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130808(Thu) 23:40:14

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8

 子茉莉の部屋は二階のひとり部屋だそうだ。むかしは学生のまがいものじゃなくて本物の女中さんがいて住み込みで働いていたらしく、そういったひとが寝泊まりをしていた場所だという。
「どうしてそんな部屋に。子茉莉だったらもっといい部屋に住めるんじゃないの」
「仕送りとかはもらえないのです。わたし、結構わがままをいって芦原にきたので、中等部からですけどね、あまりいいところには住めないんです。働くのもなんとなく機会をのがしたりして、最初にあてがわれた部屋のままです」
「……そっか」うまい言葉を思いつけず生返事みたいな返しかたをしてしまう。「茜みたいにさ、相場に手をだしたりしないの」
「そういうのには向きませんから、きっと。わたし、あまり得意なこともなくて、お金を稼ぐとかそういうことは苦手なんです。なんだか、想像ができなくって」
「うん……」
「困らせてしまいましたね。あまり気にしないでください。こういうと嫌らしいですけど実家にいるときより自由にすごせていますしこれはこれで気にいってるんです。……それでは、わたしはデートの準備があるのでこれで失礼します。楽しみにしていてくださいね、夏奈さま」
 言い切ると子茉莉は廊下のむこうへ足早に消えてゆく。小さな部屋に住んでいること、実家とのこと、最後にさま付けで呼ばれたこと。私は子茉莉のことを何も知らない。きのうはじめてあっただけではない、彼女のほうから話そうとしないことがあると思う。私にも話したくないことがある。芦原にくるまえのこと、そこでどんな生活を送っていたかは知られたくない。なのに、知られたくないと思っているだろうことを言葉の端から、語尾を跳ねあげる癖のある言葉遣いからさがそうと不要な忖度ばかりを重ねてしまっている。
「あほらし……」茜に仕込まれたものではない言葉遣いがでてしまう。
 考えたところでわかるようなものでもない。勝手な想像で自縄自縛になるより恋人になろうとしているのだからそのこころのうちに飛びこんでいくほうが楽しいだろう。それにもし、彼女の知らないところで核心に迫ってしまったとき、妄想におかされてその理由を頭のなかでつくり信じこんでしまったとき、私は選択をすることになる。恥ずかしい妄想のすべてを打ち明けてほんとうかどうか問い詰めるか、見ないふりをして付きあい続けるか。あたっていたらそっちのほうが大変だ。金を稼ぐことが苦手、想像できないといってしまう実業家一族の娘がそうなった理由が彼女内部の、たとえば不能感、とかそういったものから来ているのであったら、それを暴いてしまうのは非常な不義理だし、そこまでの信用もない私は彼女と接することもできなくなってしまうだろう。

 部屋に戻りシャワーを浴びると茜が帰ってきていた。
「ああ、シャワー浴びてたんだ。子茉莉ちゃんとデートにでもいったのかと思ってたよ」
「これからいくところ」
「そっか、汗臭いままじゃこまるもんね」にやにや笑いをしながらいわれる。
「べつに、そういうことをする気はないよ」
「恋人同士なのに?」
「だからって、しなくちゃいけない訳じゃないでしょ」
「えーつまんない」
「つまんなくてもいいの。……子茉莉はなにか準備があるから自分の部屋に戻っただけ、あとでちゃんとあうよ」
「うーん、そっか。登記にいくからついてきてもらおうと思ったんだけどな」
「いったほうがいい?」登記とは野ばら債発行のために事業体が必要になるのでその用事だろう。
「邪魔しちゃわるいからひとりでいくよ。ついでにきのう話したとおり野ばら債の登録と引き受けの準備もしておくから、そっちはあとで報告送るからデート終わったら確認しておいてね」
