんとお付きあいすることになりましたね。考えはまとまりましたか」
「茜のこころが私のこころだよ」気安い口調で、冗談めかしていった。そうでもしないと、考えを推し量られ、見透かされてしまうような気がしたから。この得体の知れないひとつ下の子を恐れているのがばれてしまったら、いいようにされてしまうような気がした。
「気が変わったんです。わたし、待つのは苦手なので、はやく夏奈さんのお返事をききたくなりました。それに、あまり時間をかけてしまうと夏奈さんを煩わせてしまうだけではなく、体のいい断り口実をつくられてしまう気がしたので。これもわたしの勝手ですが」