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130806(Tue) 23:07:06

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 昔々では始まらない昔話で、それは芦原にきてすぐのことだった。時間は再び桜並木に戻される。入札を終えた彼女は顔を上げ、あたしのものだといった。それからのことだ。茜の部屋に通され、まだ布団の敷かれていない二段ベッドの下の段を指さされ、きょうからここがおまえのねぐらだといわれた。
 当時の私はずいぶん気のない態度に映ったかもしれない。突然といえば突然だった。誰とも関わらず、むかしのようにはなるまいと思って越してきたのに、門をくぐって次の瞬間にはもう主人ができていた。主人と同じ部屋で暮らし眠る私というのを想像していた、立ち呆けたまま、今夜のことを考えていたのだ。小さな主人、得体の知れない彼女、ひとつ年上だというのが信じられない。そのうえ学園で一番のお金持ちだというのに質素な部屋。上段で眠る主人のことを考えながら私も眠るのだろうかはたまたとそういったまだ夢のように細部ばかりが身に迫る妄想をしていた。
「夏奈、どうしたの。もっと広い部屋がよかった?」
「いいえ。どこだって大丈夫です」
「そう、たくましいね。まあいいや。とりあえず布団も運ばせなくちゃだし、荷物も送ってきてるんだよね。持ってこさせるからゆっくりしてて。机は窓際のほうを使ってくれたらいいから」
 そういうと連絡をしてくれているのだろうか、携帯をとりだし背中を向けた。
「あの、鮎川さん……私、鮎川さんのものなんですよね」
「そうだよ。あたしが卒業するまでずっと夏奈はあたしのものだ。生活のことは何も心配しなくていい。寝る場所も食事もすべて面倒をみるから、かわりにあたしを助ける仕事をしてくれたらいい」
「……では、鮎川さんのこと、なんて呼べばいいのかわかりません。鮎川さんはわたしの、その、買ってくれたひとですから」
「そうだね、なんでもいいよ。茜って呼んでくれたらうれしいかな」
「でも、私の主人なんじゃ……」
「あたしはそんなこと一言もいってないけど、そうだね、主人って思ってくれるならそれでもいいよ。でも、呼ぶときは茜って呼んで欲しいな。それで、きょうからは茜が夏奈のご主人様だ。いままでのことは全部忘れて、あたしのために生活するんだよ。あたしは忙しいから、夏奈が助けてくれるんだ。ところで、女中になりたいとかそういう願望でもあるの? あるのなら、相応の制服を届けさせるけど」
「いいえ、秘密にしておきたいので学校の制服で結構です。後ろめたいとかそういうことがあるわけではないのです、ですが、茜とのことは私だけの秘密にしていたいのです」
「したいようにすればいいよ」
「ところで、茜の仕事を手伝うとは何をしたらいいんですか」
「なんでも、あたしが必要だと思ったことは全部だよ。あたしは投資家をしている。夏奈もきいたことあるでしょ、芦原でなにがされてるか。そこでお金を稼いでいるんだよ。仕事はいくらでもあるから、こき使うよ。これからは授業のあいだ以外はいつでもあたしのところへ駆けつけられるようにしておくこと。いつでも呼びだすから」
 それから、布団や荷物を運んでもらっているあいだ買い物にでかけた。服をあまり持ってきていないというと何枚か買おうというのだった。私はそれを断ったのに、あたしの手前適当な格好をされていても困ると押し切られてしまうのだった。そのあとは食事に行き、その様子を観察された。
 それからの数日、茜に従うものとしての作法を仕込まれた。歩きかたや食事の仕方、受け答えの言葉遣いに身だしなみ。細々とした、普段なら意識しないような規範をすべて仕込まれた。面倒とは思わなかった、あたらしい仕草を身につけるたび、言葉遣いを変えるたび、以前の私から離れていくような気が、茜の私の一部になっていくような気がしてそれがうれしかった。きっと、もうしばらくすればむかしのことはすべて忘れ、芦原に住む夏奈になれるような気がしたからだ。
 夜、一日の教程を終えたあと、眠るまえは話をした。茜は決まって私のことを尋ねた。きょうあったこと、それから、芦原にくるまえのことだ。私は世田谷にいたころの失恋を隠そうとした。その核心に近づくたび歯切れの悪くなる言葉遣いを彼女はにやにや笑いをしながら指摘したり、しなかったりした。茜は私に尋ねる、けれど、茜のほうから彼女の昔話を語ってくれることはなかったし、訊いても教えてくれなかった。
 彼女の昔話、館山出身ということもきょう知った。