 そういうと茜はでていってしまう。残り二ヶ月半の短期間でどうやって青ばら債を購うのか、きのうの打ち合わせでその戦略を茜が立てた。まずは二十万個野ばら債を発行し七万個を三千円でなずな証券に引き受けさせるといっていた。そんなにうまくいくのかと思うけれど茜のことだからうまくやるのだろう。
 茜は青ばら選に向けて動きだしている。私のほうはなにもしていない。何もという訳じゃない、子茉莉と仲良くなること、恋人になることは青ばら選を有利に進める材料になるだろう。だけど、それでも、ただふたりで遊んでいる、それだけじゃ何もしていないような気になってしまう。ひとりになった部屋に寝転がる。いつもは茜の座っている座椅子に横になり、頬をつけると彼女のにおいがする。私の髪は濡れたままででも、帰ってくるころには痕跡を何も残さず乾いてしまっているだろう。
 ぼんやりとしたまま端末をたぐり寄せて芦原学園中央銀行に開かれた当座預金を呼びだす。残高は八百万ほど、これっぽっちの金じゃ青ばら債は変動しないし投票にも影響を与えない。茜に大金をあげたい、そう思っているはずなのに私は何もできない。続いて海江田組の野ばら債のチャートを確認するけど順調に値を伸ばしすべての野ばらたちの引き離しての最高値で五千七百二十八円となっている。手元の海江田組野ばら債を売ろうかと思ったけどきっと後場が開けばさっきの演説でもう少し値が伸びるだろう。なずな証取が私たちの野ばら債引き受けの発表をするのは大引け後だから時間外でもデートのあとに売り払ったほうがいい。
 いまできることは何もない。あしたから夏休み、黒潮の海温上昇に伴い熱帯化する房州の夏は非常に気温が高くなる。南中した陽がベランダに真っ黒い影をおとし、遠くの森が海からの風に揺れ、鳥と蝉の声がする。風鈴でも吊したらもう少し夏休み感がでるだろうけど、きっと茜はうるさいという。特別広い訳でもない八畳ばかりの部屋にひとりでいると寂寥感が身にせまる。実家にいたときだって同じ八畳の部屋だったのに茜がいないだけでぼんやりとした空気になってしまう。
 ひとりでいることが気になって、すこし早いかもしれないけど子茉莉に電話をかけてみる。
「子茉莉、もう準備おわった?」
「もうすぐおわりますが、どうしました」
「私のほうは準備おわったからそっちはどうかなと思って。せかしてる訳じゃないけど」準備がおわっている、なんて嘘をわざわざつかなくていいのにとだらしない自分の格好を見おろす。
「いいんです。いま確認もおわったので。どうしましょう、寮のまえで待ち合わせでいいですか」
「子茉莉はもうお昼たべたの? まだだったら一緒にと思って」
「わたしも、そうしたいと思っていました。おそろいですね。場所は……夏奈がまだ決めていないんでしたら、わたし、いいなと思う場所があるのですが」
「じゃあ、きょうのことは子茉莉にまかせるよ。楽しみにしてる」

 髪を乾かし着替えを済ませてなずな寮のまえにでると子茉莉はすでに待っていて、隣にはいのりが控えていた。子茉莉のほうは別れたときの格好のままだけど、いのりは冷房のきいた取引所に詰めているときの制服ではなく外用の夏制服を着用している。学校の盛夏服のようなデザインで、ブルーグレイの地に白いストライプを走らせたワンピースに細手の黒いベルトを高い位置で銀色のバックルで締めいる。腰のところにはいつもの鈴がさげられているのは変わらない。涼しげな装いは長身の彼女にはよく似合い、普段の地味な制服から印象を大きく変えた。小脇には籐のバスケットと大きな傘を抱え、鈴がなければ避暑地にでも行くような格好だった。
「すこし暑いかもしれませんが天気もいいですし外でどうかなと思っていのりさんに準備していただきました」
「これの準備してたの?」
「それもありますが、もうひとつあります。そちらはあとで種明かしをしますのでまずはお昼にしましょう」
 子茉莉の先導のもと歩きだす。行き先はすぐにわかるとのことで、教えてはくれなかった。彼女は秘密主義みたいだ。

「さあ、着きましたよ」
「きのうもいたけどよく来るの」そういって行き着いた場所は植物園だった。
「寮にいてもやることもないですし、外にいるほうが気分がいいので」
 そういって入り組んだ垣根のなかをなれた様子で進んでいく。なんでこんな配置になっているのかわからないけれどばら園側は整然と株がならんでいるわけではなくて垣根と垣根がくっついて迷路のようになっている。
 最後に着いた場所もきのうと同じ、垣根の迷路を抜けた先の小高くなった場所だ。いのりが大樹の陰にパラソルを立て、敷き布を準備してのどかな丘はあっというまにピクニックといった風情になる。
 靴を脱いで腰を落ち着けると風が吹いて頭上の大樹がざわめく。
「結構いい場所だね」
「夏場でも涼しくて夏奈以外のひとはひともあまり来ないので穴場なんですよ」
 いのりがポットからお茶をだしてくれる。よく冷えていて、日差しのしたを歩いたからだに気持ちいい。お茶をのんでいるあいだにも彼女は準備を進めてくれて私たちのまえに昼食がならぶ。簡単なものですが、といってだされたのはサンドイッチで、簡単というわりには耳を切りおとしたりマスタードが塗ってあったりとして丁寧なものだった。
「いのりがつくったの?」
「ええ、お口にあいますか」
「すごくおいしいよ」
「それは幸いです。夏奈さまの好みを存じ上げていなかったので不安に思っていました」
 そういって笑う彼女は外なのに足を崩さずに座り、本来なら私よりふたつ年上なだけの学生のはずなのに女中としてもっともらしく映る。
「いのりはどこかでそういう講習とか何かうけたりしたの。それとも実家がそういうお仕事とか?」
「女中としてのお仕事のことでしょうか。それでしたら何も。茜さまから教えられたことをしています。あとは、そうですね……実家にも女中がいましたので到底及びませんが真似をしているだけです」
「えっ、いのりの家って結構お金持ちなの」
「自分から申し上げるのは恥ずかしいことですが、一応そうなります」
 そういえば、松代といえば財閥を経営する子茉莉の環の家とは資産の面で劣りはするものの千葉の独立より以前から栄えていた銚子の一族の姓だった。
「そっか。ごめんね、それなのにこんなことさせちゃって」
「そんなことを仰らないでください。私は好きで茜さまに仕えていますし、夏奈さまにも同じようにさせていただいているだけです。そんな、恐縮などなさらずに気楽にしていてください」
「そう……」事実を知ってしまうことは重たくて、地雷を踏んでしまった気分になる。
「ほんとうにお気になさらず。いま申し上げたばかりですが茜さまに仕えるのが好きなだけなので、夏奈さまにも同じようにしていただきたいのです。それが私に与えられた役目ですし、それを全うしたいのです。煩うことがありましたら何なりと申しつけていただきたいですし、そこに遠慮があって欲しくないのです。なので夏奈さまも子茉莉さまのようにこうやって気軽に申しつけていただきたいです」
「……わかったよ」
「あまり遠慮をなさるようでしたら私のほうから茜さまに報告させていただきます。茜さまのご教育が行き届いていないようでしたと」
「それは、やめて欲しいな……」
「茜さまは夏奈さまに非常に気をかけられておられます。ですから、それに恥じない行いをしてください。夏奈さまがあまりぼんやりして女中のひとりも使えないようですとまた口さがない噂の種になってしまいます。なので……きのうのように水の一杯でもかまいませんから、どんな小さな煩いごとでも申しつけてください」
「わかった、わかったよ。きのうのことはもういいよ……私、そんなに酔ってた?」
「私のほうからはなんとも」
 というからには相当のものだったのだろう。きのういのりが水を届けてくれたのは茜がいないあいだだったからよかったけれど、階段でのことを話したのだった。話したというよりも一方的にこんなことをしてしまったと打ち明けて、彼女はそれに相づちをうってくれていた。
「きのうのことは、きのう話したことは忘れてください」
「夏奈さまがそう仰るのでしたら」
「きのうのこと?」不意に子茉莉が口をはさむ。
「何でもないの。きのうは迷惑をかけたみたいだね。そんなつもりはなかったんだけど結構酔っ払ってたみたいであとで部屋に水を持ってきてもらっていたの」
「ふぅん……きのうの夏奈、おもしろかったなあ。またお酒のんでくださいね」
「もういいよその話は……」
 恥ずかしさから目をそらすように横になる。
「私は頼まれましたものを引きとって参ります。緊急の際は携帯に連絡をお願いします」
 来た道を引き返し、いのりはばらの茂みのなかへ消えてしまう。取り残された私たちは無言に曝される。知りあったばかりのいまはこういったときにどんなことを話したらいいのかわからない、そういえばきのうさ、とかそういった言葉で始まる他愛のない雑談の仕方をまだ知らない。一週間もすれば子茉莉と一緒にいることにも慣れるだろう、だからこういった無言の帳がおりるのはいまだけのことだ。
 手探りのような時間が始まる、きっとどんな話題でも話してしまえば楽しくなるのに、いいだす言葉は決まっているのに、口をひらいていいのかわからなくなってしまう。丘のうえは静かすぎて、ここには私たちの他に人間はいない、大樹の陰と梢のざわめき、視界の端に見える赤と白のつるばらの垣根、背の高い青のアーチが揺れる、風にたなびく雲が丸まり転がるように尾をひいて流れてゆく。寄宿舎のなかのようではない、コンピュータとネットワークでいっぱいになった箱のなかではない。携帯はポケットのなかで眠っている。言葉を忘れてしまったようにまごついている。
「……ねえ、この木の名前は」大きな木陰をつくる木の名前を、特別ききたかったわけじゃない。
「きっとセイヨウボダイジュだと思います」
 そうして、また無言になる。彼女のほうを窺うと、私と同じく何を話したらいいのかわからないようで、口を動かしかけたり表情を憂いものから決意へとゆっくり変えたりとしている。
「わたし、不安です」
 ためらいにどんな意味があったのかはわからない。けれど重々しげに、結局決意の表情で言葉が投げられた。ながい間だまっていたせいか声がかすれたように小さくきこえた。風に溶けた瞬間にかたちも溶けて、でもそのせいで際だった彼女のいうところの不安、その内実を照らして否応のないものを想起させる。私の不安は、一体何だろう、子茉莉にかまけることで茜のことを忘れてしまうのではないかという危惧だろうか、それとも私は私の予想以上に子茉莉に惹かれていて、好きとおもうことのなかに飛びこみ忘我のような恋をすることを怖がっているのだろうか。
「夏奈さま、わたしは夏奈さまのことを好いています。ですが、それだけではありません。実家にもいわれているのです、おまえは芦原にいったのだから青ばらになれと、青ばらになって環の一族のために生きるのだと。青ばら債をあつめるようにと」
 また、夏奈さまだ。子茉莉の影がさす。見上げたかたちは梢をぬけた日差しのまだらの影になって、白い敷布に反射した光が輪郭をぼやけさせる。不安だ、いま目のまえにいる、たしかなかたちを持っているはずの彼女が寄宿舎や校舎のなかのようでないネットワークから切り離された場所にいて、消えてしまうのではないかという根拠のない不安を抱いている。赤ん坊のように彼女の顔に手を伸ばし消えかけた輪郭をとらえようとする。環の一族のことはわからない、わからないことを話し不安を吐露することで輪郭だけでないものも消えてしまうんじゃないかと怖かった。
 腕は短く彼女の縁をとらえられない。空を切るばかりの私をみかねたのか子茉莉はからだをよせ、両手で私の頭を持ちあげ膝のうえにのせた。頬に触れ、指先で感触を得て、手のひらで実感を覚えてようやく安心する。緩んだ顔をしているのだろう、笑いかけられ彼女の手のひらが額にさわりゆっくりと撫でられる。
 不意に彼女の歳を思いだす。ひとつ年下の十五歳、中等部の三年生で、忘我の恋をしたのもその歳のころだった。愛するものをもとめて駆けずりまわり、目のまえの物はすべてなぎ倒してきた。だから遠く離れた房州へいくといっても誰も止めなかった。
 求めていたものがあった、ずっとこうされたいと思っていた。私よりも細い指が額をすべる感覚、触れた膚の表面から筋肉の動きを想像し、そのずっとむこうに子茉莉がしっかりといることを想像して安心する。指先はゆっくりと移動し、髪を撫で始める。くすぐったくて、それがうれしくて手のひらの動きを追って頭をよせる。
「夏奈さま、きのうお話しできなかったことを伝えたいと思います。いまはふたりだけですから」
 何も恐れるものはなくて、いまここにあるものがすべてで、丘のうえには私たち以外だれもいないことが遙かな安心感を生む。子茉莉の腰に腕をまわし、制服のお腹の部分に顔をうずめる。くすぐったそうに笑われる。彼女の体温は想像よりも熱くて、真夏のもとでは汗をかく。
「ええ、そのままきいていてください」
 芦原へくるまえのことがずっとむかしに感じられる。世田谷にいたむかし、ふたつ年上の彼女のもとでこうしていた。でも、場所は彼女の実家で、常に脅かされていた。世界でいちばん安心できる場所は、階下できこえる彼女の家族の声や物音のなかにあった。ふたりだけの部屋のなか、同じようにしていた、お腹に顔を埋め、髪を撫でられ子供のように甘える私の影を振り払って芦原にきたはずだった。茜にだってこんなことを求めたことはないのに、もう求めないと決めていたはずの安心を求めて、求めたものを与えられることに反発もしなくなっている。金の支配する場所にくれば、この感情を、安心を、撫でてくれる腕を感情を伴わない金で買えるはずだった。それなのに無償のように与えられるものに甘え、このままではずぶずぶと依存してしまうだろう。そうしたら、茜はよろこんでくれるだろうか、それとも、嫉妬してくれるだろうか。私が骨抜きになったころ、茜は私のことを顧みてくれるだろうか。
「わたしは青ばら債を買うために芦原にやってきました。それで、海江田郁代ではなく茜さんに目をつけました。いちばんの資産家、芦原の魔女ときいていたので彼女をそそのかし、ほんとうは茜さんと青ばら選にでようと思っていたのです。ほんとうは、ほんとうのことは、来期に出馬をするはずでした。茜さんと一緒の夏奈さまを煩わしく思っていました、夏奈さまを茜さんから引き離しわたしが一緒の部屋に住まおうと思っていたのです。ゆっくりと彼女に近づき、わたしのことを大事に思ってくれるよう仕向けるつもりでした」理由なんてもう、どうでもよかった。話すあいだにも子茉莉は手を休めることはない。「でも、長い時間をすごしすぎました。ずっとおふたりのことをみていたのです。研究をかさねていたのです、ふたりがどんなことをしているのか、茜さんはどんなものを求めているのか、夏奈さまの弱点はどこにあるのか。ですが、次第に夏奈さまのことを気にかけることが増えてきました。ほんとうは、ほんとうのことなんてないのかもしれませんが、ずっとこうしたいと思っていたのかも知れません。茜さんにべったりで、身を隠しているので当然ですがわたしを振り向かないことをもどかしく思っていたのです。どこを好きと感じたのかはわかりません。執着がかたちを変えただけかもしれません。それでも、こうしてみたいと思っていたことはほんとうなのです。ほんとうに、夏奈さまが横になられたとき、求めていたものがあまりに無防備に放られ不安に思いました。わたしに触れようと手を伸ばされたとき、どうしていいかわからず内心ふるえていたのです。夏奈さまを膝にのせる手を払われてしまうのではないかと、わたしを求めるように見える手に舞いあがり判断を失っているのではないかと想像したはずなのにからだは動きをやめませんでした。わたしたちはまだ嘘の恋人同士です。かたちばかりで、そのかたちすらもあやふやで、こんな膝枕みたいなことをするのも許されないのではないかと思っていました。夏奈さまはわたしを抱きしめられて、いまは、いのりさんが戻ってきたらやめてしまういまだけのものかもしれません、ですがまたこうしたいと思っています。また、こうやって甘えられる夏奈さまのことをみたいです。わたしも、身動きなさらずされるがままにされる夏奈さまに甘えているのです。甘えて、だからこんなことも話してしまいました。きっと混乱なさるでしょう。あまりに一方的なはなしです。身も世もなく甘えられる姿をみているとわたしもそうしたくなってしまったのです。いま申し上げたことを忘れて欲しいという訳にはいきませんね、このようなことはお耳にいれるような話ではありませんが、ですが知られているというのもそれは気持ちのいいものですね。何も仰らないからといって夏奈さまに甘えているのです、こういった告白をすることすら許されている気がするのです。茜さんはそうは思われていないかも知れません。茜さんのことを追い回していたことはいのりさんには気づかれていました。きっと茜さんの耳にもはいっているでしょう。きょう、夏奈さまをまっているときいのりさんにいわれてしまいました。ずっとみていて、今度は近づかれて、子茉莉さまは何をしたいのですかと。なので夏奈さまのことを好いているだけだと伝えました。いのりさんは、茜さまに子茉莉さまをお助けするように言付けられていますと、わたしのことを応援するといってくれました。夏奈さま、青ばらにはなりたいと思います、けれどそれ以上に青ばら選のなかで恋人としてすごすことを求めています。たくさんのお金に囲まれ、そのなかでしかできないことをしましょう、どんなものより特別なことをしましょう」
 ながいながい心証の吐露はゆっくりとした口調でよどみなく行われた。彼女のからだを通じて、お腹につけた耳からぼんやりときこえてくる声は眠気を誘って私は半分夢のなかにいる。話はおわりとばかりに口を閉ざした彼女との時間が風の音のなかで百年のむかしからずっとそうしていたように感じられた。
 だからゆっくりとした動きで顔を寄せ、からだを折るのにも気づかなかった。再び頭を両腕で抱えられ仰向けにされても抵抗しようとかそういうことは思えなかった。敷布で乱反射した光が彼女の輪郭をその内で走る血の色に変え、瞳は炯々と燃えるものの淀んだように穏やかで、伏せられた睫毛が痙攣をする姿にもただ求めることだけでその意味を考えることはなかった。ここにある安心は、大きな時間を越えて保存されてきたもののように魔術的で、そうすることが何も変えることのないありふれた特別のように感じられたからだ。
 遠くからかすかに鈴の音がきこえてくる。いのりが戻ってきてしまったのだろう。顔を傾け視界の端に丘をのぼる姿が見えた。よそ見をする私を押さえつけ、子茉莉の髪が視界を覆う。時間のもっとも特別な作用のなかに私たちはいた、息遣いさえどこまでも拡大された。小さな吐息から、続いて長く吸いこむ息、唇を結ぶひそやかな音さえ取りこぼさず、彼女がここにいるという実感だけがある。額におかれた手にすこしの力がこもって、唇が触れあう。
 時間は溶け、あらゆるものが丘のうえ、子茉莉と私、ふたりだけのものだった。かたちも、意味も失って罪も存在しない。
 魔術的な覆いのなか、時間のもっとも特別な作用のなかに私たちはいた。

 境界は消え、意識もなくなっていた。すこし眠っていたらしい、寝汗をかいたからだを起こそうとすると子茉莉に頭を押さえつけられた。
 特別のなかから木々の葉を揺らす風と同じだけの早さで流れる時間に身を戻すと何もかもが曖昧になってゆくような気がした。恐れを感じ、ふたたび彼女のお腹に顔を埋めた。
「まだ眠たいの? それとも甘えたいだけ」
 時間の激流のなかでからだはだるくて口をひらく気力もなかった。やさしく撫でられる手から魔法はもう剥ぎとられ、代償に隠されていた罪が顔をあらわす。罪の目撃者はひとりだ。夏奈さまがそう仰るのでしたら、そういう彼女は茜のものだ、手となり足となり、耳と目となる。
「子茉莉さま、頼まれたものはいかがしましょうか」
 それなのに、彼女は何事もなかったかのように振る舞う。私の眠りがほんとうに世界中の時をとめてしまったかのように会話を再開しようとする。
「夏奈も起きたみたいだしそろそろ準備をしましょう」
「……いかがなさいましょうか、もうしばらくこうされているのでしたら準備に水を汲んできますが」
「それじゃあ、お願いね」
 また、彼女とふたりきりになる。ここからでも尖塔の姿がよく見える、丘のふもとのチャペルにいのりの背中が消えるのを確かめてから口をひらく。
「これから長いあいだ、子茉莉と一緒にいるんだね」
「長いあいだ、ですね。わたしにはさっきの一瞬だって長くに感じられました、夏奈が長いあいだというのでしたら、きっととても長く、わたしたちふたり老女になっているかもしれません」
「そんなことをいってるんじゃないよ。私は、あーあ、不安だなーっていってるの」
「わたしと一緒では不安ですか。わたしとではこれから先もあんなことをしたりできませんか」
「ううん。子茉莉のことは、好き。好きだよ」二心を抱いて罪をかさねてゆく。茜だったらこんなときどうするのだろう。それともこんな状況に陥ることすらないだろうか。「それでも怖いんだよ。いつかこの生活がなくなっちゃうような、もともと、こんなことをしないようにと思って芦原までやってきたのにこんなのじゃ、」申し訳が立たない、そんな言葉を口にすることこそ子茉莉に申し訳が立たない。
「夏奈さまに後ろめたいところはございませんよ。わたしがそうさせてしまったのです、望んで、夏奈さまの唇をうばったのです」
 だらだらと話していたらもういのりが戻ってきてしまった。起きあがるタイミングを逸して居心地の悪くなった膝のうえでじっとするしかない。
「やはり、もうすこしそうされますか」
「夏奈が恥ずかしそうにしているのでもうよしておきます」
 ようやくからだを起こすことができて、だからといっておかしたことが消えるわけでもない。
「……茜さまには夏奈さまと子茉莉さまがどんなことをされていたか伝えるように申しつけられていますので報告いたします。きっとおふたりの仲のすすみようにはよろこばれると思います」
「内緒にしてくれるとうれしいんだけど」
「夏奈さまは秘密がお好きのようですね。ですが、私は茜さまに忠実の義務がありますので、ご意向にはそえません」
 ちいさくため息をついてしまう。「仕方ないね……」きょうのキスはきのうのキスをどんな意味にかえてしまうのか、恐れを抱くばかりで何も考えることはできなかった。
「……あの、茜さんに報告って」
「おふたりの仲の進行は青ばら選をすすめるにあたっての重要な要素になります。唇をかさねることも戦略を形作るポイントにかたちを変えてしまいます。夏奈さまとのことは、きょうのことは私たち四人以外だれも知る由のないことかもしれません、ですが、これからはそういったことを人前でいくつもしてもらうことになるでしょう。そうでなければ、つぼみは咲くことができません」
 まるで見知ったもののようにいう。
「見知ったもののようにいう、そう思われましたね。その通りです、二年前にも私は青ばら選の進行を間近でみていました」
 私はばかなのだろう。ついいままで犯した罪をどうやって帳消しにしようかと考えていたはずなのにもういのりのいうところを想像してしまっている。子茉莉とふたりだからできたことが人前にさらされる、私の醜態をみるひとが茜と子茉莉以外にいる。
「夏奈、顔真っ赤だよ」
「だって、人前でなんて無理……。それに、茜とは毎日顔合わせるんだよ。部屋に戻ったらぜったいどうだった、とかって訊かれる……」
「はぐらかしてしまいましょう」
「口先で茜には勝てないよ。それに、いのりはきょうのことだって話すんでしょう」
「私の負う役目ですから。ですが、だからといって藪をつつくことはないですよ」
 眠るまえに話をする。一日のあいだにあったことの子細を報告する。茜はそれをうれしそうにきく。恥ずかしいからといってきょうからやめてしまう訳にはいかない。私だって茜にいろいろなことを話すのは好きだ。ほとんどは相づちを打つばかりだけど何でもないことのいちいちを彼女が聞いてくれるのがうれしくて、首を振ったり生返事ばかりだけどときどき茜のほうもどんな一日だったかを話してくれる。私はそれを記憶にとめ、彼女が眠ったあとに机に座り日記帳につけるのが好きだった。
「はぐらかそう、なんていのりさんって忠実っていうのにそういうことはいうんですね」
「私が茜さまを好いているのはそういった点ではないので」
 さらりと好き、だなんていってしまう。私の抱いている好き、とはちがう。
「そういった点じゃないって、どんなところですか」
「それは秘密です。ですが私と茜さまのふたりきりのとき、ふたりあいだのあいだだけで話すたぐいのものです」
 好きだなんてことを意識したくなくて話をそらそうとする。「それで、何を買ってきたの」
「みせてあげて」
 いのりが袋からだしたのは芦原と房州経済、ふたつの象徴である青いばらの苗だった。
「花なんて購買に売ってたっけ」
「売ってないので館山のお花屋さんにお願いしたのです。さいわい在庫があったそうですのできょうのうちに届けてもらうことにしました。せっかくの青ばら選ですから、記念植樹というわけではないですが私たちの青いばらを植えたいと思います」
 子茉莉は嬉々としてスコップを受けとる。園芸部から借りてきたのかあたらしいものではなくて錆びて使い古されたものだった。
「わたし、こういうのはじめてです。記念植樹って、みたことあるのは父やそういうひとたちばかりのものですのでわたし自身でするのは新鮮です。これも夏奈と一緒じゃなかったらしなかったでしょうし、それにわたしたちが卒業したあともこのばらは残るんですよね」
 誰もがその来歴を知らず、ばら園からすこし離れたところにあるありふれた青いばらとして、こんな人気のないところを訪れるようなひとたちが見続けるのだろう。そう思うとこの花は私の罪の象徴であるような気がしてきた、誰に知られることもない、きのうのことは私と茜といのりだけの秘密、きょうの大引け後には子茉莉とのつきあいを誰もが知るものになる。誰にも知られてはいけない秘密ができた、秘密は奇跡の花に閉じこめられ、だけど誰もがその秘密に気づくことはない。
 私たちのばらは奇跡を目指して青いばらになる。でも、その奇跡はやっぱりまがい物で、もし青ばらになることができたら、そのときのことを想像するとすこし胸がすく。きっと、奇跡なんてなかったという。金を肥やしにして咲く生臭い奇跡。そんなものでも、もし私が咲いたとき、子茉莉との恋が実を結んでしまえばきょうのことは奇跡を勝ちとる生臭い手段のひとつになって、ここに咲く青いばらは罪から解放されるような気がしたのだ。
 青いばらは奇跡でも何でもない。房州の奇跡、いまそれを下支えするのは私たち芦原市場の野ばらたちだ。日本政府は海外に散らばったまもなく償還をむかえるかつての戦時公債の買い集めを千葉内閣府に嘱託した。流出した国債は数百兆円を超え、千葉政府はいつまでも経済的膨張を迫られる。海江田月子はいつかの青ばら選で自身が青ばらになるために芦原の生徒たちを買収した、そのときの資金の獲得策が債券と馬券を組みあわせたような仕組債で、現在の野ばら債のもとになった。海江田が芦原を卒業したあとにもその買収の制度は残った。彼女が芦原学園の理事長に就任したころにはすでに千葉政府は経済的独立と引き替えに国債の買い集めを命じられ、そのお鉢が回ってきたというわけだ。各取引所に設置された私設取引システムが海江田月子の名前で発行する、流動性の低い戦時公債の買い集めを支える債券、それが青ばら債だ。
 だから、私たちの求めるものは奇跡の名をかぶせられただけの日本政府の尻ぬぐいだ。青ばら債も、いまでは千葉の国債ともてはやされるけれどその実体は外国からみれば一自治体が発行する公共債のひとつでしかない。
「さっきいったこと覚えてる?」
 鼻歌を歌いながら土を掘っていた子茉莉がふりかえり、ふしぎそうな顔をする。
「芦原市場の、寮におかれてる私設取引システムの秘密。海江田月子のかけた暗号のこと」
「覚えてますよ。でも、それが?」
「私、青ばら選に勝ちたい」
「それは……わたしも選挙には勝ちたいですが、夏奈と見たい景色がありますが、だからといってそんな簡単に手をだせるものではありませんよ。簡単にできるのならもう誰かがやっています。いえ、やっていたひとはいたのですが、見つかって少年刑務所送りです。それに、選考に残るだけでしたら海江田の問題は残りますが茜さんがいるので大きな問題ではないかと。海江田郁代だって来年度にはもういないのですからそれまで待てばいいだけです」
「そんな、いつかの話じゃないんだ。私、今回だけで絶対に勝ちたい」
「いきなりどうしたんですか。夏奈がそんなに乗り気のようにはみえませんでしたが」
「でもいまは、いまだけはすごくそうしたいの」